未唯への手紙
未唯への手紙
500万人単位に分割
ハイパーインフラ
社会保障の仕組みを変えてしまわないと、ハイパーインフラが起こります。それも収拾がつかない。クライシスについては、待てばいいという世界。だけど、質が変わってしまうとそうはいかない。負のスパイラルが起こる。
そうなる前にやるべきことは、構造を変えてしまうことです。中央集権的な考え方から、ローカルでの考え方に変えると同時に、それを補う個人の自覚も変えてします。
これは変えてしまうということよりも、そのための制度にしてしまう。そのための準備を先人は行ってきたのだから。
消費税にしても、25%だろうと50%だろうと、国がそんなに集めても、うまくいかない。1億3000万人では規模がでかすぎる。500万人レベルにすれば、使い道は見えてきます。市民は税金というカタチで、自分の生活のために、お金を預けてことになります。
500万人単位に分割
今のような形で、外に向かって、お金をばらまいている。1億人として、500万人ならば、20との関係ができます。多様な関係がお互いが補完できます。
大きなバッテリー一つで動かす、日本の電気自動車に対して、多くの市販のバッテリーを持つ、テスラの電気自動車。日本の場合は、高性能なバッテリーを追求すればするほど、壊れた時には全て、とっかえです。技術の粋を集めることが好きだから。
それに対して、市販のバッテリーを組み合わせる場合は、一部が壊れたら、その部分だけをとっかえます。その時も車は動きます。その発想で中国のメーカーが動いてきます。これは太陽電池の展開でヨーロッパで起こった図式です。
それらが共同体として、動くならば、夫々がお互いに干渉し合って、新しい技術を作り上げていくカタチならば、さらに有効性を増します。
重要なのは、500万人がさらにコミュニティに分かれて、組合せを作り出します。5万人のコミュニティであれば、100個の関係になります。それをサポートするのに、図書館があり、その背後にクラウドでの機能のよく軸を作り上げます。
ナチの中央集権化
ナチは一方的な中央集権化で力を得た。元々は分散していたドイツの地域にとっては新しい体制であった。律儀さで余分なモノを全て、排除した。その中には、共産・社会主義的な要素も含んだ。
集中化させる以上は、それに対して、見返りが必要であった。どうやって、見返りを作るか。東方社会に侵略を開始した。併せて、一方の勢力を持ってくるしかない。内部的にはゼロ・サム奈社会だから。
当然、そこでは、極端な格差が増えていく。それかインフレ化。1922年のインフレのトラウマが在ったので、格差に走った。内輪では格差がない世界にして上で。
それを力でやるために、見かけ上の支持を装った。それをなくしては成り立たない。ベルリン大会とかニュールンベルグのような興奮状態もいつまでもあるわけではない。常に外へ向かっていくしかない。
10.3「共有意識」
10.3「共有意識」を考えるのに、L5.1「共有意識」の論理層が関係します。論理層と物理層の関係をずっと、他っておいたけど、ソロソロ、結論に向けて動かそう。要約篇では、論理層と物理層とつなげるカタチにします。これは、多層なレイアになります。それより、下の部分は関係させないようにします。
論理層と物理層
物理層
M1 社会構造
社会構造
多様化
地域主体
幸せな社会
M2 サファイア
空間認識
持続可能性
循環
数学理論
M3 未唯空間
全てを知る
未唯空間
考え抜く
未来を示す
M4 システム設計
パートナー
要望
システム構成
システム設計
M5 コミュニティ
地域展開
コミュニティ
知識と意識
ライブラリ
M6 政治形態
国民国家
資本主義
民主主義
合意形成
M7 教育・仕事・生活
日本型循環
教育
仕事
生活
M8 環境社会
グローバル化
地域インフラ
環境社会
クルマ社会
論理層
L1 存在と無
存在と無
真理探究
孤立と孤独
存在の無
L2 存在の力
意思の力
歴史哲学
存在の力
分化と統合
L3 内なる世界
宇宙の旅人
独我論
内なる世界
外なる世界
L4 情報共有
ソーシャル
ポータル
コラボ
状況把握
L5 共有意識
共有意識
公共図書館
新しい業態
地域定着
L6 位相表現
空間
近傍
位相化
カバーリング
L7 進化
地球規模課題
歴史の進化
次の次
新しい数学
L8 未来の姿
未来方程式
クラウド
知の体系
未来の姿
社会保障の仕組みを変えてしまわないと、ハイパーインフラが起こります。それも収拾がつかない。クライシスについては、待てばいいという世界。だけど、質が変わってしまうとそうはいかない。負のスパイラルが起こる。
そうなる前にやるべきことは、構造を変えてしまうことです。中央集権的な考え方から、ローカルでの考え方に変えると同時に、それを補う個人の自覚も変えてします。
これは変えてしまうということよりも、そのための制度にしてしまう。そのための準備を先人は行ってきたのだから。
消費税にしても、25%だろうと50%だろうと、国がそんなに集めても、うまくいかない。1億3000万人では規模がでかすぎる。500万人レベルにすれば、使い道は見えてきます。市民は税金というカタチで、自分の生活のために、お金を預けてことになります。
500万人単位に分割
今のような形で、外に向かって、お金をばらまいている。1億人として、500万人ならば、20との関係ができます。多様な関係がお互いが補完できます。
大きなバッテリー一つで動かす、日本の電気自動車に対して、多くの市販のバッテリーを持つ、テスラの電気自動車。日本の場合は、高性能なバッテリーを追求すればするほど、壊れた時には全て、とっかえです。技術の粋を集めることが好きだから。
それに対して、市販のバッテリーを組み合わせる場合は、一部が壊れたら、その部分だけをとっかえます。その時も車は動きます。その発想で中国のメーカーが動いてきます。これは太陽電池の展開でヨーロッパで起こった図式です。
それらが共同体として、動くならば、夫々がお互いに干渉し合って、新しい技術を作り上げていくカタチならば、さらに有効性を増します。
重要なのは、500万人がさらにコミュニティに分かれて、組合せを作り出します。5万人のコミュニティであれば、100個の関係になります。それをサポートするのに、図書館があり、その背後にクラウドでの機能のよく軸を作り上げます。
ナチの中央集権化
ナチは一方的な中央集権化で力を得た。元々は分散していたドイツの地域にとっては新しい体制であった。律儀さで余分なモノを全て、排除した。その中には、共産・社会主義的な要素も含んだ。
集中化させる以上は、それに対して、見返りが必要であった。どうやって、見返りを作るか。東方社会に侵略を開始した。併せて、一方の勢力を持ってくるしかない。内部的にはゼロ・サム奈社会だから。
当然、そこでは、極端な格差が増えていく。それかインフレ化。1922年のインフレのトラウマが在ったので、格差に走った。内輪では格差がない世界にして上で。
それを力でやるために、見かけ上の支持を装った。それをなくしては成り立たない。ベルリン大会とかニュールンベルグのような興奮状態もいつまでもあるわけではない。常に外へ向かっていくしかない。
10.3「共有意識」
10.3「共有意識」を考えるのに、L5.1「共有意識」の論理層が関係します。論理層と物理層の関係をずっと、他っておいたけど、ソロソロ、結論に向けて動かそう。要約篇では、論理層と物理層とつなげるカタチにします。これは、多層なレイアになります。それより、下の部分は関係させないようにします。
論理層と物理層
物理層
M1 社会構造
社会構造
多様化
地域主体
幸せな社会
M2 サファイア
空間認識
持続可能性
循環
数学理論
M3 未唯空間
全てを知る
未唯空間
考え抜く
未来を示す
M4 システム設計
パートナー
要望
システム構成
システム設計
M5 コミュニティ
地域展開
コミュニティ
知識と意識
ライブラリ
M6 政治形態
国民国家
資本主義
民主主義
合意形成
M7 教育・仕事・生活
日本型循環
教育
仕事
生活
M8 環境社会
グローバル化
地域インフラ
環境社会
クルマ社会
論理層
L1 存在と無
存在と無
真理探究
孤立と孤独
存在の無
L2 存在の力
意思の力
歴史哲学
存在の力
分化と統合
L3 内なる世界
宇宙の旅人
独我論
内なる世界
外なる世界
L4 情報共有
ソーシャル
ポータル
コラボ
状況把握
L5 共有意識
共有意識
公共図書館
新しい業態
地域定着
L6 位相表現
空間
近傍
位相化
カバーリング
L7 進化
地球規模課題
歴史の進化
次の次
新しい数学
L8 未来の姿
未来方程式
クラウド
知の体系
未来の姿
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
日本の財政は社会保障(=年金・医療・介護)で破たんする!
『いよいよ政府があなたの財産を奪いにやってくる!?』より ハイパーインフレの悲惨
ここに「X-dayプロジェクト報告書」という興味深い資料がある。「X-day」とは〝国債暴落〟のその日を意味する。民主党政権下の二〇一一年六月一日、野に下っていた自民党が「責任ある政治」を標榜し、悪化し続ける財政に対する危機感から、政策当局や市場関係者、学識経験者を交えて議論し、財政悪化に対してどのような政策対応をすべきかをまとめた報告書である。
報告書はまず、「国債の大量発行が続く中、財政は極めて厳しい状況にある」に始まり、次いで「民主党政権は、こうした状況を直視せず、マニフェストの実施にこだわり、かつ無駄の削減や政策の見直しによる財源確保の公約を守れなかったため、財政、ひいてはわが国の経済、そしてわが国の将来を危うくしている」と指弾する。そして「財政を巡る現状」の項では、まず次のように指摘する。
「我が国の財政は、バブル崩壊以降の経済の低迷などに加え、一九九〇年代以降の急激な少子高齢化にともない、社会保障関係費が著しく増加し、歳出の相当部分を占めるようになるなど極めて厳しい状況となっている。毎年一兆円程度、社会保障関係費の増が見込まれる中、歳出の抑制は必ずしも進まず、こうした状況にも対応するため、消費税を含む税制抜本改革の実施が二刻を争う喫緊の課題となっていた」。
この認識は極めて真っ当である。私は常々指摘しているのだが、わが国財政悪化の根本原因は、社会保障に国がかける費用が膨張し続けるところにある(社会保障とは、現状では一に年金、二に医療、三・四がなくて五に介護という感じであるが、今後は当然介護にかかる費用が大幅に増え、第三のポジションを確固とすることが予想されている)。
この報告書の話を続ける前に、まず社会保障について確認して行きたい。財務省が作成した「日本の財政関係資料」(平成二六年一〇月版)の中から三つのグラフを使って、社会保障と国の借金の問題に関して改めて簡単に説明しておこう。一つ目は「国の借金の増え方のグラフ」だ。ひたすら増え続けているのは言うまでもないが、注目してもらいたいのはグラフの上の部分・建設公債はほとんど増えておらず、下の部分・特例公債=赤字国債の増大が国の借金を増やしているということだ。つまり、今わが国の借金を膨張させているのは、よく批判の対象になるムダな公共事業ではなく、ハコモノとして残らない、使われて消えていくお金のためなのである。
二つ目のグラフは、何への支出増が国の借金増の要因になっているかをより項目別に表すものだ。一つ目のグラフでも明らかだったように、借金増の要因は公共事業ではない。明らかに社会保障関係費なのである。
そして三つ目のグラフは、社会保障給付費と社会保険料収入の推移だ。わが国の社会保障制度は社会保険制度であるから、民間の保険会社と同様、給付は保険料収入でまかなうのが基本であった(あまり意識されないが、ここがポイントである。保険の給付は、そのタネ銭がなければできない。それは民間の保険も公的保険も本来同じなのだ)。しかし、グラフで明らかなように、保険料収入は一九九〇年代後半からほとんど増えていないにも関わらず、高齢化にともなって給付の方はどんどん増え続けている。国民のウケを狙う政治家たちは、そういうバラマキの社会保障制度を作ってしまったのだ。
グラフではその差額を埋めるのは「公費」=「国庫負担」+「地方税等負担」となっているが、この表現が面白い。実は一年前の(平成二五年一〇月版)「日本の財政関係資料」までは、財務省は「国税負担」+「地方税等負担」という表現を使っていたのだ。「国税負担」という表現が「国庫負担」という表現に改められたのはなぜか? 現役世代や企業から社会保険料としてタネ銭が取れないのであれば、税金の形で取るしかない。だから本筋から言えば「国税負担」なのであるが、実際には税金でまかなってはいないからだ。本来なら消費税を充てるところであるが、消費税率が一九九七年四月に五%に引き上げられて以降、二〇一四年四月まで一七年間上げられなかったのは、ご存知の通りである。
したがって、理念としては「国税負担」であっても現実にはその差額を埋めてきたのは借金である。まさか「借金負担」とは書けないから「国庫負担」と改めたのである。つまり、簡単に言うとこういうことだ。高齢化にともなって社会保障給付費は増える。しかし、(票が減るから)国民負担である社会保険料や消費税を増やすことはできない。だから、その差額が借金となって増えていくというわけである。これは構造的なものだから、先に自民党の「X-dayプロジェクト報告書」にある通り、確かに「わが国の将来を危うくしている」のだ。
今の日本の政治はどうであろうか。単に政権を取るためだけの政治になってはいないだろうか……。
「コンクリートから人へ」--多くの読者がこのキャッチフレーズを覚えていることと思う。二〇〇九年の総選挙で民主党が掲げたものだ。これがウケた。この選挙で民主党は三〇八議席を獲得(自民党は一一九議席)。議席占有率は六四・二%におよび、単一の政党が獲得した議席占有率としては現憲法下で行なわれた選挙としては過去最高という空前絶後の勝利であった。しかし、このキャッチフレーズが実は根本的に誤りだったことは本章で述べた通りだ。当時、もう「コンクリート」にお金など大して使ってはいなかったし、遠くない将来「人」に費やすお金=社会保障(年金・医療・介護)こそが大問題になることは、すでに自明のことであった。にもかかわらず、この甘~いキャッチフレーズがウケてしまったのである。野に下った自民党は、その無責任さを厳しく指弾した。「わが国の将来を危うくしている」と。
しかし、愚かな民主党政権の自滅に救われて政権を奪った自民党は、やはり権力の座にしがみつくために、「国の将来を危うくしている」と自らが訴えたこの財政問題にまともに取り組もうとはしなくなった。それどころか、日銀にひたすら国債を買わせるという前代未聞の異常な政策に走って、実体経済にはほとんど効果は出ていないにもかかわらず「円高が是正された。株も上がった」などと自画自賛しているのだから、どうしようもない。使ったことがない薬を「効果がある!」と言いくるめて処方しているようなものだ。
今、日米欧の先進各国はいずれも金融緩和政策を採っているが、中央銀行がひたすら国債等を買いまくって資産を膨張させているなどというのは、日銀だけである。米FRBも欧州中央銀行(ECB)もそんなメチャクチャなことはやっていない(詳しくは前著『円崩壊』〈第二海援隊刊〉で述べているので、ぜひお読みいただきたい)。このことからも明らかなのは、もはやわが国は経済政策において打つ手がなく、マネーの膨張で目先をちょっと明るくすることくらいしか、打つ手がなくなっているのである。政権を取るためだけの、愚かなキャッチフレーズ、目先の政策、そしてマネーの膨張……ハイパーインフレヘ向かう道は確実に整備されている。
ここに「X-dayプロジェクト報告書」という興味深い資料がある。「X-day」とは〝国債暴落〟のその日を意味する。民主党政権下の二〇一一年六月一日、野に下っていた自民党が「責任ある政治」を標榜し、悪化し続ける財政に対する危機感から、政策当局や市場関係者、学識経験者を交えて議論し、財政悪化に対してどのような政策対応をすべきかをまとめた報告書である。
報告書はまず、「国債の大量発行が続く中、財政は極めて厳しい状況にある」に始まり、次いで「民主党政権は、こうした状況を直視せず、マニフェストの実施にこだわり、かつ無駄の削減や政策の見直しによる財源確保の公約を守れなかったため、財政、ひいてはわが国の経済、そしてわが国の将来を危うくしている」と指弾する。そして「財政を巡る現状」の項では、まず次のように指摘する。
「我が国の財政は、バブル崩壊以降の経済の低迷などに加え、一九九〇年代以降の急激な少子高齢化にともない、社会保障関係費が著しく増加し、歳出の相当部分を占めるようになるなど極めて厳しい状況となっている。毎年一兆円程度、社会保障関係費の増が見込まれる中、歳出の抑制は必ずしも進まず、こうした状況にも対応するため、消費税を含む税制抜本改革の実施が二刻を争う喫緊の課題となっていた」。
この認識は極めて真っ当である。私は常々指摘しているのだが、わが国財政悪化の根本原因は、社会保障に国がかける費用が膨張し続けるところにある(社会保障とは、現状では一に年金、二に医療、三・四がなくて五に介護という感じであるが、今後は当然介護にかかる費用が大幅に増え、第三のポジションを確固とすることが予想されている)。
この報告書の話を続ける前に、まず社会保障について確認して行きたい。財務省が作成した「日本の財政関係資料」(平成二六年一〇月版)の中から三つのグラフを使って、社会保障と国の借金の問題に関して改めて簡単に説明しておこう。一つ目は「国の借金の増え方のグラフ」だ。ひたすら増え続けているのは言うまでもないが、注目してもらいたいのはグラフの上の部分・建設公債はほとんど増えておらず、下の部分・特例公債=赤字国債の増大が国の借金を増やしているということだ。つまり、今わが国の借金を膨張させているのは、よく批判の対象になるムダな公共事業ではなく、ハコモノとして残らない、使われて消えていくお金のためなのである。
二つ目のグラフは、何への支出増が国の借金増の要因になっているかをより項目別に表すものだ。一つ目のグラフでも明らかだったように、借金増の要因は公共事業ではない。明らかに社会保障関係費なのである。
そして三つ目のグラフは、社会保障給付費と社会保険料収入の推移だ。わが国の社会保障制度は社会保険制度であるから、民間の保険会社と同様、給付は保険料収入でまかなうのが基本であった(あまり意識されないが、ここがポイントである。保険の給付は、そのタネ銭がなければできない。それは民間の保険も公的保険も本来同じなのだ)。しかし、グラフで明らかなように、保険料収入は一九九〇年代後半からほとんど増えていないにも関わらず、高齢化にともなって給付の方はどんどん増え続けている。国民のウケを狙う政治家たちは、そういうバラマキの社会保障制度を作ってしまったのだ。
グラフではその差額を埋めるのは「公費」=「国庫負担」+「地方税等負担」となっているが、この表現が面白い。実は一年前の(平成二五年一〇月版)「日本の財政関係資料」までは、財務省は「国税負担」+「地方税等負担」という表現を使っていたのだ。「国税負担」という表現が「国庫負担」という表現に改められたのはなぜか? 現役世代や企業から社会保険料としてタネ銭が取れないのであれば、税金の形で取るしかない。だから本筋から言えば「国税負担」なのであるが、実際には税金でまかなってはいないからだ。本来なら消費税を充てるところであるが、消費税率が一九九七年四月に五%に引き上げられて以降、二〇一四年四月まで一七年間上げられなかったのは、ご存知の通りである。
したがって、理念としては「国税負担」であっても現実にはその差額を埋めてきたのは借金である。まさか「借金負担」とは書けないから「国庫負担」と改めたのである。つまり、簡単に言うとこういうことだ。高齢化にともなって社会保障給付費は増える。しかし、(票が減るから)国民負担である社会保険料や消費税を増やすことはできない。だから、その差額が借金となって増えていくというわけである。これは構造的なものだから、先に自民党の「X-dayプロジェクト報告書」にある通り、確かに「わが国の将来を危うくしている」のだ。
今の日本の政治はどうであろうか。単に政権を取るためだけの政治になってはいないだろうか……。
「コンクリートから人へ」--多くの読者がこのキャッチフレーズを覚えていることと思う。二〇〇九年の総選挙で民主党が掲げたものだ。これがウケた。この選挙で民主党は三〇八議席を獲得(自民党は一一九議席)。議席占有率は六四・二%におよび、単一の政党が獲得した議席占有率としては現憲法下で行なわれた選挙としては過去最高という空前絶後の勝利であった。しかし、このキャッチフレーズが実は根本的に誤りだったことは本章で述べた通りだ。当時、もう「コンクリート」にお金など大して使ってはいなかったし、遠くない将来「人」に費やすお金=社会保障(年金・医療・介護)こそが大問題になることは、すでに自明のことであった。にもかかわらず、この甘~いキャッチフレーズがウケてしまったのである。野に下った自民党は、その無責任さを厳しく指弾した。「わが国の将来を危うくしている」と。
しかし、愚かな民主党政権の自滅に救われて政権を奪った自民党は、やはり権力の座にしがみつくために、「国の将来を危うくしている」と自らが訴えたこの財政問題にまともに取り組もうとはしなくなった。それどころか、日銀にひたすら国債を買わせるという前代未聞の異常な政策に走って、実体経済にはほとんど効果は出ていないにもかかわらず「円高が是正された。株も上がった」などと自画自賛しているのだから、どうしようもない。使ったことがない薬を「効果がある!」と言いくるめて処方しているようなものだ。
今、日米欧の先進各国はいずれも金融緩和政策を採っているが、中央銀行がひたすら国債等を買いまくって資産を膨張させているなどというのは、日銀だけである。米FRBも欧州中央銀行(ECB)もそんなメチャクチャなことはやっていない(詳しくは前著『円崩壊』〈第二海援隊刊〉で述べているので、ぜひお読みいただきたい)。このことからも明らかなのは、もはやわが国は経済政策において打つ手がなく、マネーの膨張で目先をちょっと明るくすることくらいしか、打つ手がなくなっているのである。政権を取るためだけの、愚かなキャッチフレーズ、目先の政策、そしてマネーの膨張……ハイパーインフレヘ向かう道は確実に整備されている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
第二次世界大戦の特質
『戦間期国際政治史』より
第二次世界大戦の諸性格の中でもっとも重要なものはファシズムとの闘争であり、第二次世界大戦の終結の最大の結果は、ファシズムの崩壊であった。世界は、日本軍国主義、ナチズム、イタリアのファシズムの国際的ファシズム陣営が作り出した史上未曽有の「人工地獄」からようやく救われたのであった。一九三〇年代における激しい政治的イデオロギーの戦いは、一九四五年に至ってファシズムの敗北という形で一応の決着を見たということができる。
ファシズムの戦慄すべき実態が暴露された大戦直後の世界にあっては、ファシズムは如何なる意味でも正当化することはできなかった。ヒトラーやムッソリーニの徒党であったスペインのフランコ政権が、国際連合から厳しく排斥されたことは、第二次世界大戦直後の時期においてファシズムに対する憎悪が国際的に強かったことを示している。ニュルンベルクと東京における国際軍事裁判には、たしかに戦勝国による戦敗国に対する一方的裁判として、その進行・判決が権力政治的な利害に左右されたにもかかわらず、その戦敗国よりも戦勝国(ソ連邦・中国)の側においてこそ死傷者が圧倒的に多かった事実は、ファシズムによる「絶滅戦争」としての第二次世界大戦の性格に由来するものであった。
このような惨憺たる犠牲を払って、人類はようやく人権の尊重と侵略戦争否定の法理を実体化したといってよい。国家の犯罪を批判しうる人類的見地という国際法思想史上画期的な論理の普遍化こそが国際軍事裁判の遺産であった。戦勝国と戦敗国という単純な区分で国際軍事裁判の原理を秤量することは、ファシズムそのものを第一次世界大戦後の国際秩序に対する否定としてのみ理解することと同様に、あまりに非歴史的であろう。ファシズムを打倒するために第二次世界大戦において払われた犠牲の大きさが改めて強調されなければならない。
第二次世界大戦後の世界とは、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」を経た世界である。いうまでもなく、「アウシュヴィッツ」とはナチスによる大量虐殺であり、「ヒロシマ」とは広島・長崎における米軍の原子爆弾投下である。前者は非合理主義的ニヒリズムの行き着いた「人工地獄」であり、後者は人間の生み出した科学・技術の発達が人間自身を絶滅しうる恐るべき可能性を物語るものであった。そのような恐怖の前に、はじめて民族や階級を越えた人類そのものという意識が感得されたのであり、世界史がまさに人類史として自覚的に展開される前提が形成されたといえるであろう。
連合国にとって、ファシズムを打倒することが第二次世界大戦に課せられた課題であった。もとより、「ファシズム」をどのように理解するかについて、当時の連合国指導者の間に全き一致が得られていたわけではないが、しかし、侵略戦争の根源がナチズムや日本軍国主義の構造そのものにあること、従って戦争が枢軸国の単なる軍事的敗北にとどまらず、枢軸国の政治体制の変革を目的としなければならないという認識については、連合国の間におおよその諒解が得られていたといってよいであろう。カサブランカ会談以来の枢軸国に対する「無条件降伏」方針の提示も、このような認識に基づくものであった。
ところで、ファシズムに対抗する連合国の共通の旗幟は「民主主義」であり、資本主義国と社会主義国との体制的相違にもかかわらず、また、国家レヴェルの指導理念としても、占領下民衆の抵抗闘争の象徴としても、民主主義が唱えられていた。いわば、反ファシズムの戦列は、民主主義の名における国際的規模の統一戦線として形成されたのである。しかし、その「民主主義」もまた、「ファシズム」と同様に、連合国の間に理解の相違があった。それは大戦後には民主主義の象徴を争う対立として現われるのであった。例えば、西側諸国にあっては、民主主義は議会政治や自由企業のパターンにおいて伝統的に自明なものとして意識されており、その意味では保守的なものである。ファシズムという挑戦者を破ったことによって、そのような保守的に把えられた民主主義が、意識の上ではかえって強化されたといえるであろう。それは冷戦の一つの前提となっている。しかし、例えばヴェトナム民主共和国の独立宣言がアメリカ合衆国独立宣言やフランス革命の人権宣言に範をとっているように、市民革命期の民主主義イデオロギーが、西側の帝国主義を批判する武器となっている関係を重視すべきである。
一九四八年十二月国際連合総会において採択された「世界人権宣言」は、東西における民主主義理解の共通点を示しており、この宣言をめぐる討論において、民主主義についてのソ連側と西欧側との相違が原則的なものではなく、具体的な方法にあることが明らかにされた。しかし、東西冷戦の展開とともにこの相違点だけが強調されるのであった。
世界史的に見るならば、第二次世界大戦は、巨大な歴史的転回点であったといえるであろう。そのことは、いわゆる近代史の様相を回顧してみるだけでも感得されるはずである。ヨーロッパの、しかもその支配層が世界情勢を左右した時代、資本主義だけが生産力発展の上で圧倒的に優位に立つ生産様式であった時代、そのような優位にある国による異民族の隷属化か当然として怪しまれなかった時代、国民の意志に関係なく戦争が起こされていた時代、などの近代史の諸様相は、現在においては消滅しているか、あるいは著しい変容を示している。いわば、世界の構造に大きな転換が嗇されているのである。第二次世界大戦後の世界は、全体として、歴史の新しい段階に入ったといってよい。第二次世界大戦後三十数年の歴史をどのような立場から把握するにしても、共通に認めざるを得ない明瞭な特徴は、資本主義とともに社会主義が、さまざまな困難を内蔵しつつも、国際的規模において存在していること、植民地諸民族が政治的独立を達成し、「第三世界」として世界史の新たな要因として登場していること、そして一方において核兵器が存在し、他方において月着陸の成功を見るまでに至ったように、科学・技術の発達が加速度的であること、などである。いわば人類は自然に対する関係において最高のレヴェルに到達したといえるであろう。しかし、それが人間と人間の関係についての合理的調整に比べて不均衡に発達したことによって、人類はかつてない危機に臨んでいるこである。国際権力政治の尭絶と諸国民の福祉のための方途をわれわれは模索し続けなければならない。
第二次世界大戦の諸性格の中でもっとも重要なものはファシズムとの闘争であり、第二次世界大戦の終結の最大の結果は、ファシズムの崩壊であった。世界は、日本軍国主義、ナチズム、イタリアのファシズムの国際的ファシズム陣営が作り出した史上未曽有の「人工地獄」からようやく救われたのであった。一九三〇年代における激しい政治的イデオロギーの戦いは、一九四五年に至ってファシズムの敗北という形で一応の決着を見たということができる。
ファシズムの戦慄すべき実態が暴露された大戦直後の世界にあっては、ファシズムは如何なる意味でも正当化することはできなかった。ヒトラーやムッソリーニの徒党であったスペインのフランコ政権が、国際連合から厳しく排斥されたことは、第二次世界大戦直後の時期においてファシズムに対する憎悪が国際的に強かったことを示している。ニュルンベルクと東京における国際軍事裁判には、たしかに戦勝国による戦敗国に対する一方的裁判として、その進行・判決が権力政治的な利害に左右されたにもかかわらず、その戦敗国よりも戦勝国(ソ連邦・中国)の側においてこそ死傷者が圧倒的に多かった事実は、ファシズムによる「絶滅戦争」としての第二次世界大戦の性格に由来するものであった。
このような惨憺たる犠牲を払って、人類はようやく人権の尊重と侵略戦争否定の法理を実体化したといってよい。国家の犯罪を批判しうる人類的見地という国際法思想史上画期的な論理の普遍化こそが国際軍事裁判の遺産であった。戦勝国と戦敗国という単純な区分で国際軍事裁判の原理を秤量することは、ファシズムそのものを第一次世界大戦後の国際秩序に対する否定としてのみ理解することと同様に、あまりに非歴史的であろう。ファシズムを打倒するために第二次世界大戦において払われた犠牲の大きさが改めて強調されなければならない。
第二次世界大戦後の世界とは、「アウシュヴィッツ」と「ヒロシマ」を経た世界である。いうまでもなく、「アウシュヴィッツ」とはナチスによる大量虐殺であり、「ヒロシマ」とは広島・長崎における米軍の原子爆弾投下である。前者は非合理主義的ニヒリズムの行き着いた「人工地獄」であり、後者は人間の生み出した科学・技術の発達が人間自身を絶滅しうる恐るべき可能性を物語るものであった。そのような恐怖の前に、はじめて民族や階級を越えた人類そのものという意識が感得されたのであり、世界史がまさに人類史として自覚的に展開される前提が形成されたといえるであろう。
連合国にとって、ファシズムを打倒することが第二次世界大戦に課せられた課題であった。もとより、「ファシズム」をどのように理解するかについて、当時の連合国指導者の間に全き一致が得られていたわけではないが、しかし、侵略戦争の根源がナチズムや日本軍国主義の構造そのものにあること、従って戦争が枢軸国の単なる軍事的敗北にとどまらず、枢軸国の政治体制の変革を目的としなければならないという認識については、連合国の間におおよその諒解が得られていたといってよいであろう。カサブランカ会談以来の枢軸国に対する「無条件降伏」方針の提示も、このような認識に基づくものであった。
ところで、ファシズムに対抗する連合国の共通の旗幟は「民主主義」であり、資本主義国と社会主義国との体制的相違にもかかわらず、また、国家レヴェルの指導理念としても、占領下民衆の抵抗闘争の象徴としても、民主主義が唱えられていた。いわば、反ファシズムの戦列は、民主主義の名における国際的規模の統一戦線として形成されたのである。しかし、その「民主主義」もまた、「ファシズム」と同様に、連合国の間に理解の相違があった。それは大戦後には民主主義の象徴を争う対立として現われるのであった。例えば、西側諸国にあっては、民主主義は議会政治や自由企業のパターンにおいて伝統的に自明なものとして意識されており、その意味では保守的なものである。ファシズムという挑戦者を破ったことによって、そのような保守的に把えられた民主主義が、意識の上ではかえって強化されたといえるであろう。それは冷戦の一つの前提となっている。しかし、例えばヴェトナム民主共和国の独立宣言がアメリカ合衆国独立宣言やフランス革命の人権宣言に範をとっているように、市民革命期の民主主義イデオロギーが、西側の帝国主義を批判する武器となっている関係を重視すべきである。
一九四八年十二月国際連合総会において採択された「世界人権宣言」は、東西における民主主義理解の共通点を示しており、この宣言をめぐる討論において、民主主義についてのソ連側と西欧側との相違が原則的なものではなく、具体的な方法にあることが明らかにされた。しかし、東西冷戦の展開とともにこの相違点だけが強調されるのであった。
世界史的に見るならば、第二次世界大戦は、巨大な歴史的転回点であったといえるであろう。そのことは、いわゆる近代史の様相を回顧してみるだけでも感得されるはずである。ヨーロッパの、しかもその支配層が世界情勢を左右した時代、資本主義だけが生産力発展の上で圧倒的に優位に立つ生産様式であった時代、そのような優位にある国による異民族の隷属化か当然として怪しまれなかった時代、国民の意志に関係なく戦争が起こされていた時代、などの近代史の諸様相は、現在においては消滅しているか、あるいは著しい変容を示している。いわば、世界の構造に大きな転換が嗇されているのである。第二次世界大戦後の世界は、全体として、歴史の新しい段階に入ったといってよい。第二次世界大戦後三十数年の歴史をどのような立場から把握するにしても、共通に認めざるを得ない明瞭な特徴は、資本主義とともに社会主義が、さまざまな困難を内蔵しつつも、国際的規模において存在していること、植民地諸民族が政治的独立を達成し、「第三世界」として世界史の新たな要因として登場していること、そして一方において核兵器が存在し、他方において月着陸の成功を見るまでに至ったように、科学・技術の発達が加速度的であること、などである。いわば人類は自然に対する関係において最高のレヴェルに到達したといえるであろう。しかし、それが人間と人間の関係についての合理的調整に比べて不均衡に発達したことによって、人類はかつてない危機に臨んでいるこである。国際権力政治の尭絶と諸国民の福祉のための方途をわれわれは模索し続けなければならない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
エティオピア戦争と国際連盟
『戦間期国際政治史』より
イタリアのエティオピア侵略の報に、イタリアに抗議する国際的な運動が一挙に爆発した。とくに、アフリカ・カリブ海諸島の諸民族やアメリカ合衆国の黒人にとって、独立国エティオピアはアフリカの自由の最後の砦と見られていたので、イタリアに対する抗議は激しかった。イタリアに抗議する集会が各地に開かれ、みずから武器を執ってエティオピアのために戦う義勇兵も現われた。国際世論は圧倒的にエティオピアに同情的であった。国際連盟がその歴史の上で最初で最後の規約第十六条による制裁をイタリアに対して発動したことも、このような国際世論を背景にしていたのであった。
イタリアのエティオピアに対する全面的な攻撃が始まると、十月七日、国際連盟理事会は、イタリアが国際連盟規約を侵犯したと認め、続いて翌十一日、連盟総会は五十カ国によって理事会の決議を承認し、連盟規約第十六条による制裁を発動することとした。国際連盟の指導国であったイギリス・フランスはアフリカでのイタリアの軍事行動に不安を感じ、イタリアを非難する国際世論や連盟加入諸国の制裁要求を無視できなかった。この決議にはスイスが参加せず、アルバニア・オーストリア・ハンガリーがその地理的位置からイタリアとの特殊な利害関係があるとして、対伊制裁に反対した。
この対伊制裁の具体的内容については十八カ国の小委員会に委ねられ、十一月二日、(一)イタリアに対する武器の禁輸、(二)信用の停止、(三)イタリア商品の輸入禁止、(四)アルミニウム・ゴム・鉄・錫などの軍用物資のイタリアヘの禁輸が決定され、十一月十八日から実行されることになった。
戦争に必要な多くの物資を海外に仰ぐイタリアにとって、このような経済制裁は打撃であり、これはムッソリーニも予期しないところであった。確かに、日本の満洲侵略やドイツのヴェルサイユ条約侵犯の際の国際連盟の寛大な態度と、今度のエティオピア侵略の場合の連盟の態度との間に大きな違いがあった。そこにはエティオピアに同情する国際世論の圧力や地中海におけるイギリスの利害などの諸条件が作用していた。しかし、この経済制裁の禁輸品のリストから、イタリアの戦争遂行に死活の重要性を持つ石油が除外されていた。カナダ・アルゼンティン・インド・チェコスロヴァキア・イラク・フィンランド・オランダ・ルーマニアなどの諸小国とソ連邦は石油禁輸の必要を力説したが、これに対してイギリス・フランスはこの問題を回避しようとした。ラヴァルはこの問題討議のための小委員会を二度も延期させ、結局、表向きは禁輸品目は連盟加入国によって統制し得る物資に限るという理由で、石油を禁輸品目から除外してしまった。また、イタリア軍の行動を阻止する最も効果的な方法であったのは、イタリア海軍のスエズ運河の通過を禁止することであったが、イギリスはこのような措置に反対した。
このように、イギリス・フランスのイタリアに対する制裁政策は実は抗議と妥協の二重政策であった。とくに、エティオピアがイタリアに勝利するとすれば、反帝国主義運動が他の植民地諸地域に波及するであろうという見透しがイギリス・フランスの保守派を著しく反エティオピア的にしていたのである。
三五年十二月八日に、ラヴァルとホーアの間にエティオピア戦争収拾案が成った。ホーア=ラヴァル案と呼ばれたこの計画は、イタリアにエティオピア領の約半分を与え、エティオピアにエリトレアの一部を与え、南部エティオピアをイタリアの「経済的発展および植民のための特別地帯」という名でイタリアの勢力範囲とするというものであった。いわば、イタリアの軍事侵略の成果を事実上容認して、エティオピアを保護国化するものであった。当然、エティオピア政府はこの案に強く反対した。イギリス国内の世論は沸騰して、労働党はホーア=ラヴァル案について政府弾劾案を十九日に提出する運びとなったが、その上程の一日前の十二月十八日にホーア外相は辞職した。ボールドウィン首相は対独伊強硬論者と見倣されていたイーデン国際連盟担当相を後任とした。
ホーア=ラヴァル案が葬られた翌日の十二月十九日、国際連盟の十八ヵ国小委員会は、石油禁輸問題を無期延期とした。翌三六年一月二十二日、石油禁輸問題について専門委員会が設けられ、この委員会の報告書が二月十二日提出された。これが十八カ国委員会において討議されるはずの三月二日、ムッソリーニはフランスに警告を発して、石油制裁が実施されるならば、イタリアは国際連盟から脱退し、三五年一月の仏伊ローマ協定付属軍事協定を破棄すると伝えた。同日、フランスは連盟に石油禁輸問題の回避と戦争終結勧告を提案し、翌日、連盟常任委員会はイタリア・エティオピア両国に休戦交渉の開始を提案した。エティオピアは三月五日、これに同意し、三月八日イタリアが交渉開始に同意した。しかし、その前日の三月七日、ヒトラーはロカルノ条約廃止を宣言して、ラインラントにドイツ軍を進駐させた。ここにヨーロッパ政局の焦点はドイツに移ることになる。
ホーア=ラヴァル案の失敗、石油問題の延期、ドイツ軍のラインラント進駐は、イタリアのエティオピアでの行動に拍車をかけることになった。原始的な武器に頼るエティオピア国民の抵抗は意外に強力であった。三六年に入って、イタリア軍は次第に占領地を拡大して、戦局の大勢を決していった。やがて、五月二日エティオピア皇帝ハイレ=セラシエは亡命し、首都アディス=アベバは陥落して、ムッソリーニは、九日、エティオピア併合を宣言した。
国際連盟の対伊制裁問題は七月には撤回されるに至った。ここに国際連盟の権威は失墜して、以後の国際問題は大国の直接交渉によって処理される傾向が助長されてゆくのである。またイギリス・フランスはイタリアの侵略を容認したが、その結果はイタリアのアフリカにおける勢力を増大させ、地中海に危険を生み出した。また、ドイツは対伊制裁に参加しなかったために、フランスの意図に反してドイツとイタリアを結びつけることになった。
エティオピアを征服したイタリアは苛酷なテロリズム支配によって住民に臨んだ。エティオピアではイタリア支配に対するゲリラ活動が続き、イタリアはエティオピアの獲得によって得るところは少なかった。しかも、エティオピア戦争の予想外の長期化によって、イタリア軍とファシスト義勇軍との対立も生まれ、次の対外侵略による成功を夢想するムッソリーニ体制にとって困難な条件を生み出していた。
イタリアのエティオピア侵略の報に、イタリアに抗議する国際的な運動が一挙に爆発した。とくに、アフリカ・カリブ海諸島の諸民族やアメリカ合衆国の黒人にとって、独立国エティオピアはアフリカの自由の最後の砦と見られていたので、イタリアに対する抗議は激しかった。イタリアに抗議する集会が各地に開かれ、みずから武器を執ってエティオピアのために戦う義勇兵も現われた。国際世論は圧倒的にエティオピアに同情的であった。国際連盟がその歴史の上で最初で最後の規約第十六条による制裁をイタリアに対して発動したことも、このような国際世論を背景にしていたのであった。
イタリアのエティオピアに対する全面的な攻撃が始まると、十月七日、国際連盟理事会は、イタリアが国際連盟規約を侵犯したと認め、続いて翌十一日、連盟総会は五十カ国によって理事会の決議を承認し、連盟規約第十六条による制裁を発動することとした。国際連盟の指導国であったイギリス・フランスはアフリカでのイタリアの軍事行動に不安を感じ、イタリアを非難する国際世論や連盟加入諸国の制裁要求を無視できなかった。この決議にはスイスが参加せず、アルバニア・オーストリア・ハンガリーがその地理的位置からイタリアとの特殊な利害関係があるとして、対伊制裁に反対した。
この対伊制裁の具体的内容については十八カ国の小委員会に委ねられ、十一月二日、(一)イタリアに対する武器の禁輸、(二)信用の停止、(三)イタリア商品の輸入禁止、(四)アルミニウム・ゴム・鉄・錫などの軍用物資のイタリアヘの禁輸が決定され、十一月十八日から実行されることになった。
戦争に必要な多くの物資を海外に仰ぐイタリアにとって、このような経済制裁は打撃であり、これはムッソリーニも予期しないところであった。確かに、日本の満洲侵略やドイツのヴェルサイユ条約侵犯の際の国際連盟の寛大な態度と、今度のエティオピア侵略の場合の連盟の態度との間に大きな違いがあった。そこにはエティオピアに同情する国際世論の圧力や地中海におけるイギリスの利害などの諸条件が作用していた。しかし、この経済制裁の禁輸品のリストから、イタリアの戦争遂行に死活の重要性を持つ石油が除外されていた。カナダ・アルゼンティン・インド・チェコスロヴァキア・イラク・フィンランド・オランダ・ルーマニアなどの諸小国とソ連邦は石油禁輸の必要を力説したが、これに対してイギリス・フランスはこの問題を回避しようとした。ラヴァルはこの問題討議のための小委員会を二度も延期させ、結局、表向きは禁輸品目は連盟加入国によって統制し得る物資に限るという理由で、石油を禁輸品目から除外してしまった。また、イタリア軍の行動を阻止する最も効果的な方法であったのは、イタリア海軍のスエズ運河の通過を禁止することであったが、イギリスはこのような措置に反対した。
このように、イギリス・フランスのイタリアに対する制裁政策は実は抗議と妥協の二重政策であった。とくに、エティオピアがイタリアに勝利するとすれば、反帝国主義運動が他の植民地諸地域に波及するであろうという見透しがイギリス・フランスの保守派を著しく反エティオピア的にしていたのである。
三五年十二月八日に、ラヴァルとホーアの間にエティオピア戦争収拾案が成った。ホーア=ラヴァル案と呼ばれたこの計画は、イタリアにエティオピア領の約半分を与え、エティオピアにエリトレアの一部を与え、南部エティオピアをイタリアの「経済的発展および植民のための特別地帯」という名でイタリアの勢力範囲とするというものであった。いわば、イタリアの軍事侵略の成果を事実上容認して、エティオピアを保護国化するものであった。当然、エティオピア政府はこの案に強く反対した。イギリス国内の世論は沸騰して、労働党はホーア=ラヴァル案について政府弾劾案を十九日に提出する運びとなったが、その上程の一日前の十二月十八日にホーア外相は辞職した。ボールドウィン首相は対独伊強硬論者と見倣されていたイーデン国際連盟担当相を後任とした。
ホーア=ラヴァル案が葬られた翌日の十二月十九日、国際連盟の十八ヵ国小委員会は、石油禁輸問題を無期延期とした。翌三六年一月二十二日、石油禁輸問題について専門委員会が設けられ、この委員会の報告書が二月十二日提出された。これが十八カ国委員会において討議されるはずの三月二日、ムッソリーニはフランスに警告を発して、石油制裁が実施されるならば、イタリアは国際連盟から脱退し、三五年一月の仏伊ローマ協定付属軍事協定を破棄すると伝えた。同日、フランスは連盟に石油禁輸問題の回避と戦争終結勧告を提案し、翌日、連盟常任委員会はイタリア・エティオピア両国に休戦交渉の開始を提案した。エティオピアは三月五日、これに同意し、三月八日イタリアが交渉開始に同意した。しかし、その前日の三月七日、ヒトラーはロカルノ条約廃止を宣言して、ラインラントにドイツ軍を進駐させた。ここにヨーロッパ政局の焦点はドイツに移ることになる。
ホーア=ラヴァル案の失敗、石油問題の延期、ドイツ軍のラインラント進駐は、イタリアのエティオピアでの行動に拍車をかけることになった。原始的な武器に頼るエティオピア国民の抵抗は意外に強力であった。三六年に入って、イタリア軍は次第に占領地を拡大して、戦局の大勢を決していった。やがて、五月二日エティオピア皇帝ハイレ=セラシエは亡命し、首都アディス=アベバは陥落して、ムッソリーニは、九日、エティオピア併合を宣言した。
国際連盟の対伊制裁問題は七月には撤回されるに至った。ここに国際連盟の権威は失墜して、以後の国際問題は大国の直接交渉によって処理される傾向が助長されてゆくのである。またイギリス・フランスはイタリアの侵略を容認したが、その結果はイタリアのアフリカにおける勢力を増大させ、地中海に危険を生み出した。また、ドイツは対伊制裁に参加しなかったために、フランスの意図に反してドイツとイタリアを結びつけることになった。
エティオピアを征服したイタリアは苛酷なテロリズム支配によって住民に臨んだ。エティオピアではイタリア支配に対するゲリラ活動が続き、イタリアはエティオピアの獲得によって得るところは少なかった。しかも、エティオピア戦争の予想外の長期化によって、イタリア軍とファシスト義勇軍との対立も生まれ、次の対外侵略による成功を夢想するムッソリーニ体制にとって困難な条件を生み出していた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )