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本当に日本経済は再生しつつあるのか?

『2020年の日本』より 『成熟』の先にあるもの

本当に日本経済は再生しつつあるのか?

 アベノミクス効果でデフレ脱却気運が盛り上がっている。円安による輸出産業の収益改善、株高による高級品消費の改善、さらに消費税増税に対する不動産の駆け込み需要等が相次いでいる。

 しかし、本当に日本経済は再生しつつあるのだろうか。

 国内の人口減少による国内市場の縮小に対応して大企業を中心としたグローバル展開が加速化している。本社を海外移転させた企業はまだ極めて稀であるが、事業部門の本社機能を海外移転させている事例は多数存在する。

 例えば、三菱商事は、鉄鉱石や銅など金属資源の貿易・販売部門を本体から切り離し、シンガポールに新会社を設立した。グローバル戦略の立案などの本社機能を日本から全面移管し、意思決定を迅速化して顧客開拓を加速させている。丸紅は、米国の第3位の穀物商社ガビロンを買収し、穀物部門の本社機能を北米に移す計画を打ち出した。

 商社以外でも、三井化学は2011年春に自動車向けの樹脂改質材の事業部すべてをシンガポールに移管して研究開発部門を新設した。HOYAは2009年に眼鏡レンズの事業本部をタイに移転済みだが、11年には医療用眼内レンズの事業本部に加え、鈴木洋・最高経常責任者(CEO)が常駐するオフィスもシンガポールに移している。

 また、日本たばこのように、欧州のたばこ会社を買収してグローバル成長を進める一方で国内の生産拠点を閉鎖する動きも出始めており、グローバル企業の成長戦略は必ずしも国内経済の成長に直結しない部分が増えている。

先進国からインドに移転する頭脳労働

 それでも多くの読者は、製品開発などの高付加価値な業務はまだ国内に残っていると考えているのではないだろうか。

 しかし現実はそう甘くはない。私たちが今どんな時代を生き、これから時代はどう移り変わるのか。それを如実に表すショッキングな数字を紹介しよう。

 ご存知のように、インドはITサービス業の大国だ。たくさんの企業が生まれ、飛躍的な成長を遂げているが、中でも圧倒的な力を持つのが、上位のTCS「タタ・コンサルタンシー・サービシズ)、WIPRO(ウィプロ)、INFSYS(インフォシス)、HCLの4社である。

 この4社の従業員数は、2005年の時点では計12万人だったが、2013年には70万人に増加した。8年間で約6倍に膨れ上がったわけだ。この70万人のほとんどは、欧米金融機関向けのITサービスに従事している。これが何を意味するのかといえば、欧米からの雇用の消失である。欧米の金融機関から70万人近い雇用が失われ、それがそっくりインドにシフトしたのである。

 インドのIT企業が金融機関や携帯電話会社向けのITサービスの次にターゲットにしているのが、自動車・航空機設計サービスの領域だ。例えば、衝突実験のような自動車設計に欠かせない重要な業務もコンピュータ上でシミュレーションできる時代になった。先進国の自動車メーカーは新興国向けの設計開発要員が不足するなか、インドのIT企業の活用を始めている。

 インドのIT企業は、右(ンドル車を左(ンドル車に設計しなおすレベルから始め、徐々に車全体を設計できるノウ(ウも身につけ始めている。すでに日系自動車メーカーのインド向け自動車の設計開発は、すべてインドの会社が担当する事例が出現している。

 おそらく、加速度的に自動車・航空機・建設機械等の設計サービスの雇用は日本も含む先進国からインドにシフトしていくはずだ。

 海外への雇用の移転といえば、かつては製造業の工場中心だった。だが、今では頭脳労働も低賃金の国にどんどん移転を始めている。高度な知識集約産業の雇用も分野によっては、海外へ移っていくだろう。

 技術革新が可能にしたこの稀代の変化を前に、我々は何をなすべきなのか。解決策は一つしかない。付加価値が高い、次世代が誇りを持って取り組める仕事を国内に創造することである。政府の成長戦略にも「企業経営者に大胆な新陳代謝や新たな起業を促し、それを後押しするための、設備投資促進策や新規事業の創出を従来の発想を超えたスピードと規模感で大胆かつ強力に推進すること」が掲げられている。

 しかし、国内の産業を見ると目を見張るような大きな変化は見えにくい。依然として、根本のところで変化を感じにくい。
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思考のなかの哲学と行動のなかの哲学

『生きる術としての哲学』小田実より 世界をどう捉えるか 二つの「哲学」

アテネ国立大学は、言わば哲学の発祥の地です。そこの哲学科で何を講義するのかと聞いたら、「日本におけるギリシア哲学の受容」について話してくれと言う。誰がどの哲学者を翻訳したとか、そんな類の話はどうでもいい。ただ、ギリシア哲学が日本に導入されたときに実は重大な問題を起こしている。その話をしました。

哲学には二つある。一つは、皆さんが理解しているとおり、ものごとが何で成立しているのか、何でこんなものがあるのか、分析したり認識したりする学問です。《Philosophy in Thought》、「思考のなかの哲学」です。プラトンのイデア説がどうのこうのという哲学史の講義を受けて、あくびが出た経験があるだろう。しかし、それは、フィロソフィーの一つのジャンルにすぎない。半分しか理解したことにならない。もう一つ重要な哲学があります。《Phirosophy in Action》、「行動のなかの哲学」です。古代ギリシア哲学においてはこの二つがあった。それを日本は受け入れていない。

古代アテナイは民主主義の本場です。《democracy》は、もともとギリシア語で、《demos》と《kratia》の合成語です。《demos》は「民衆」の意味ですが、もう一つ、「選挙区」「居住区」、「地域」、つまり「住民」の意味もあります。《kratia》は「力」です。つまり「民衆の力」が「デモクラシー」ということになります。「デモクラシー」は、本来選挙とは関係ありません。選挙はローマ時代に始まったもので、ギリシアでは、あまり選挙をしていない。ローマは民主主義ではなく、共和制の名前を借りた独裁国家です。そこから堕落が始まる。それに対して「デモス・クラティア」、「民衆の力」を誇ったのが古代アテナイで、紀元前五世紀にはペリクレスをはじめ多くの論者がいて、文学も隆盛した。

古代アテナイの「デモクラティア」は、一言で言えば、「民衆が力をもって民衆が政治をする」ということです。大衆が政治をする。政治はものを考えなければいけないから、そこから哲学が生まれる。それが《Phirosophy in Action》になります。皆さんは、哲学用語で《logos》を知っていると思います。これは、「理性」という意味と「ことば」という意味の二つがあります。「理性」と「ことば」の二つが人間の思考活動を形成するわけですが、明治時代の人は「思弁」といううまい訳語をつくった。ちゃんと「弁」がなかに入っています。哲学は「理性」の話ばかりで、「ことば」の話をしていない。

実際の「デモクラティア」の政治は、ことばを中心にして行われます。民主主義の根本はことばでしょう。ことばで説得することによって成り立つ政治が、民主主義です。カネや力を持ってくるのは民主主義ではない。

わけのわからないことを言っても、もちろん人はついてこない。ことばによって、人を「説得」しなければいけない。脅しではなく、相手を納得させ、その気にさせる。そこから「理性」が出てくる。だから、《logos》は、もともと「ことば」で、次に「理性」という意味が派生したことになります。

ギリシアでは、「書く」の前に「しゃべる」があり、「読む」の前に「聞く」がありました。英語の《audience》は、「聴衆」という意味と「読者」という意味と二つありますが、もとの意味は「聴く人」です。後になってから「読者」という意味が出てきたわけです。古代アテナイには、字が読めない人は山といましたが、政治に参加していると、字が読めなくても理性をもってきます。だから、哲学のもとは、まず「しゃべる」ことです。よく言われることですが、ソクラテスは市場へ行って靴屋としゃべって自分の哲学を形成した。しゃべることが、哲学の根幹にあるわけです。

しゃべることによってものごとを達成する、ことばで説得することによってデモクラティアを進行する。そういう思考のもとが、彼らの考えるフィロソフィアです。

どうしゃべり、どう人を説得するか。それが、《rhetorike》、つまり「修辞学」です。日本では、「単なる修辞にすぎない」といった表現があるように、「修辞」は大切にはされませんが、《rhetoric》、ギリシア語で言うと《rhetorikc》は非常に大事な学問として成立しています。アリストテレスに『レトリケー』という本があります。まさに、どうしゃべるか、どう人を説得するか、法廷の弁論、議会の弁論について書いてある本です。日本の大学では、アリストテレスの分析学の話はしても、修辞学の話は薗もしない。そもそも、日本の大学には哲学科はあっても、修辞学科は、この慶唐大学も含めてどこにもないでしょう。
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使うから買うへ

使うから買うへ

 使うから買う、買うから使う。それによって、買うことは個人だけど、使うとなったら、地域です。それが、「いい町・いい社会」とつながっていきます。クルマを使う、交通手段をどのように使っていくのか、それを市民と一緒になって考える。

 今までは、使うというのを個人単位で考えていたけど、個人単位ではムリがあります。エネルギーもまるで変わらないです。結局、資本主義の一番のベースを変えていくことになります。個人が所有するという欲求を変えていくこと。それは共有の世界をさらに進めることであり、かつ、効率的にすることである。人が多く居れば居るほど、成り立つ世界を作ることです。

 最初の仕事の部分でシステムは単に作るだけではなく、作るのが目的でなく、使うのが目的であることからの帰結です。個人の欲求をグループの欲求にして、それでもって、全体の効率を上げるだけでなく、双方向をいい形にしていく。

 結局、デカルトではないけど、所有することで、資本主義は発達してきたが、この先の有限の世界において、それはありえない。シェアすることにより、共有することにより、更なる進歩を図らないといけない。エネルギーは特にそうです。

目的を明確にする

 目的を明確にして、そのために社会を変えていく。その中で、自分がどういう役割をしていくのか、そのためには自分の存在の力がベースになる。言われたことをやると言っても、言った連中が欲でもない場合は、ここでは特にそれが必要です。

 だから、全体を見ると同様に、個々のところを見ていく、その両方をドッキングさせること。最初の直感のところ、システムを作ることではなく、使うことの帰結がここに来ている。えらく粘り強いですね。自分でも驚きます。

本と図書館をつなげる公共の概念

 本がある理由、図書館がある理由、それらがつながっていない。それをつなげるのが、第6章。つなげるポイントは公共の概念ということと、もう一つは行動につなげるかです。つまり、市民の分化と組織の分化。

国民国家と市民主体社会

 4章の歴史編は国民国家が中心になります。そこから、脱国民国家に行く途中に、市民主体社会になるのか、同じなのか。市民主体国家もどちらかというと、社会の位相化と同じように分化と統合です。

 むしろ、歴史観です。歴史哲学をベースにして、個人からどのように積み上げていくのか。それは他のジャンルでやるけど、歴史で全てが統一される。

 歴史における新しい歴史観、歴史哲学、そのベースは分化と統合です。元々、ローカルとグローバルというものとか、社会の位相と数学的要素も入れて、分化と統合です。近傍系という概念を大きくしています。今までの国民国家と何が違うのか。

 国民国家は意思の力です。カリスマ的な指導者がいて、それに従うモノがいて、拡張することを前提とした意思の力です。

存在の力の集約

 今回は完全に意思の力ではない。個人の存在の力の集約そのものです。存在の力での新しい社会です。自分がなぜ、そこに居るのかという存在の力、それをどのようにして全体の力にしていくのか。ローカルの場合はそういうものが一切なかった。自分が存在するだけで汲々としていた。

 そういう個々の存在の力を全体として、統合していく。それが国を為していく、世界を為していく。統合の力はあくまでも、それらをどのようにパターン化していくのかというところです。だから、国という形態は在ってもなくてもいいです。あった方が主張しやすかったら、それにすればいいです。そこでのベースは意思の力そのものです。

存在の無からサファイアへのチェーン

 チェーンで考えた方がいいみたいです。存在と無から生まれてきた意味、生まれてきた意味からもう一人の私、もう一人の私から社会分析、社会分析からサファイア循環。何となく、桶屋モードですね。
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