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気分休め

空間配置

 まあ、一つずつ、未唯宇宙を見ながら、拡大していくしかないでしょう。どうしても、順序が気になります。ロジックは空間配置だと言っているんだけど。空間配置である限りは、見えるカタチにしないといけない。

未唯の結婚準備

 嫁入り道具か知らないけど、トイレットペーパーとかティッシュなどを段ボールに詰めています。ノブの時も、結婚の準備とかはなかった。同棲から始めていたから。いまどきはそうでしょう。博子の時には、あんなに金がないのに、今から考えると、豪勢にやったという感じでした。家から、花嫁衣装で、あの坂を下って行ったんだから。

2.7「新しい数学」

 2.7「新しい数学」。何が新しいのか。今のトポロジーを超えないといけない。最終的には、LL=GGの世界をどう表現するのか。存在の無を体現化した数学になりうる。単なる空間を作るぐらいなら、現在の数学で十分です。

 「集合が点」でコンパクト性を保証します。内なる世界を表現します。内なる世界がどう絡んでいくかで、新しい空間を作りだします。そういう意味では、現在の組織を新しい観点から、あくまでもコンパクト性、集合が点であり、点が集合が点になる観点から、再構成します。

2.7.3「人も対象」

 そして、「人も対象」にできるということから、哲学と合わさった数学、本当のインフラの数学を作りだす。言葉の空間もここにあるし、一つの点がマルチで動くというところ、分化もここにあります。

 最大の要素は人間が持って生まれた、存在と無、というものを数学的にどう表現するのか、これは量子力学にも通用します。だから、数学だけでなく、哲学だけでもなく、人間も、言語も、未唯空間も含めて、存在するから意味があるのでしょう。超えています。

 存在の無と数学を結びつけるという、アナロジーが通用するのか。これは哲学です。存在と無そのものです。「人」ではなく、「哲学」にします。

気分休め

 だるくてたまらない。今日は一日、寝ている感じ。

 今日は気分休めに、チョコレート・フラペティーノにしました。グランデで丁度いいです。だけど、太いストローでも飲めないです。すくって飲みます。そういえば、Iさんもそうすると言っていた。これを楽しむには気分が必要です。

次の次の社会

 トポロジー自体が、今の社会の次の象限です。LL=GGは次のトポロジーだから、LL=GGは今の社会の次の次にあたります。それが存在の無と同位相なんです。

 これに一番近い概念を持っているのが、宇宙論です。あとは、人間であり、哲学です。哲学の時は、ハイデガーの「存在と時間」がそれに当たりますが、時間と言うのは、「死」です。死の概念が入ります。宇宙論にも死があります。だから、ビッグバーンがあります。数学には、死がない。それが弱さです。

2.7④「周縁から核」

 2.7④「周縁から核」。これは複雑性の考え方です。これを新しい数学の中でどうやっていくのか。数学科で、ポントリャーギンの「連続群論」をやって時にビックリしました。群論に連続性を入れ込んでいた。それが故に、新しい数学が成り立つのでしょう。

2.8「未来方程式」

 そうなると、2.8「未来方程式」の名前は変わります。新しい数学を基にした、社会のカタチ。それはLL=GGの世界。次の次の数学から、次の数学を見渡せる。
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中国版ツイッターの「限定版民主化」

『2023年の中国』より 中国社会はどう変わっているか?

二〇一五年二月、中国版ツイッター「微博」(ウェイボー)の登録ユーザー数が、八億を突破した。「微博」は「新浪微博」(シナウェイボー、NASDAQ:WB)のことで、中国新浪公司の運営するミニブログサイトだ。ツイッターとフェイスブックの要素をあわせ持ち、中国全体のミニブログ・ユーザーのうちの五七%、投稿数にして八七%を占める。現在、中国で最も人気のあるウェブサイトの一つだ。二〇〇九年八月に発足し、二〇一一年三月に登録ューザーが一億人を突破。二〇一二年一二月末には五億人を超えた。二〇一四年四月一七日、米国のナスダック市場に上場し、最大三億二八〇〇万ドルを調達した。

「微博」の「微」は「マイクロ」を意味し、「博」は中国語で「ブログ」を意味する「博客」の先頭文字をとっている。中国では、ツイッター、フェイスブック、ユーチューブといった海外のソーシャルメディアは政府が規制しているため、新浪公司の類似のサービスが利用されているのだ。情報が規制される中国において微博(ウェイボー)は、国民どうしが高速かつ気軽に情報を共有できるサービスであり、中川共産党政府を批判する「ゴミ箱」ともなっている。ウェイボーの誕生で、公の場での政府批判が事実上禁じられている人口約一三億人の中国で、国民一人一人が発言権を持てる時代に突入したと言える。

微博は従来、党・政府系の官製メディアから一方的に流される情報を受け取るだけだった中国人の情報環境に、「自ら発信する」という革命的な変化を及ぼした。かつては、中国において意見を発表するには新聞・雑誌・テレビなどメディアを通じて行うことしかできなかった。これらの伝統的なメディアはすべて何らかの形で党と政府の管理下に置かれているので、問題発言を最初から排除してしまえば情報規制は完了するが、微博では当局の対応が後手に回っている間に情報が拡散してしまい、民衆側の優勢が保たれてきたのである。

二〇一三年九月、中国で開かれた元重慶市トップ・薄煕来の汚職事件の裁判の様子が、「微博」で実況中継された。二〇一四年九月には、ある経済紙記者の実名による「微博告訴」により、国家発展改革委員会副主任兼国家エネルギー局局長(エネルギー庁長官)の劉鉄男(大阪総領事館で勤務したことがある)は、賄賂などの罪で逮捕され裁判にかけられた。

中国の情報公開は、微博を通じて前進しているとも言えるが、中国政府は警戒を強めている。微博のユーザーがある日突然、アカウントを無効にされる事態も相次いでいる。中でも「大V」(大物)と呼ばれる、一〇万人以上のフォロワーを持つ人物には、微博運営会社などから直接・間接的に当局の意向が、警告として告知される。治安当局が、微博に投稿された民主化活動に関する書き込みを削除するなど、規制も強化している。微博運営側の新浪公司の対応は、真っ向から対立して閉鎖されるよりも、当局の意向にできる限り沿って、少しでも表現の自由の機会を提供することが得策と考えているようだ。

政府の検閲もあってウェイボーは勢いを失ってきているが、その一方で勢力を拡大しているのがLINE型のSNSだ。最大手は騰訊(テンセント。本社は深川市)の微信(WeChat)。基本的には一対一のコミュニケーションツールだが、多数に向けて発信できる公衆アカウントや簡易SNS機能を通じて情報を拡散することができる。クローズドなSNSなので拡散力は弱いが、その分、政府の目につきにくく規制が困難だ。

「微信」は、二〇一一年一月に中国でサービス開始。同年四月、海外向けに「WeChat」として展開された。テンセントが以前より提供していた「インスタントメッセンジャー・テンセントQQ」の発展型として、メッセンジャー機能とソーシャル・ネットワーキング・サービス機能の融合が特徴と評される。海外版のWeChatは、フェイスブックのアカウントでの登録が可能である。テンセントは、豊富な資金力を背景にWeChatの海外展開を進めているとされ、世界各地に遍在する中国人ユーザーからの紹介も普及の一助になっていると言われる。

習近平指導部は、ネット空間を「イデオロギー闘争の主戦場」(中国共産党機関紙)と強く警戒し、世論という挑戦状に対応するため言論の引き締めを強めている。「民草に愛される、古き良き中国共産党の復活」がテーマの習近江だがネット対策では政府批判的な言論を封じ込め政府を支持するネット世論のムードを作ることを三μ題としてる。

二〇一四年八月七日、中国政府はスマホ向けメッセージアプリを念頭に置いた規制を公布し、即日施行した。新華社を通じて発表された規定は「即時通信工具公衆信息服務発展管理暫行規定」という名称。日本語訳すると「メッセージツール・公衆情報サービスの発展管理暫定規定」となる。「メッセージツール・公衆情報サービス」と中黒が入っているのがミソだ。メッセージツール(スマホ向けメッセージアプリを念頭に世いた用語だが、スマホに限定していないので字面を読む限りパソコン限定のサービスも対象になりそうだ)を捉供している企業だけではなく、そのサービス上で展開される公衆アカウント(企業アカウントなど多数のユーザーに情報を提供するもの)に対する規制も含まれているのだ。

具体的な規制は以下の通りである。

 ・メッセージツール提供者も、公衆アカウント提供者も、関連の資格を取得せよ(具体的な規定はなし)。

 ・メッセージツール提供者は、違法書き込み・不良書き込み削除に対応する専属スタッフを配置せよ。

 ・メッセージツール登録は実名制が必須。ただし他のユーザーに対して実名を公開するかどうかは、ユーザーが選択する。

 ・登録時には「法律法規、社会主義制度、国家利益、公民の合法的権益、公共秩序、社会道徳、情報の真実性の遵守」という「七つの守るべき一線」の遵守をユーザーに同意させる。

 ・公衆アカウントの登録にあたっては審査を実施し、その内容は当局に報告すること。

 ・報道機関資格を持つ企業の公衆アカウントは、ニュースの掲載を許可する。ネットニュース資格を持つ企業は転載のみ可。その他の公衆アカウントは許可がなければニュースの掲載・転載はできない。

 ・メッセージツール提供者は、ニュース掲載資格を持つ公衆アカウントに何らかのマークをつけるべきである。

今回の規定では、公衆アカウントの情報発信を規制し、事業者に問題情報削除の専属スタッフ配置を義務づけている。クローズドなSNSの検閲が本格化することを示す規定だと言えるだろう。
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ウィトゲンシュタインとハイデガーの解釈

『思考力を鍛える哲学問題』より

なぜあの人とは話が合わないのか? ウィトゲンシュタイン

 ハルオは昼休み先生に呼ばれました。先生はかんかんに怒っています。「おい、ハルオ!お前は何様だ?」。ハルオにはさっぱりわかりません。「何様って、強いていうなら人間様ですか?」「ばかもーん!」。声を荒げる先生。もう何かどうなっているのやら。すると先生はすかさずこういいました。「お前は学級委員のくせに、遅刻ばっかりしている」。ハルオは心の中で、それならそういってくれよと思いました。この場合、悪いのは先生でしょうか?

 ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」で解く

 学校に勤めていると、休み時問に教室や学食を見ていつも思うことがあります。どうして人はグループに分かれるのかということです。もちろん全員でコミュニケーションをとるのは大変だからという技術的理由はあるでしょう。しかし、それ以上に、みんな人を選んでいるのです。なぜなら、話の合う人とつき合いたいからです。

 話の合わない人とつき合うことほど苦痛なことはありません。極端なことをいうと、話の合う人となら、何も話さなくても長時間一緒に過ごすことが可能です。お互いに相手の気持ちがわかるからです。まるで長い間連れ添った夫婦のように。逆に話の合わない人とは、ほんの一瞬でもコミュニケーションを避けようとするのです。いくら話しても通じ合わないのがもうわかっているからです。誰だって一度はコミュニケーションをとろうと図るでしょう。でも、合うか合わないかはすぐにわかります。ひどい場合、会話さえも成り立ちません。

 同じ日本語なのに、会話が成り立つ場合とそうでない場合があるのは、実に不思議なことです。単純に考えれば、文法通り、あるいは決まった言葉を発していれば、それで通じるはずなのですが。この問いに答えてくれるのが、オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889~1951)の言語哲学です。

 彼は、言語の使用のされ方について研究することで、そのやりとりの法則を「言語ゲーム」と名づけました。この概念のとおり、私たちは日常生活において言語を交わしながら、その意味を解釈するゲームを行っているのです。いわば言葉のキャッチボールです。そして、ゲームのルールは場所や状況によって決まってきます。言語活動というのは、生活の各場面によって決定されてくるものだからです。

 たとえばウィトゲンシュタインは、「5つの赤いリンゴ」と書いたメモを渡して、人に買い物を指示する例を挙げます。その時私たちは、このメモを見た店の主人が「リンゴ」と書いた箱を開け、赤という色見本に合致する色の物体を探し、5という数字を数えていくシーンを前提としています。「5つの赤いリンゴ」というメモによって、実際に私たちが赤いリンゴ5つを手にするためには、この前提が不可欠なのです。

 つまり問題は、生活の中でその言葉がどう使用されるかという点にあるのです。これがウィトゲンシタインのいわんとすることです。だから言語ゲームは「生活形式」とも説明されます。その場合、自分だけが理解する私的な言語は言語とはいえません。なぜなら私的言語とは、それを話している者だけが知りうるものだからです。それは誰にも理解できない音声と同じだというわけです。誰かと意思疎通できるものでないと、言葉は意味を持ち得ないのです。問題はルールを共有することの難しさです。赤色や5という数字なら共通の認識を持つことは容易でしょう。いや、赤色も幅があるので、そう簡単ではないかもしれません。どう見てもオレンジに近い朱色のものも赤と呼ぶととがありますよね。色は相対的なものだからです。実際、そういうトラブルはあります。

 まして人間の感覚などというものは、もはや言葉だけでは共有不可能だとさえいえます。アンケートで「まあまあよい」という項目があって困ったりしますが、日常のほとんどの言葉はあいまいなものです。だから言葉に起因する誤解が生じ、トラブルのもとになるのです。それを避けるためには、言語ゲームという認識が不可欠です。言葉のやりとりはゲームと割り切り、ルール確認を徹底する。そうすることで、誤解は最小限に抑えられるはずです。それを割と厳密にやっているのが、法律の世界です。法律は文言がすべてですから、相当厳密に解釈をしようとします。お互いの認識が異なると、そもそも意味をなさないからです。

 そこまでいかなくても、私たちはもっと日常使っている言葉に敏感になっていいような気がします。メールのように言葉のニュアンスを伝えにくいツールが頻繁に使われることで、多くのトラブルを生んでいます。もちろん直接話せればいいのですが、常にそういうわけにもいかないでしょうから、やはり言葉に神経を使うしかないのでしょうね。

なぜ子供は勉強しないのか? ハイデガー

 中学生のコウイチは、父親が土日に大学院に通い始めたことが理解できません。どうして学校を出てからまた勉強なんてするんだろうと。しかも働きながらです。コウイチはもっと時間を有意義に使いたいと考えています。だから塾にも行っていません。この違いは何なのでしょうか?

 ハイデガーの「根源的時間」で解く

 子供は遊びが大好きです。それは子供の仕事といってもいいでしょう。だから仮に高校生が、親に「遊びに行ってくる」といっても、なんら違和感はないわけです。これが家庭を持つお父さんやお母さんのセリフだったらどうでしょう? 「おい、ちょっと待てよ」となりますよね。しかし、本来子供は勉強しなければなりません。それが子供にとっての本当の仕事です。でもなかなかやらないのですよね。どこの家庭でも、「勉強しなさい」という親の言葉をよく耳にします。子供のほうは嫌なことはできるだけ先延ばししたいので、決まって「後でやるよ」と言い返すのです。もちろんやりません。

 そんな子供たちも勉強をすることが必要なことくらいはわかっています。大人になるために、社会で生きていくために、勉強が必要なことは十分承知なのです。では、なぜやらないのか? それはまだ時間があると思っているからです。その証拠に、大人になればなるほど慌てて勉強し始めますから。社会人なんて、働きながら夜勉強したり、隙間時間を惜しんでやっているわけです。

 つまり子供が勉強しないのは、時間という概念に関して焦りがないのです。言い方を換えると、時間の有限性に気づいていないわけです。この問題についてドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(1889~1976)の思想をもとに考えてみましょう。

 ハイデガーは、死という重い問いに対して、前向きな答えを提示した思想家です。人間は誰しも、死という根本的な不安を抱えています。にもかかわらず、ハイデガーは、この不安を「先駆的決意性」という前向きな気持ちへと転換しようとしたのです。簡単にいうと、先駆的決意性とは、死という人生の先にある可能性を先回りして了解し、受け入れるといった意味です。

 ハイデガーは、人間を時間の中に位置づけることで、誕生と死にはさまれた存在の有限性を自覚させようとしたのです。これによって人間は、死に直面して打ち砕かれながらも、すでに投げ込まれている自分の現状に立ち返り、自らの固有の可能性に目を向けて、瞬間的な決意へと強いられることになるのです。つまり、死へ向かう存在として、代理不可能な固有の生を生きることになるということです。

 誰しも死を意識すれば、本気で生きるようになるものです。その本気になった姿こそが本来の人間だといいたかったのでしょう。このように(イデガーは、有限な生を意識するための契機として、死を肯定的にとらえたのだといえます。だから死の哲学者などと呼ばれるわけですが、その意味は決して否定的なものではないのです。むしろ、充実した時間を生きることを説いたのですから、充実した生のための哲学者と呼んだほうがいいくらいです。

 さて、最初の問いに戻りますが、子供はこのような意味で死を意識することはありません。人生は永遠に続くと思っているのでしょう。それに対して人人は、(イデガーがいうように、死を意識し始めます。年をとればとるほどその感覚がリアルになって、焦りが生じます。だから残された時間を有効に生きるべく、一生懸命勉強するのです。

 私もそうです。年をとるどとに勉強に対する熱意は上昇しています。実際、より勉強するようになっていると思います。ただ問題は、年をとると時間の確保も難しくなるし、頭もかたくなる点です。その意味では、本来は子供の時に勉強をしておいたほうがいいのですが、それがなかなかできないのです。

 子供に死の話はタブーであるかのようにいわれます。でも、決してそんなことはないと思うのです。後悔しないようにするためには、早くから人生が有限であることに気づき、時間を大切にして努力するほうがいいのではないでしょうか。少なくとも私は、そんなことをいってくれる人が周りにいたら、後から感謝したと思います。そして何よりもっと若いころから努力して、今以上に成功していたことでしょう。同じことを10年後にいいたくないので、今日から益々頑張りたいと思います。
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