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イスラーム国と21世紀のイスラーム革命

『脱永続敗戦論』より

世界中で展開する現在進行形の革命について論じるうえで、いまイスラームの話を避けて通るわけにはいかなくなってしまっている。アラブ革命についてはすでに見たが、たとえばエジプトでの出来事は長年にわたる圧政への抵抗であって、イスラーム世界における革命、いわば彼らの主導権争いとは別に考えたほうがよい。では、いわゆるイスラーム国はどうか? アラブ革命のところでも少し触れたが、イスラーム国が行っていることは、世界中で展開するイスラーム革命の中でも特異なものとして位置付けておく必要がある。

にもかかわらず、彼らの活動がメディアでショッキングに報道されるだげに、本当に世界で起こっていることを見誤る可能性があるからだ。『イスラム国 テロリストか国家をつくる時』の著者ロレッタ・ナポリオーニは、この集団を次のように描写している。

第一次世界大戦以降初めて、フランスとイギリスか線引きした中東の地図を武装組織が書き換えている。征服戦争を遂行中の「イスラム国(IS)」は、つい最近まで「イラクーレバントのイスラム国」またはISILあるいはISISという略称で知られていた。この武装組織は、一九一六年にサイクス=ピコ協定(イギリス、フランス、ロシアの三カ国がオスマン帝国の領土分割を取り決めた密約)で定められた国境線を破壊しつつある。彼らが制圧した地域はイギリスやテキサス州よりも広く、シリアの地中海沿岸部からイラクの内陸奥深く、スンニ派の居住地域にまでおよんでおり、その全域でイスラム国の黒と金の旗が翻るのを目にすることができる。

ここからわかるのは、まずこの集団が武装組織であるということ。そして戦争によって国境線を破壊しているということである。規模の大きさと国家形態を整えつつあるという点で、他のテロ組織とは二線を画する側面が強調されがちであるが、やはりテロ組織であることには違いがない。まずそこのところをよく認識しておく必要がある。

そのうえで大事なのは、彼らがイスラーム世界の代表ではないという事実認識である。この点について中東地域研究の専門家池内恵は『イスラーム国の衝撃』の中で次のように表現している。

各国の政権や政権に近い多くの著名・有カウラマー(イスラーム学者)は、いずれもバグダーディーのカリフ就任の承認を拒絶している。それは、「イスラーム国」が既存のアラブ諸国・イスラーム諸国の領域と政体を全否定していることが自明である以上、当然の反応だろう。一般のイスラーム教徒にしても、「イスラーム国」の過酷な統治を歓迎する者が現状で多数を占めるとは考えにくい。

このように、イスラーム国は極めて特異な存在であるにもかかわらず、いま彼らのせいで世界中にイスラームフォビア(イスラーム恐怖症)が蔓延してしまっている。イスラームと聞くと、ついテロ行為と結びつけてしまうのである。

ただ、そのきっかけはもっと以前にあったといっていいだろう。2001年9月11日に起こったあのアメリカ本土での同時多発テロ以降、その傾向が顕著となったのである。キリスト教徒の多いアメリカが攻撃対象となったうえに、当時のブッシュ大統領によるキリスト教対イスラームという露骨な構図設定もあいまって、世界はサミュエル・ハンチントンが予測した「文明の衝突」状態に陥ったとする見方が大勢を占めたのである。

しかし、当然のことながらイスラーム全体が西洋社会に攻撃をしかけようとしているわけでぱない。現在のイスラーム国による勢力拡大も、イスラーム社会全体を代表するものでは決してないのである。現に、世界中のムスリムたちはイスラーム国を非難している。

したがって、まずはイスラーム・イコール・テロなどという大雑把な見方を覆す必要がある。その点で参考になるのが、イラン系アメリカ人の宗教学者レザー・アスランの言動である。イスラーム社会を分析したデビュー作『変わるイスラーム--源流・進展・未来』で世界的注目を浴び、最近ではキリストの出自について著した問題作『イエス・キリストは実在したのか?』で全米を論争に巻き込んだ人物である。

アスランは、西欧社会対イスラームの「文明の衝突」が現実のものとなったかのようにとらえる通説的見解を退ける。つまり、9・11のテロ事件は、イスラーム社会内部での改革派と反改革派の対立が顕在化したものにほかならないというわけである。つまり、かつてユダヤ教やキリスト教で起こって来た「宗教改革現象」が、イスラームの内部にも起こっているのだという。

イスラームの宗教指導機関は、宗教的知識を独占することによって、個別の問題についての宗教的判断を担ってきた。ところが、今は識字率と教育がめざましく向上したことによって、ムスリムたちは新しい考え方や情報源に容易にアクセスすることができるようになったのである。

その結果、伝統宗教的機関の権威が低下し、ムスリムたちは自分がベストだと思った新しい権威のファトワー(法的見解)に従うようになってしまった。そうした新しい権威の一人が、さきの同時多発テロの首謀者と目されるウサマ・ビン・ラーディンだった。

このように見ると、今こそイスラーム社会には、抑圧的な権威主義から解放されて、宗教的多元主義の理想が実現される土壌が整いつつあるのだともいえる。アスランによると、もともとイスラームは宗教的多元主義をとってきた。クルアーン(聖典)は他の宗教の伝統に敬意を払ってきたのである。それが歴史上解釈を通じてねじまげられてきたというのだ。あたかも他の宗教を認めない非寛容な宗教であるかのように。

したがって、もし宗教的多元主義が実現すれば、様々な宗教的背景をもつ人たちが、地球規模のコミュニティを自発的に形成するための民主的な理論的枠組みとして機能するはずだと主張する。何しろイスラームは世界中に広がっており、地球規模のコミュニケーションツールとして活用することが可能だからだ。アスランはよく宗教を言語にたとえるが、今我われが英語を使ってやっているように、イスラームを介して、世界の人々がお互いを理解し合うことも可能だというわけである。

そのためにはまずイスラームに対する偏見を払拭する必要があろう。いや、宗教そのものに対する偏見といってもいいかもしれない。アスランは2014年10月8日付のニューョーク・タイムズに、「宗教を誤解しているのはビル・マーだけではない」というタイトルのコラムを寄せている。そこで彼が訴えているのは、宗教は信仰や実践というよりも、むしろアイデンティティに関する事柄にすぎないということである。
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アラブ革命の混沌--SNSは世界を変えたのか?

『脱永続敗戦論』より

現在進行形の革命にはいくつかの特徴がある。それは前に紹介したマルチチュードのような21世紀型の革命ならではの特徴といっていいだろう。その一つかSNSの利用である。フェイスブックやツイッターといったテクノロジーが、世界を変えるきっかけになっているのはたしかである。もちろん、テクノロジーはあくまでツールであって、それを活用する人間のメンタリティか革命的でない限り、革命か起こることはあり得ない。その点で、新しいツールを操る新しい世代が実際に革命を起こした典型例として、アラブ世界の革命、とりわけエジプトで起こった出来事に目を向けてみたい。

2010年12月にチュニジアで起こった民主化運動「ジャスミン革命」は、23年間も続いた独裁政権を転覆させることに成功した。そしてこれに影響を受けたエジプトでも、なんと29年間独裁を続けたムバラク政権を転覆させるに至った。そこで大きな役割を果たしたのが、インターネット、とりわけフェイスブックをはじめとしたSNSであった。それは情報を伝達する手段だけではなく、新たな文化や価値観自体をもたらしたのである。

そう、この革命は手法だけでなく、その持つ意味合い自体が新しかった。この点について現地を取材したジャーナリストの田原牧は、『中東民衆革命の真実』の中で次のように述べている。

しかし、この叛乱の意義の分かりにくさが逆に引っかかる。分かりにくい、つまり、過去の革命のパターンやセオリーを適用しにくい。それは新しい何かがあるからではないか。だとすれば、この叛乱は世界を変える序曲かもしれない。無意味なのか、それとも新しい何かなのかの間を行きつ戻りつしながら、気持ちは次第に後者へ傾いていく。

彼らが倒したのはムバーラクだけではなかったのではないか。マルクス・レーニン主義に代表される前衛党を不可欠とする革命観や、ともすればアラブ民族主義までも打倒したのではないか。これはグローバル時代の新しい革命の萌芽ではないだろうか。

アラブ革命には、新しい何かがあった。一言でいうならば、それは従来の革命観を突き崩す新しい価値観。その内容を記述するのは簡単ではない。ただ、この革命の担い手たちか、教条主義的なスローガンを掲げたり、明確な青写真を描いていなかったことだけはたしかだ。そしてその事実こそが新しい価値観なのである。

革命とは常にきな臭いものであった。自由や平等、あるいは共産主義が掲げられ、明確な指導者がいて、若者はただの親衛隊にすぎなかった。それはアラーバディウが回想しているように、1968年の学生運動でさえそうであった。

しかし、アラブ革命の若者たちには、1968年とは異なるさわやかさが垣間見える。いささかのきな臭さも漂ってこないのである。これはいったい何なのか? 先述の田原は倫理という言葉でその事態を説明しようとする。

彼らは破壊の空隙に「○○主義」ではなく、倫理を吹き込んだ。ウィキリークス、チュニジア、エジプトを貫く新たなグローバルな叛乱の特徴はここにある。大きな物語を抱いたネオコン、トランスナショナル・ジハーディストたちが去った後、空っぽな舞台を埋めたのは別の物語ではなく、倫理という普遍的な価値だった。

若者たちのさわやかさを生み出す倫理。田原はムバーラク退陣の翌朝、せっせと広場を掃除する若者たちの姿にその倫理を象徴させている。彼らぱ正しさを求めた。正しく生きること、正しく主張することを求めた。壮大な腐敗の中で、生まれた正義である。動機はそれだげだ。だからさわやかだったのだろう。

もっとも、ここまでさわやかさを強調すると、昨今のいわゆるイスラーム国の動向に鑑みて違和感を覚える人もいるかもしれない。ただ、イスラーム国で起こっていることは同じ中東でも別の事態であって、あれは国家をかたるテロにほかならない。既存の国家において圧政を転換しようと働きかけるのと、他国の領土を奪って圧政を始めるのとはまったく異なる行為であることに留意が必要である。

それでもやはり、その後アラブ革命か座礁に乗り上げてしまったという事実から、あの革命のさわやかさに疑問を呈する人もいるだろう。しかし、革命が挫折してしまったことによって、その革命の手法がさわやかであったことまで否定するのは困難である。いや、そもそもアラブ革命は失敗だったのだろうか?

この点について田原は、前掲書の続編ともいえる著書『ジャスミンの残り香』の中で次のように述べている。革命のその後を追ったレポートである。

歴史は間断なき時間の集合体である。過去に束縛されない現在はない。革命には飛躍が付きものだが、それはあらゆることが唐突に異次元に移されることとは違う。

独裁政権という権力が新しい力の誕生によって倒されると、その独裁政権によってそれまで抑えつけられていた勢力が台頭してくる。その中で最も強い集団が新たに政治権力を握る。エジプトでは、それがムスリム同胞団だった。だか、その勢力が革命の理念を踏襲しているという保証はない。

そうではない場合、当初の理念に殉じようとする勢力はこの新しい政治権力と対峙せざるを得なくなる。そこを潜らないと、自分たちの抱いていた夢がかなわない。結局、たった一回の政権打倒によって革命の理念が完成されることはないのだ。エジプトの「革命」からの三年間は、そうした普遍的な教訓を提示していた。

そう、革命ですべてか変わるなどと考えるのは、あまりに理想主義にすぎるということである。当たり前のことだが、革命は破壊あるいは転覆を目指している。しかし、その後のことをしっかりと準備して市民が立ち上がることは考えられない。革命とはそういうものだ。それゆえ混乱を乗り越えなければならないのである。革命の評価はその部分にかかってくる。

革命を経験した西洋社会がそうであったように、大事なことは革命によって政権が転覆することでも、それによっていい社会かできることでもない。本当に大事なのは、市民の覚醒である。田原もそれに気づいたという。

革命が理想郷を保証できないのであれば、人びとにとって最も大切なものは権力の獲得やシステムづくりよりも、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないのか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。

革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。

革命観の転換。いわばそれは、権力の移行としての革命から、人間の成長としての革命と表現してもいいだろう。革命を経ることで、市民が覚醒し、強くなる。そこに意味を見出すべきなのだ。一番いけないのは、革命を理想化しすぎて、権力移行がうまくいかなかったことで政治に背を向けてしまうことである。

したがって、我われがこの現在進行形の革命から学ぶことができるのは、次のことである。つまり、革命の本質は市民の覚醒にあるのであって、その意味で必ずしも革命そのものを起こす必要はない。日本で我われがやるべきなのは、市民の覚醒にほかならないのである。自分たちには何もできないという諦念や無力感を払拭し、その気になれば社会を変えることかできる潜在力を持っていると気づくことである。それは歴史を正しく伝え、熱心に啓蒙的呼びかけを行い、かつ実際に世界で起こっている問題に目を向けることで可能になるはずである。
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グーグルカーが目指すもの

『アップル、アマゾン、グーグルのイノベーション戦略』より

グーグルは2つのアプローチから自動車産業への参入を進めている。ひとつは、自社のOSであるアンドロイドを車載システムに組み込むことで車内の娯楽やナビゲーションを充実させる取り組みである。グーグルは、GM、アウディ、ホンダ、ヒュンダイといった既存の自動車メーカーなどと、OAA(Open Automotive Alliance)というコンソーシアムを立ち上げて、これらの開発を進めている。

2つ目の動きは、自動運転車であるグーグルカーの開発である。自動運転車とは、自動車や歩行者など周囲の障害物を認識して、交通状況に応じながら的確なステアリング操作をコンピュータが行い、人の力を借りることなく目的地まで連れていってくれる自動車を意味する。開発中のグーグルカーには、ハンドルやアクセル、ブレーキペダルがなく、乗車してスタートボタンを押せば、車が目的地に向かって動き出してくれる。グーグルカーは100パーセント自動運転であるため、走行中は運転に気をとられることなく、会話や読書、睡眠など自由に過ごす時間に充てることができる。

こうした2つのアプローチで、グーグルは次世代自動車の開発を進めているが、非連続性の観点から見ると、2つ目の動きが特に重要である。グーグルは、グーグルカーを開発するうえで、既存の自動車に自動運転機能を追加するという方法を採らず、ゼロから独自に開発を進めている。グーグルが考える自動運転の基本は、4種類のデータを重ね合わせることにある。まず、GPSによりおおよその位置を測定する。次に、ピカサ(Picaa:画像管理ソフト)を使い、グーグルマップやグーグルアースを基に地図データのベースを作成する。さらに、交通標識や信号機、路面の表示などのインフラ情報を打ち込んだデータをその上に載せる。最後に、グーグルカーで収集した3Dマップを重ねる。グーグルはこれら4つのデータを重ね合わせることにより、位置情報の精度を高めている。

一方運転中に瞬時に変化する周囲の環境を的確に判断して、それに応じた命令を動力系統に与えることも自動運転には必要不可欠である。グーグルは、グーグルカーに多数のセンサーを備えることでこれに対応している。中でもグーグルカーの心臓部と呼ばれ重要な役割をしているのが、ライダー(Lidarp)である。車体ルーフ上に取りつけられたこの装置は、1分間に300~900回転し、音波により車体の周囲360度を3Dマップ化している。しかも測定可能距離は、路面状況は車体から約50メートル、建物などの物体は約120メートルにも及ぶ。

また、フロントバンパーに3つ、リヤバンパーに1つ完備されているレーダー探知機は周りの物体を検出し、前方200メートルまでに走行する自動車を発見すると、自動的に減速し車間距離を保つ役割を果たす。さらに、ソナーが音波により物体を探知し、約6メートルの距離を水平方向60度の範囲でカバーする。この他にも、ステレオカメラや位置特定用カメラ、ポジションセンサーなど多数のセンサーがグーグルカーには配備されている。グーグルはこれらのセンサーを駆使することで、情報の精度を高めるとともに安全性を確保している。

グ-グルの共同創業者であるセルゲイ・ブリンは、こうしたグーグルカーを「消費者が使いたいときにだけ使うオンデマンドサービスである」と表現している。もし、こうした使い方が現実のものとなれば、従来自動車を所有し利用してきた自動車産業の基本概念を大きく転換させることになる。

また、人による運転から車による自動運転への切り替えは、利用者とメーカーの双方に大きな価値をもたらす可能性を秘めている。利用者にしてみれば、100パーセント自動運転の実現は、走行中の自由時間やドライブのあり方を新たに提案してくれるものであり、人的ミスによる交通事故の危険性を回避してくれるものでもある。現代の交通事故のほとんどが人的ミスに起因してい。ることを考慮すれば、その効用は計り知れないものとなるであろう。だが一方で、自動運転車に事故が起きた場合の法的責任などは課題として残ることになる。

他方メーカーにしてみれば、自動運転車は乗る人に特別なスキルを必要としないことから、自動運転車の利用者が増えることになり、新たな経済的価値が期待できる。しかし、自動運転車の実現には、安全性を担保できる技術の開発とそれにかかるコストとのづフンスや合理的なビジネスモデルの構築、さらには新たなパートナーシップやエコシステムの構築など、流動的な要素が残されていることも確かである。

グーグルカーの開発は、成熟期を迎えた重厚長大な自動車産業に構造的な破壊をもたらすとともに、新たなるビジネスの可能性を広げようとしている。グーグルは、最終的に自動車産業でも自社がこれまで構築してきたビジネスモデルを貫き通すであろう。それはアンドロイドを組み込んだ自動運転車としてのグーグルカーをオープンソースとして公表し、無償でメーカーに製造させることでグーグルの占有率を高め、車内の娯楽やナビゲーションなどウェブアプリケーションを充実させることで、広告収入に結びつけるというものである。グーグルがアンドロイドの組み込みと自動運転車の2つのアプロー・・チから次世代自動車の開発を進めていることがその証左でもある。グーグルは圧倒的なテクノロジーの力を背景に、今後もさまざまな分野でムーンショットを連発するであろう。グーグルによるイノべーションの歩みは、止まるところをしらない。
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イノベーションを生み出す企業文化を組織のあり方

『アップル、アマゾン、グーグルのイノベーション戦略』より

グーグルの企業文化は、一言では語りつくせない。会社の気質がそこで働く人々の気質の総和であるとの理解から、素晴らしい気質の会社すなわち革新性に富んだ会社を創るために、グーグルは理想とする人材を「スマート・クリエイティブ」と称し、リクルートの選定基準として設定している。『How Google Works--私たちの働き方とマネジメント』の中でエリック・エマーソン・シュミットらが、スマート・クリエイティブに当てはまる特徴として、高度な知識を持っている、経験値が高い、分析力に優れている、ビジネス感覚が優れている、競争心が旺盛である、ユーザーを十分に理解している、好奇心が旺盛である、リスクを厭わない、自発的に行動する、あらゆる可能性にオープンである、細部まで注意が行き届く、コミュニケーションが得意であることを挙げている。これらの特徴をすべて兼ね備えた人材が世の中には数えるほどしか存在しないことを前提に、グーグルは「ビジネスセンス」、「専門知識」、「クリエイティブなエネルギー」、「自分で手を動かして業務を遂行しようとする姿勢」の4つをスマート・クリエイティブの基本的要件として掲げている。

グーグルの経営者たちは、こうした要件を備えたスマート・クリエイティブが自由にモノを考える環境をマネジメントすることに注力している。たとえば、能力主義を徹底させるために、「異議を唱える義務」を重視する文化を社内に浸透させている。ある考え方に問題を感じれば、懸念を表明する必要性が生じる。なぜなら、意思表明をしなければ、最高とは言えない考え方が社内でまかり通ることになるからである。能力主義は、意思決定を高めるとともに従業員のすべてが自分は大切にされ、多大な権限を与えられていると感じられる環境を創り出してくれる。異議を唱える義務を重視する文化は、何事にも明確な意見を持ち、常に発言する姿勢を持つといったスマート・クリエイティブの習性を十分に活かすものであった。

一方で革新性に富んだ会社を創るためには、相応の組織づくりが必要となる。グーグルはさまざまな方針から理想とする組織づくりを進めているが、非連続性を生み出す視点から特に重要なのは、次の2つの方針である。ひとつは、組織をフラットに保つことである。グーグルは、スマート・クリエイティブが常に意思決定者と直接折衝できるようにするため、フラットな組織づくりを心がけている。フラット化により、スマート・クリエイティブの斬新で画期的なアイディアが常に意思決定者に届くことになれば、スピード感をもった仕事が可能となるし、何よりもこうしたアイディアが埋もれずに成就することになる。グーグルではフラットな組織を保つために、「7のルール」を採用している。これは、意思決定者が最低でも7人の直属部下を持たなければならないというルールである。本来フラットな組織を作るには、中間管理職を全廃する必要があるが、現実には不可能であるため、このルールが設けられた。このルールの導入により、組織がフラットになることで、スマート・クリエイティブの自由度はより大きくなった。

2つ目の方針は、組織を機能別にすることである。組織を事業部、もしくはプロダクトライン別に編成すると、個々の事業部が自分たちのメリットだけを考慮して動き、人や情報の自由な流れといった流動性が阻害されることになるため、グーグルでは機能別に組織を編成している。確かに、エンジニアリング、プロダクト、セールス、財務、法務などの機能別に編成された組織であれば、新たに革新的なアイディアが生まれたときに、それを孵化させるため人材や情報を横断的に適材適所で使うことが可能となり、イノベーションが展開しやすくなる。流動性を伴う組織こそ、イノベーションとの親和性が高いというわけである。こうした流動性は、20%ルールによりさらに促進されることになる。20%ルールの最も重要なる成果は、そこから生み出される新しいプロジェクトやプロダクトではなく、普段一緒に仕事をする機会のないさまざまな組織の人間と協力し、通常業務では使わないスキルを学び新しい試みにチャレンジすることで、一人ひとりの社員が革新性の面からより多くの経験を学ぶことにある。多くの経験を積むことでスマート・クリエイティブがさらに優秀なる企業家に育つというわけである。

グーグルの組織は、フラットな組織にしても、機能別組織にしても、プロダクトの優位性に意識を集中させることがその前提となっている。最高のプロダクトを人々に届けるには、どうすれば良いか。それは、優れたアイディアを生み出す可能性を秘めたスマート・クリエイティブに大きな自由度を持たせることである。彼らが与えられた責任を果たせるのは、まさにグーグルに根づく企業文化と組織によるところが大きい。
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「戦う!書店ガール」の原点

FaceBookによる孤立感

 今、環境をやっている連中に対して、根源的なことをなぜ、やらないのか。生きている理由からやればいいです。世界がなんであるのか、自分がなんであるのかで十分です。

「戦う!書店ガール」の原点

 「戦う!書店ガール」で理想の書店員を考えていた時に、思い出したのが、「ユー・ガット・メール」です。メグ・ライアンとトム・ハンクスの1998年の映画です。

 1993年の「めぐり逢えたら」。あれもいい映画です。シアトルの街を知った。雨が多いことも。「町の小さな本屋さん」という絵本専門店。店を辞めた後も、絵本の知識で町の人の役に立った。

 ゴットファーザーからの引用で、「戦え!」で市民とデモ行進を行っていた。AOLでのハンドルメールで「ショップガール」。何となく、イメージがつながってきます。あの中に、街の風景として、スタバが出てきました。注文の仕方もその時に覚えたと思います。その辺の関係をTVガイドに登録しておいた。

10.1「多くの人が生きられる」

 「多くの人が生きている」は生きている意味から捉えようというものです。これは人間が存在することと、ものすごく、関わっています。単純に言っているわけではない。

 存在の哲学もそこから言いたかったんでしょう。そんなところから始まる。根本から始まる。それで再構成させていく。だから、哲学が生きてくる。

 生きている意味と項目をつなげるのは、容易ではない。だけど、やはり、つながっている。先人がやってきたこと、個人が生きている意味と全体をどうつなげていくのか。一番、最初だから、まあ、飛ばしていきましょう。

10.2「歴史哲学」

 そう考えると、10.2「歴史哲学」が生きてきます。哲学の帰結です。「生きていく力」と「生きている意味」とがつながります。

 哲学が社会を変えるという、項目名になるかもしれない。そして、重要なのは、「自由と平等」。存在の哲学の意味は「平等」まで含んできます。格差解消です。平等の裏返しは格差です。

 このところ、本の題名に格差が多く出てきています。人間は自由であるために民主主義を作ったが、格差が発生した。それをいかに解決させるというよりも、根本から考えていくのが「平等」です。
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