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サーバント・リーダーシップ

『NPOの後継者』より

サーバント・リーダーシップ

 NPO法人のようにフラットな組織や団体の運営において参考にしたい考え方として、「サーバント・リーダーシップ」というものがあります。

 サーバント・リーダーシップは、1970年にロバート・グリーンリーフ氏が提唱した言葉で、まず相手に奉仕し、その後相手を導いていくことによって、相手の信頼を勝ち取り主体的な協力を得ることができるという考え方です。

 これは、地位や権力やお金で相手の上に立ち、相手を動かそうとする従来のピラミッド型組織の考え方とは対極をなすものです。NPOフュージョン長池のようなNPO法人組織では、トップダウンではなく、このサーバント・リーダーシップのような考え方を持つことで、組織をうまく運営できると考えています。

 そして、この考え方は組織内部の人間関係だけではなく、活動に関わるさまざまな人との関係性においても通じるものがあると思います。

 日頃の公園管理で私たちが心がけているのは、まず相手が望んでいることを聞き出すためにしっかり話を聞き、どうすれば役に立てるかを考えるということです。そして、相手が共感、納得できる明確な答えをわかりやすく簡潔に示すよう努めています。

 人を幸せにするという志のもとに、自分の利益よりも、まず先に相手に利益があるように考え、行動していく。そうした相手への敬意や配慮のひとつひとつが、結局は長池公園の発展、地域の価値向上につながっていくのだと考えています。そして、それこそが私たちの求める社会的利益なのです。

 私たちのようなNPO法人は、利益を追求しない組織だからこそ、自分たちのしたいことを優先させることなく、相手が望んでいることを聞きだして、具体的な解決策を行動で示すことができます。そして、それによって人びとが共感、納得してくれるのです。

 日々直面するさまざまな場面で、相手に対して自分がどんな立ち位置でいればよいかというポジショニングを考える上で、サーバント・リーダーシップという考え方は重要な学びとなりました。

 NPO法人日本サーバントーリーダーシップ協会では、サーバント・リーダーシップの特性として、10の項目を挙げています。NPOフュージョン長池では、これを次のように考えて取り入れるようにしています。

サーバント・リーダーシップの特性(NPO法人日本サーバント・リーダーシップ協会)

 傾聴

  ・しっかりと話を聞く。

  ・人の話を途中でさえぎらない。

  ・気が済むまで話させる。

 共感

  ・誰でも無条件で受け入れる。

  ・自分を丸裸にする(自分に私心が無いことを示す)。

 癒し

  ・気分良くする(不満が無い状態)

  ・良いところを褒める。

  ・長所を仲ばす。

  ・皆が自分のこと分かっているという安心感を与える。

 気づき

  ・繰り返し言葉にする。

  ・アンテナを立たせる。

  ・他人事と思わずに常に我事として捉える。

 納得

  ・美しい誤解と錯覚。

  ・相手にとって利益になるように解釈を生む。

  ・人は「利」で動くことを理解させる。

  ・認める条件を与える。

 概念化

  ・夢を語って導いていく。

  ・具体事象を抽象化する。

 先見力

  ・自分の個人の身の回りの環境を理解する。

  ・社会環境を理解する。

 執事役

  ・相手のメリットを本人の喜びにする。

  ・人々の成長への関与・仕事を通じてその人のレベルに合わせて成長させようとしている。

  ・老若男女の特性に合わせた組織作り

 コミュニティづくり

  ・相互理解を前提としたコミュニティ

  ・全員が関与するコミュニティ
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極秘事項 新しい「私」感覚

『「ラットレース」から抜け出す方法』より 極秘事項

宗教というのは、分裂しやすく闘争好きなものだ。宗教は「救われた」者を「呪われた」者と分け、真の信者を異端者と分け、内輪集団をよそ者集団と分けることに依存しているわけだから、一種の抜け駆け主義である。

宗教的自由主義者ですら、「私たちはあなたがたよりも寛大だ」というゲームを演じている。さらに宗教は、教義や象徴や作法を重んじる組織であり、忠誠を要求し、「純潔」を堅持しなければならない制度へと硬化してゆく。そして--すべて信念というものは熱烈な期待であり、疑念や優柔不断を抑圧してしまうものだから--各宗教は人々を改宗させなければならない。帰依する人々が増えるにつれて、自分の立場につきまとう不安定さは減ってゆくというわけだ。そして人は、どんな知識がどんな形でやってこようと、いずれはキリスト教徒や仏教徒であることにどっぷりとつかってしまう。

信者たちが迷うことなく「私こそが、キリスト/モハメッド/ブッダ--あるいは誰かしら--の第一の信徒だ」と主張しつづけられるように、たとえ本来の教義と辻妻が合わないような、新しい、理解しがたい観念であっても、宗教的伝統のなかに巧みに吸収されなければならない。だが、いかなる宗教であっても、ぬきさしならない深入りは、知的自殺というだけではすまされない。世界に関する新しい見方に対して完全に心を閉ざしてしまうという理由で、それはむしろ明らかな背信だ。信仰とは、何にもまして、開いていること--未知のものへの信頼の行為なのである。

以前、ある熱烈な「エホバの証人」の信奉者が、こんなことを私に納得させようとした。もし愛の神が存在していたなら、彼はきっと、行いを導くための、頼りになる絶対にまちがいのない教科書を人類に与えたにちがいない、と。私はこう答えた。「もし思いやりのある神だったら、聖書みたいにすべての答えを一冊の本に委ねるような、かたくなで融通のきかない本をつくって、人の心を台なしにすることはしなかっただろう」と。

言葉の効用、ひいては一冊の本の効用というものは、その向こうにあるからだ。たんなる言葉や観念ではない、生や経験の世界を示唆することにあるはずだからだ。お金が実際の消費財ではないのと同じように、書物は生ではない。教典を崇拝するのは、紙幣を食べるようなものである。

したがって、私が子供たちの手にそっとすべり込ませたい「本」というのは、それ自体がすべりのよいものになるだろう。それは彼らを新しい領域に、観念のみの領域にではなく、経験や感覚の領域にすべり込ませるだろう。それは、規定食ではなく、一時的な投薬になるだろう。永遠に終点のない道標ではなく、出発点になるだろう。読んでしまえば、それでおしまい。もしそれが上手に明確に書かれていれば、隠れた意味やあいまいな教義をはっきりさせるために、何度も何度も読み直す必要はないのだから。

私たちに必要なのは、新しい宗教や新しい聖書ではない。私たちが必要とするのは、新しい経験、新しい「私」感覚である。

生に関する極秘事項(それはもちろん、内密の奥深い見解である)とは、通常の自己感覚はくわせものであるということである。あるいは催眠術にかけられる人がみな、基本的には自ら好んでそうされているように、自己感覚は自らの暗黙の承認をもって、私たちが演じている役柄、そう演じるよう指揮されてきたかりそめの役柄にすぎない。

あらゆるタブーのなかでも最も強力におしつけられてきたのは、「ほんとうのあなたとは誰であり何者なのか」、それを知ることに対するタブーである。

フロイトの言う、人格外観の裏に潜む現実的な実体としての野蛮な「イド」や「無意識」のことを、私は考えているわけではない。のちに述べるように、フロイトは「還元主義」と呼ばれる一九世紀の流行に毒されていた。つまり、人類の文化や知性を、盲目的で不合理な力による偶然の副産物にすぎないものとしておとしめようとする、奇妙な欲求の影響を受けていた。そこで彼らは、イバラの繁みにブドウが生じることを証明しようと、躍起になって努力したのである。

私たちが抑圧したり、見逃したりしてきたものが、びっくりするほど明白なものだったということは、きわめてよくある。

あまりに明白で基本的なことであるために、それを表現する言葉がほとんど見出せないというのが、厄介なところである。ドイツ人はそれを「ヒンターゲダンケHintergedanke」-- 私たちの心の裏にそれとなくあって、私たち自身にすらも容認しがたいような見解--と呼ぶ。

孤独で隔絶された存在の中心としての「私」という感覚は、あまりに強力で常識的だ。会話や思考の様式、法的・社会的慣例にとってあまりに基本的なものであるために、私たちは宇宙の表層にあるものとしてしか自己を体験できない。「私というものは、永劫の時のなかでただ一瞬ピカッと光る、刹那の光。生命の波濤が粉々に砕け、はじけ飛び、七色の水滴がただ永久に消え去るためにだけ一瞬きらめく、その生物学的進化の先端にあって、比類なく、複雑な、あまりにも繊細な有機体」。このような条件づけのもとでは私自身を認識しようがない。

馬鹿げてさえいるかもしれないが、実のところ私自身とは、その水滴のなかにのみ存在するものではなく、銀河群から自分の肉体の原子核領域にまで及ぶ、エネルギー波動の全域に存在するものだ。存在のレベルにおいては、「私」という観念など、おそろしく古色蒼然としている。なぜなら私は無数の形態をもっており、それらが去来することは、ひとつであり、永遠であるエネルギーの脈動や波動にすぎないからである。

そうであることに気づくのが困難なのは、概念的思考ではそれを把握することができないからだ。それはまるで、眼が眼自体を直接見ようとしたり、あるいは鏡に映った色を鏡自体の色として表現しようとするようなものである。ちょうど、景色というものがそこに見られる個々のものすべてを超えた何かであるように、私たちの存在や意識の基礎もしくは「基盤」は、すでに知られているものごとの見地からはとうてい理解されえない。だからこそ私たちは、神話、すなわち〝あるがまま〟とは異なるが、それが何に〝似ている〟かということを示す、特殊な隠喩やアナロジー、イメージを通じて、そのことを語らざるをえないのだ。
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国も憲法も自分で作っちゃおうぜ

『ぼくらの民主主義』より

坂口恭平さんの『独立国家のつくりかた』を読んだ。坂口さんは、去年、熊本に独立国を作り、その国の初代の首相になった--と書いただけで、たいていの人は、坂口さんって頭オカシいんじゃないのと思うかもしれない。

「3・11」の後、坂口さんは、いまの政府にも政治にもうんざりしてしまった。ふつうの人なら、政府に抗議をしようと考える。でも、坂口さんは違った。自分で、もっとましな国を作っちゃおうと考えた。では、どうすればいいのか。

国の要件を定めた「モンテビデオ条約」というものがある。それを読むと、(1)「国民」がいて、(2)「領土」があって、(3)「政府」があって、(4)「外交能力」があれば、国家を名乗れるらしい。なので、坂口さんは、「国民」を募り(彼のツイッターのフォロワーを国民にし)、日本中にたくさんある所有者がはっきりしない土地を「領土」にし、「政府」を作った。そして、外国に出かけていって様々な「外交」活動をしている。どうやら、本気で国連に加盟申請をするらしい。憲法もあるらしい。たった一つだけの条文は、「困った人を助ける」というものだ。

坂口さんはオカシいのだろうか。でも、いまから150年ほど前、たくさんの若者が、新しい国を勝手に作ろうとしたじゃないか。坂本竜馬とか。そして、彼らが出ているテレビを見て、みんな喝采を送っているじゃないか。竜馬ってオカシいの? いや、オカシいのかもね。

東浩紀さんが編集長の雑誌「思想地図β」の特集は「日本2・O」。つまり、「まったく新しい国としての日本」。その中で、東さんたちは「新日本国憲法」を作ってみせた。

ぼくたちにとって、憲法は、長い間、「守る」べきものか「改正」すべきものかのどちらかだった。だが、他にやり方はないのか? あるよ。それは、「ゼロから作る」ことだ。そして、「憲法」を作るということは、いまの日本とは異なった、「新しい日本」を想像(創造)することだ。この新しい憲法では、あっと驚くような考えが、随所に見つかる。たとえば、日本国籍を持つ「国民」だけではなく、国籍を持たない在日外国人も「住民」という新しい立場で、政治に全面的に参加できる。「国民」と「住民」がクロスするその国は、外国人が議員になることもできるほど開かれたものになる。

竜馬たちが「武士のいない国」を作ろうとした時、大半の人びとは、彼のいうことの意味がわからなかった。あまりに長く「武士の世界」に生きてきたため、それが存在しない世界が想像できなかったからだ。流動し変化する世界に対応するためにもっとも必要なのは、「新しい世界」の有り様を想像することのできる「新しいマインド(心、考え方)」ではないだろうか、と東さんはいうのである。

いまインターネットで話題の「口語訳 日本国憲法」は、現行憲法を一条ごとに「翻訳」したもの。中身は同じなのに、「みんなで集まって考えたり行動したり、自分の考えを本とかにしたりとかは自由だぜ。どんな表現でもそれはお前の権利だから胸張ってやれよ」(憲法21条)といわれると、なんだかまるで別のものになったように見える。文体(言い方)が違うと、そこに流れているマインドも違う気がしてくる。なんかいまよりも自由な憲法っぽい。いや、そこではもっと重要なことが起こってる。目の前に出現する「口語訳憲法」に、ネットの住人たちが様々な意見や感想を即座に書きこみ、それがリアルタイムで内容に反映される。それは、東さんが民主主義の回生のシンボルとした、人びとの「一般意志」の反映の一つの姿なのだろうか。

『民衆憲法の創造』には、明治10年代を中心にして、自由民権運動と連動して、全国で膨屏として起こった「憲法」を作る運動の姿が描かれている。「五日市憲法」や植木枝盛が書き起こした憲法の条文には、明治憲法を遥かに超え、現在の憲法よりもさらに「進んだ」内容を含んでいるものさえあった。彼らは、ぼくたちよりも自由なマインドの持ち主だったのかもしれないね。

新しい「国」や「憲法」を生み出そうとするマインドには未来を見すえる視線がある。けれど、赤坂真理さんの小説『東京プリズン』には、未来へ向かって高く飛び立つために、深く屈もうとする姿勢が見える。

現在と過去を激しく行き来するこの小説の中心には、30年前、アメリカの小さな街に留学した16歳の日本人の女の子が、ディベートの授業に参加させられる情景がある。テーマは「東京裁判」、いや、「天皇の戦争責任」だ。そこで、少女は、大半の日本人が忘れてしまったこと、なかったことにしてきたこと、考えまいとしてきたことに激突する。

あの戦争が終わった直後、社会が解体し、未来が見えなかった時期にこそ、坂本竜馬や憲法を作った若者たちのように、「新しい時代」を迎えるための「新しいマインド」を作らなければならなかった。そのためには、「古いマインド」を誠実に総括し、清算しなければならなかった。だが、日本人は、それを怠った。

少女が立ち向かうのは、その事実だ。「新しいマインド」を作るために、少女は、先行する世代がやり残した宿題を、たったひとりで解こうとする。でも、大丈夫。ひとりじゃないよ。いま、あちこちで、同時に、「新しいマインド」を作る試みは始まっているんだ。
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ファンにする 生活者との接点を見直す

『明日のプランニング』より ファンからオーガニックな言葉を引き出す7つの方法--砂一時代の生活者が態度変容するオーガニックリーチ

生活者がファンになると同時にオーガニックな言葉を言ってもらいやすくなる、という夢のような状況は作ることができる。

それがとの「生活者との接点を見直す」ということである。

代表的な例として、スカンジナビア航空とザッポスを挙げてみたい。

両方とも本になっている。

前者は『真実の瞬間』(ヤン・カールソン著/ダイヤモンド社)、後者については216ページでど紹介した『ザッポス伝説』(トニー・シェイ著/ダイヤモンド社)をオススメしておく。

まずはスカンジナビア航空。

題名の『真実の瞬間』とは、以下の引用で解説されている。

これは「すべての接点がファンを作るきっかけである」ということを表している。

利用してくれている生活者がその企業に接する接点を「真実の瞬間」と呼び、そこでの印象をなによりも大切にすることによってファンを作っていくのだ。

すべての接点が、それを利用する生活者を熱狂的なファンにする可能性を秘めている。

実際、著者であるスカンジナビア航空グループ最高経営責任者は、顧客との接点を大切にすることで、赤字だった航空会社をわずか二年で黒字に転換させたのである。

わずか一年である。

逆に言うと、生活者との接点を見直すことは、そのくらい効果的だということだ。

また、ザッポスの例は有名だ。

このネット上のシューズーショップは、いろんな意味で革新をくりかえした会社だが、ファンべース的視点でみると、まさに生活者との接点に最大限の力を注いでいる。

ザッポスの特徴はカスタマーサービスにある。

彼らは広告に費用をほとんどかけず、その費用をカスタマーサービスに回している。

生活者との接点こそが、最大最高の広告だと知っているからである。

その接点において、利用者に「忘れられないサービス」をすることで、強力なファンを作り出す。そして彼らからオーガニックに「ザッポス体験」を広めてもらう。

これがどれだけいい影響を及ぼすか、彼らは知っているのである。

たとえば、ザッポスの商品は、送料無料かつ返品も無料だが、彼らはこれをコストではなくマーケティング費用と考えている。これがザッポス体験につながり、ファンを作り出すからだ。

また、コールセンターもファンを作り出す重要な装置として利用している。

ザッポスにおけるコールセンターは、スカンジナビア航空における「真実の瞬間」と同じものである。つまり、利用者との接点であり、一対一で対話できる貴重な時間と捉えているのである。

だから効率を考えず、コールセンターのオペレーターは「何分でも、何時間でも顧客と話してもいい」と許されている。

たとえばクレーム処理は、対応によって「ピンチがチャンスに変わる」。

なぜなら、怒って(もしくは困って)電話してきたのは「利用者」であり、その利用者との電話やメールは「真実の瞬間」だからである。

その接点で忘れられないようないい体験を提供できれば、その人は一転、強く好感をもつファンとして味方に回ってくれる。オペレーターたちは利用者の事前期待を上回るような最高の体験を利用者に提供し、熱狂的なザッポスーファンを作っていくのである。本から一節だけ引用してみる。

私たちの顧客は一生にどこかの時点で少なくとも一度は私たちに電話をかけてくることを知っているので、私たちはその機会を使っていつまでも記憶に残る思い出を生み出すように心がける必要があるのです。

個々の「生活者との接点」は小さい。

でも、そこでの体験は、企業への印象を根底から変え、彼らを大ファンにジャンプアップさせる可能性を秘めている。

ここに来てまだ「とはいえ『たった一人』が味方に回ってくれても仕方がないだろう。その一人のためにどんだけ予算かけるんだよ。それよりテレビや新聞で好感度があがるような記事が出たほうが……」というような疑問を呈する人がいるかもしれない。

そろそろそういう「量」で測るのはやめよう。

たった一人が「企業の味方」として周りの友人知人に話してくれることこそ、砂一時代のソリューションなのである。

ファンは塊としてどこかの場所にいるわけではない。ひとりひとりなのだ。そういうひとりひとりの積み重ねが大きなうねりになっていく。

前項のコカ・コーラなど、まさにそういう活動ではないだろうか。

写真は、ボクの友人が自分のフェイスブックにあげたものである。

右の写真は、有名ブロガーでもある清田いちるさんが彼のブログ「小鳥ピヨピヨ」に載せ、フェイスブックやツイッターにも共有したもの。そしてこんな文章が載っている。

スターバックス赤坂店で、咳き込みながら(風邪は治ったのですが咳だけ残っているのです)注文したら、カップにこんなことが書かれていまして。

ごめん、悪いけど惚れたわー.

これが『おもてなし!』ってヤツか……。

店に『いいね!』ボタンがあったら、きっとへえボタン並に連打していたことでしょう。これからしばらくはスタハ通いになりそうです。

左の写真は、スターバックス代官山蔦屋書店で、友人の辻貴之君が体験し、フェイスブックに共有したものだ。

なんと、彼と彼のお子さんの似顔絵を店員がカップに描いてくれているのである。彼によると毎回いろいろなことを書いてくれるそうである。それを彼は感激し、次々に投稿している。

そう、こうした接点においてすばらしい体験をすると、人はそれを友人知人に言いふらしたくなるし、ボクたちは彼らの言葉により、その企業や商品の印象を大きく変える。彼らのオーガニックな言葉こそ、新たなファンを作っていくのである。
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未唯宇宙への挑戦

未唯宇宙への挑戦

 詳細の名前を一つずつ、適切に変えていきます。目的はあくまでも、全てを知ることであることは忘れないように。

 その要素の範囲を明確にして、空間配置していく。空間配置だから、それから考えましょう。近傍系としての証拠との関係。

 明日から、リスタートさせます。そのために、雑記帳を整理させます。
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