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黒死病による人口減少 オーストリアとドイツ

『ペストの歴史』より 黒死病による人口減少

ドイツ語圏では農村の状況が明らかではなく、情報は都市に片寄りがちである。黒死病はイタリアからアルプス山脈を越えてドイツ、オーストリアヘ達した。一三四八年六月、もっとも早期に黒死病が及んだミュールドルフでは、数カ月間に一四〇〇人の死者を出したが、バイエルン地方など南ドイツの状況はわからない。確実なのはウィーンで、ハンガリーから侵入した黒死病が一三四九年四月から大流行したことにある。死者の数は年代記によって一日二〇〇人から二一〇〇人までまちまちで決め手を欠くが、『ノイペルク修道院年代記』によると、住民の約三分の一だけが生き残ったという。

北ドイツと中部ドイツの都市部については断片的ながら職業上の状況が判明する。ブレーメンでは、市議会が死者のリストを作成したが、それによると、六九六六人が犠牲になった。人口が一万二〇〇〇から一万五〇〇〇しかいない同市では、それは死亡率が半分近くから五分の三を意味した。しかし、実際にはそれに未確認の貧民を加えねばならない。そうすると、七五〇〇人から八○○○人になるのである。重要なハンザ同盟都市ハンブルクでは、三四人のパン屋の親方のうち一二人が、四〇人の肉屋のうち一八人が、五〇人の都市行政官のうち二七人が、二一人の市議会メンバーのうち一六人が死亡した。一番重要な(ンザ同盟都市リューペックでは、三〇人の市議会メンバーのうち一一人が、五人の都市行政官のうち二人が、資産家全体の二七%が犠牲になった。その他、中小都市では、ヴィスマールが都市行政官の四二%を、リューネブルクが都市行政官の三六%を失った。そうした状況からゴットフリートは北ドイツでは死亡率を二五~三〇%としている。

さらに、中部ドイツでは、フランクフルトで一三四九年のある七二日間で、黒死病のために二〇〇〇人が犠牲になったし、リンブルクで二四〇〇人、マインツで六〇〇〇人、ミュンスターで一万一〇〇〇人、エルフルトで一万二〇〇〇人が死亡した。

そうしたなかで、例外的に黒死病による犠牲の少ないバイエルン地方のニュルンペルクは注目に値しよう。そこは近隣のヴュルツブルク、プラ(などと同様、最小限度の犠牲ですませることができた。ニュルンべルクはアルプスをはさんだイタリアとの交易の中継地のひとつで、十四世紀初頭には、人口が一万五〇〇〇から二万を数えたが、犠牲者は約一〇%ですんでいる。なぜ犠牲者を少数に押さえ込むことができたのか。ペネディクトヴはその理由として季節と天候をあげる。つまり、寒い季節と悪天候のため侵攻速度がにぶり、黒死病は停滞したからだという。しかし、ゴットフリートはその他の理由をあげる。それはニュルンべルクが公衆衛生に熱心であったからである。街路は舗装され、定期的に清掃されてごみひとつ落ちていなかった。豚の徘徊も許されず、市民は身ぎれいにしていた。多くの労働者の賃金に入浴料金が含まれていた。市内には一四の公衆浴場があり、厳しく管理されていた。市には専属の医師団がいて、民間には薬屋、外科医も少なくなかった。彼らの助言で、遺体は市壁の外へ埋葬されることになり、死者の衣服、寝台は焼却され、部屋は煉蒸された。そうした徹底した対策により、黒死病の魔の手からニュルンペルクは免れることができた、という。南ヨーロッパの都市のように、黒死病の直撃を受けなくてすみ、侵攻までに十分時間的余裕があり、もともと公衆衛生の素地があったための勝利であった。

以上がドイツの状況である。死亡率はイタリア、フランス、ブリテン諸島に比べて低く、北ドイツの都市部で二五~三〇%であったとされるが、ケリーは近隣諸国のそれとほぼ同じとする。

オランダについても言及しておこう。情報は断片的でまとまりを欠く。そこでは都市化がある程度進んでいたが、ゴットフリートはホラント地方について人口の三〇~三五%の減少であったとする。しかし、ケリーは南部地方について死亡率が一五~二〇%であったとしている。
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