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文章をつなげること

文章をつなげること

 文章というのは、本当につなげないといけないのか。

 ウィットゲンシュタインもそう思ったから、だから、『論考』のようなスタイルになった。ただし、言葉が均等であることはないから、サフィックスがバラバラになったんでしょう。

 単語の間を埋めるのは、自分ではない。これは文章でも同じです。埋めつくせない世界です。分かることは描かない。だから、文章は分解させます。

子どもの現象学

 児童コーナーの新刊書『大人と子どもの現象学』に関して、職場体験の女子中学生に「現象学」を知っているかを尋ねた。まだ、理科で習っていない、とのこと。「げんしょう」は理科用語なんですね。

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世界史的立場

『中国史』より 中国と西アジアとヨーロッパの時間差での進化は楽しい。オスマントルコが西アジアを変えてしまった。西アジアを介さない世界で、アジアは変わった。

歴史的地域

 とはいえ、私のこの方法にはまだ不十分な点があることを認めなければならない。まず地域と地域との境界線を直線で描いたが、これは更に工夫を加えて曲線を用うべきであったであろう。考えてみると西アジアとヨーロッパとの間において、バルカン半島の歴史は、ある時には西アジア史に、またある時はヨーロッパ史に含まれる。このような変化は曲線によって凹凸を設ければ、ある程度までその実態を現わすことができる。しかしこれは非常に煩瓊で、技術上の困難を伴う。そして著者にとってその技術上の困難を克服してみたところで、これを読む側においても、それだけの準備をして貰った上でなければ理解されにくいはずである。今のところは、この直線による描法の欠陥は双方の側において黙過しあうのが適当であろうと思う。

 世界史を図式化する上で、両属性のあるバルカン半島を無視せざるを得なかったように、当面の問題とされない地域は、やはりこれを省略せざるを得ないのである。私が前に掲げた世界史略年表では、インド、アメリカ、アフリカがすべて省略されている。また日・中両国の関係図式においてはその中間に是非必要な朝鮮が省略されている。このような取扱いは決して正当でないことはもちろんであるが、図式というものが、簡略化を前提とするものである以上、省略は本質的に避け得られない結果と言えるであろう。とまれ我々はいかなる方法であれ、あらゆる知恵を絞って、常に世界史を念頭におき、世界史的立場から、最も具体的に個別の歴史研究に取組む用意が必要だと思う。

世界史的立場

 世界史的立場に立つことは、同時に何を研究の題目に選ぶべきかという、対象の選択にも貢献する点が多いであろう。人類の歴史は有史以来でも数千年、その間各地で何億、何兆とも知れぬ多数の人々が生活してきたのであるから、いちいちその跡をたどることは不可能であり、また不要でもある。勢いそとには題目の選択が不可欠となる。そして研究の題目の適否が、半ばその研究の価値を決定するとも言われている。適否の条件は私にも言えない。ただ概して言えば、世界史に関連のあるものほど、研究に値すると言ってよいかと思う。しからばその関連の仕方ということになるが、別にそれは直接的なもの、例えば東西アジア間の文化交渉と言ったような題目とばかり限られてはいない。多くの場合は西アジアを通しての東西関係という風に、間接、あるいは間接の更に間接ということになるのを免れまいが、それはそれでよい。また広い地域に共通する問題ばかりが世界史に関連するとは限らない。どこにもなくて一個所にだけある特殊な現象もまた、その故によって世界史に関連してくるのである。何か最も価値ある研究題目であるかを知り得るのは、最後的には各人が経験を重ねた上で到達し得る境地であろう。

現代史

 次に第四に注意を喚起したいのは、世界史あるいは世界史の部分的研究と、現実に進行しつつある世界情勢との関連の問題である。現今の世界は非常な速度で動きつっあり、必然的にその中には人類の将来に深い関わりのあるべき大事件も含まれているに違いなく、更にこれについての情報も洪水のように押しよせてくるのである。これに対して過去の世界に対する研究は遅々として進まぬのが常態なのであって、せっかく世界史の体系を組立てて見ても、すぐその日から一日、一日と現在との間に距離が生じて行くことを免れない。いったい学者は過去の研究を一方で行いながら、他方で現実の世界史の進行に追いついて行けるだろうか、という疑問が生ずる。特にこの疑問は、いわゆる現代史なるものを研究対象とする人にとって、深刻な悩みの種とならざるを得ないのである。

 しかし考えてみると、人間の実生活には、絶えず将来を予測し、将来に備えながら、現在の瞬間を生き、新しい歴史を作って行く一面と、また絶えず過去を振返って過去を整理する一面とがある。そして過去を整理しておかなければ、明日の生活に支障を来すことになるのである。過去はそのまま消えて行ぐものでなく、その中の必要な部分は将来に再生する。だから過去を整理するという仕事は、それ自身が生活の進行なのである。何だか反対の方向に向いているように見えて、実際はそのいずれも、我々が生きて行く間に起る、生活の営みに外ならない。

歴史は人と共に

 歴史家の研究はその人自身の生き方の一面であるが、特に過去の整理に重点を置くものである。そして現在と思ったことも、一瞬にしてたちまち過去に変ってしまう。こういう際に歴史に志す者は、他の人よりも一層、現実の社会の動きに鋭く対応し、観察して、印象を深めておくことが必要である。現実の問題として体験し、把握し、理解し、記憶し、整理したことは、やがて何物にも替え難い貴重な史料になるからである。あるいはとんなことは、特に取上げて注意するまでもなく、たとえ歴史家でなくても、たいていの人は既に実行していることなのかも知れない。言いかえれば、老成者はそのまま一種の史料なのであって、近頃の若者は、ともすれば老齢の故に老齢者を侮る気風がもしあったとしたならば、それは大きな誤りだと言わなければならない。

 私個人の経験を持出すのは場違いかも知れないが、私は今世紀の初めに生れたので、第一次世界大戦の頃からは既に有史時代に入っており、孫文の最後の活動の頃から後は、事柄によっては、ある程度確実な記憶を持っている。

 一九二七年、蒋介石の北伐軍が南京を占領した際、配下の共産軍が日本・英国・米国の租界に侵入し居留民に暴行を加えた。いわゆる南京事件なるものである。これに対して、英・米の軍艦は揚子江中より城内に砲撃を加えて報復したが、日本軍艦は現場に居あわせながら行動を共にしなかった。しかるに近時、中国で出版された歴史には、日本乞も連ねて砲撃の仲間入りをさせているそうで、日本の若い学者たちの多くは、またそり説を信じ、そのまま自著に転載したりする者がある。私はこれを見て不審に思い、学生と談たまたまこの事に及んだ時、私の記憶の方が正しいことを力説し、学生に検討を依頼したところ、更に確実な根本史料に当ってみると、果せるかな、私の方が誤っていないことが明らかとなった。単に事実がどうという問題ばかりではない。戦後は物事の考え方が戦前とはすっかり変ってきて、悪いことは何でも日本ということになったらしいが、本当は必ずしもそうではないのである。特に戦争などというものは、一方だけが絶対に悪いということはほとんどあり得ない。むしろ問題はどちらが、より悪かったかという点に落付くものと私は思う。概して言えばより強い方が、より悪かった場合が多いようである。

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209『137億年の物語』宇宙が始まってから居までの全歴史

007.35『アップル、アマゾン、グーグルのイノベーション戦略』

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