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バルト三国の歴史 他国の軍服を身にまとい戦うこと

『バルト三国の歴史』より 前門の虎、後門の狼(一九三九~一九五三) ソ連による併合 ⇒ ナチス帝国管区「オストラント」

第二次世界大戦でバルト三国は中立の立場をとっていたものの、市民たちは、民族抹殺を企図する二つの全体主義勢力のうちいずれかの国の軍服を着て戦わなければならなかった。バルトの人びとの中には、赤軍とナチス武装親衛隊(ヴァッフェンSS)の両方で戦った経験のある者が少なくない。戦前の国軍は赤軍の領域部隊に再編され、一九四一年五月末に訓練キャンプに送られた。多くの将校は逮捕され、ノリリスクをはじめとする北極圏に作られた収容所に移送されたうちの大半が処刑された。ナチスの侵攻が始まると、エストニアおよびラトヴィアの旧国軍のうち何とか生き残った者は、北西ロシアで防衛戦を展開し、その多くが犠牲になった。その後、ソ連後方の労働大隊に送られ、数多くの者が一九四一年冬、劣悪な環境下で死んでいった。一九四一年夏に撤退する赤軍に動員された多くの人びとも同じ運命をたどった。ドイツ軍の急進撃を受けたラトヴィアとリトアニアでは徴兵が間に合わなかったため、その多くを占めたのはエストニア人(三万三〇〇〇人)であった。赤軍での残忍な扱いに耐えかねた多くの兵士は、一九四二年夏に前線に送られた機会を逃さず、帰郷を願ってドイツ側に脱走した。

ソヴィエト体制への復讐を胸に抱き、あるいは共産主義者によって強制連行された家族の解放のために、何千ものバルトの人びとが志願してドイツ軍に入隊した。このバルトの志願兵は警察大隊や補助大隊に編成され、オストラント近郊地域で主に施設防衛ならびにソ連側パルチザンとの戦いに従事した。警察大隊の中には、ペラルーシおよびウクライナのユダヤ人の処刑に直接関与した者もいた。占領軍に協力した自治組織は、ドイツ軍の軍事行動に兵力の提供を約束する見返りに(スロヴァキアを手本に)自国領でのより大きな自治を求めた。エストニアとラトヴィアそれぞれの指導的人物であるオスカルーアングルス「一八九二~一九七九)とアルフレーヅ・ヴァルデマニス(一九〇八~七〇)はそうした計画の概略を記した覚書を準備したが、国家弁務官ローゼの反対にあった。ドイツ軍の軍事行動に対する現地の支持を挺入れするために、ローゼンべルクは一九四三年、ヒトラーに同様の控えめな提案を行ったものの、却下された。しかしながら、一九四三年、東部戦線での戦況が第三帝国に不利になると、ドイツ人はバルト地域での徴兵を強化した。警察大隊がもっぱら志願兵によって組織されたのとは対照的に、武装親衛隊へのエストニア人、ラトヴィア人、リトアニア人の徴兵が開始された。東欧の人びとは国軍(正規軍)への入隊を許されていなかったので、バルトの人びとは武装親衛隊の所属とされた。占領地域での動員はハーグ条約に反する行為であったので、それは「自発的な」入隊とみなされた。ナチス占領下のヨーロッパ諸国の中で、親衛隊の民族師団を組織しなかったのはリトアニア人ならびにポーランド人のみであった。リトアニア人の愛国的地下組織による効果的なボイコット作戦の結果、ドイツ人は、一九四三年に親衛隊への徴兵を断念せざるをえなくなった。それ以外にも三五〇〇人のエストニア人によるドイツ軍入隊拒否という形の抵抗が記録されている。それらのエストニア人は秘密裏にフィンランド湾を渡り、フィンランド軍に加わってソ連との戦いを継続した。必要な数の砲兵を得られなかったため、ドイツ軍は別の形でバルト地域の人力を利用した。一二万五〇〇〇人以上が、その大半はリトアニア人であったのだが、ドイツ本国の軍事工場での労働に従事させられた。

一九四四年初頭、赤軍のバルト三国接近に伴い、状況は劇的に変化した。以前は第三帝国のために働くことに抵抗していた人びとが、祖国防衛のために召集命令に決然と応じたのである。一九四四年二月、約二万人のエストニア人が登録された。戦時中にドイツ軍に動員されたラトヴィア人は十一万人であり、その半数がラトヴィア軍団(親衛隊第十五ならびに第十九師団)に編制された。

一九四四年初頭、赤軍が間近に迫り、リトアニアの東部国境地帯でソ連側のパルチザンによる攻撃が激しくなるとドイツ軍当局はリトアニア領土防衛隊の創設を発表し、尊敬を集めていたリトアニア人のポヴィラスープレ(ヴィチュス将軍(一八九〇~一九七三)がこれを率いた(彼は以前、ナチス武装親衛隊の勧誘運動に同調することを拒んでいた)。以前はリトアニア人を入隊させることに失敗したが、このときは入隊者の任地をリトアニア地域内に限定し、そしてリトアニア人将校の指揮下に入れることをドイツ軍当局が約束したため、二万人以上の男性が入隊した。だが、ドイツ軍当局はすぐに同部隊についての考えを変え、この部隊がリトアニア国軍の中核になるための準備を行うのではないかという疑いのまなざしを向けた。そして、最終的にはあまりうまくいかなかったものの、入隊者をドイツ人指揮下の部隊で勤務するよう配置し直そうとした。ヒトラーヘの忠誠を誓うように要求されたとき、リトアニア人は一気にドイツ軍から離れていった。五月、プレハヴィチュスは逮捕され、その部下数名が処刑された。部隊に属していた者の多くは武器を手に森へと逃げ、のちに反ソ連レジスタンスの中核として再び登場することとなる。

ナルヴァ戦線を越えてエストニア奥地へと進む赤軍を、一九四四年七月、ドイツ人とエストニア人の合同軍がタンネンべルク防御線(シニマエ)でくい止めた。赤軍は、十万人以上の死者を出しながらもドイツ軍の強固な守りに繰り返し攻撃を仕掛けたが、これを突破することはできず撃退された。この戦いでは局所的な単発の戦闘としてはバルト地域で最大の犠牲者が出た。バルト地域の戦闘部隊を配下に置いたドイツ軍北方軍団には、はるか南での赤軍の進撃を押しとどめるほどの物的・人的資源はなかった。ヴィルニュスは七月には攻略されており、赤軍はリーガを攻撃することで、エストニアで戦う北方軍団を孤立させようとした。おりしもフィンランドがソ連との停戦条約を締結した九月、ドイツ軍はエストニアを放棄した。リーガは十月に陥落した。
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