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ドーナツの穴を残して食べてみる

『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』より とにかくドーナツを食べる方法

読者の皆さんに4次元空間のなかに住んでいると想像して欲しい、とお願いしていたと思う。そこで、4次元空間の中にドーナツがあると考えよう。

ドーナツの穴再考:ドーナツの穴の定義と問題の言い換え

 ここで、皆さんがドーナツの穴をどのように認識するかを再び考えてみよう。前に述べたようにドーナツの穴とは図での矢印の先にある部分であると考えるのは誰も否定しないだろう。この場合、我々はドーナツの穴を「視覚的」にとらえている。しかし、我々が穴をきちんと認識するためには、穴に指を通して輪を作って、(知恵の輪のように)指とドーナツを外すことができないことをちゃんと認識する必要があるはずである。

 ここまでの準備の下で、数学、つまり論理を展開するために、「ドーナツの穴」をここで定義することにする。さて定義である。ここでは「ドーナツの穴」とは「図3-5のようにドーナツと指を離れないようにする仕草」と定義することとしよう。この定義のポイントは、ドーナツの穴は、万人が視覚的に一斉に認識するのではなく、各人、例えばあなたの友人がドーナツの穴に指を通すことによって認識することにより定義されるとするのである。ただし、ここで与える定義はこの章のみの定義であって、この本の他の章はいうまでもなく、一般社会では全く通用しないことをあらかじめ注意しておく。

 この定義の下でお題は次のように書き換えられる:各人が認識するドーナツの穴を残して食べることつまり、お題はより具体的に

 あなたの友人がドーナツの穴を認識したまま、あなたはドーナツを食べることが出来るかと言い換えることができる。

4次元空間での設定の復習

 我々はいま4次元空間の中にいる。2次元空間から3次元空間へ広げたときに行動範囲が広がったように、3次元空間から4次元空間に広げると、行動に自由度が増えることに注意しよう。

 先ほど図3-5のように、指をドーナツの穴に通して穴を認識することを考えたが、それはちょっとわかりにくいので、輪をあなたの友人の指の代わりに考えてみる。

 現在の設定では、我々は4次元空間に住んでいる。しかし、ドーナツと輪(友人の指)は明らかに3次元空間の中に住むことができるから、4次元空間の中の3次元空間{(x,y,z,0) |x,y,zは実数}に含まれているとしても良いだろう。ただし、あなたの友人は常人なので、この3次元空間の中に住んでいるが、4次元空間を理解できないとしておく。

実際に食べてみる

 先ほど予告したように、お題にある「あなたの友人がドーナツの穴を認識したまま、あなたがドーナツを食べること」ができるかどうかを試してみよう。

 まず今の状況では、ドーナツと輪(友人の指)は4次元空間内の、4番目の座標であるw軸の座標が0である点からなる部分集合の中に含まれている。そこで、あなたは4次元の世界に住んでいるのだから、図3-7のように ドーナツをw軸の座標を1に持って行くことができる。この際、2次元の中に書いた円の内部から3次元空間の中では外側に抜けることができたように この状況では、この操作によりドーナツは輪(友人の指)には触れずにw軸の座標を1に持って行くことができる。座標を1に持って行ってからドーナツを食べると、輪(友人の指)には触れずに食べることができたことになる。食べた後に、あなたがw軸の座標がOの位置に戻って友人に食べたことを伝えると、友人はビックリするだろう。っまり、あなたが食べたことを伝えるまで、友人はドーナツの穴を認識していたのである。したがって、友人に気づかれずにドーナツを食べること、つまり、あなたは「友人がドーナツの穴を認識したまま、ドーナツを食べること」が成功したことになる。

 実際には、友人は4次元空間を理解していないので、ドーナツの軸の座標がOと違った瞬間に、友人の目の前からドーナツは消えているのである。いずれにしても友人の指には触っていない。
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道徳をつくる カント

『憂鬱になったら、哲学の出番だ!』より

コペルニクス的転回

 フランス出身のデカルトは主観と客観を分けて近代哲学を始めましたが、イギリスのロックやヒュームらは客観的な世界は認識できないと主張しました。これに対し、カントは客観的な世界を「物自体」と呼び、物自体は認識できなくても、主観に現れる現象界は他者と共有できるとして、大陸合理論やイギリス経験論の難問を克服しました。これは、哲学のコペルニクス的転回と呼ばれています。カントからフィヒテ、ヘーゲルと続く哲学の流れは、ドイツ観念論と呼ばれ、西欧近代の哲学の最高峰と言ってよいと思います。

 面白いのが、アンチノミー(二律背反)の議論です。宇宙に始まりや終わりがあるのかないのか、世界に絶対者がいるのかいないのかといった問いは、究極の難問として古代から考えられてきました。これらの問いについて、カントはわざわざイエスの答えとノーの答えのふたつとも証明してみせます。つまり正反対の命題が同時に成り立っているという奇妙な状況、つまり「二律背反」をいったんつくり出す。そのうえで、この問題は原理的にどちらかに決定することが不可能だということを証明していきます。このようにカントは、膨大な時間を費やして、これらの問いが決定不可能、つまり解けない問題であることを論証しています。

 ぼくに言わせれば、わざわざ結論のない問題に取り組んで、苦しんでいるとしか言いようがありませんが、西研は解けないことをきちんと論理立てて説明することが、哲学にとって大事だと言います。

 カントは『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』という三つの批判書を出して、理性そのものを批判しました。カントはなぜ、近代哲学が御旗に掲げた理性を批判したのか。理性を批判して、どのような哲学を考えたのか。西研に徹底的に聞いてみたいと思います。

人間の道徳

 もうひとつ、カントで見逃せないのが道徳論です。

 プロイセンとフランスが一七九五年に平和条約を結んだのを機に、カントは『永久平和のために』という小著を刊行していますが、この本では「常備軍を全廃すること」や「戦時にも暗殺者の使用や敵国に対する反乱扇動をしてはならないこと」など、国家がしてはならないことを述べています。また、永久平和を実現するために、国際連盟を創設して道徳的立場から国際法で戦争を禁止することを提案しています。まさに、近代合理主義の理想を述べたものと言えます。

 道徳をテーマにした『実践理性批判』で、カントはまず意志の自由について述べます。人間の行為はさまざまな条件の連鎖によって左右されるので、意志の自由がなければ、責任を取ることもできません。では、意志の自由があるとき、どのように行動すればよいか。

 そこで、カントが示したのが「汝の意志の格律が、常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という道徳法則でした。格律というのは、自分が「こうだ」と思っている自分なりの方針のことです。たとえば、相手に対して「ウソはつかない」とか「約束は守る」といったことを考えればよいと思います。

 わかりやすく言うと、自分がこうしようと思っている方針が、他の人たちが納得できるような普遍性を持っているかどうか、よく考えて行動するということです。そうやって方針を吟味できるだけの良心が人間にはあるとカントは言っているのですが、ぼくに言わせれば、それは願望にすぎません。

 ただ、カントの道徳論には、当時の時代背景があります。西研によると、それまでの道徳は神から与えられたものでした。ヨーロッパの人たちは、それまで為政者や宗教者の言うことに従って生きていたのです。これに対し、カントは自分の立てた方針に普遍性があるかどうか考えて行動するという自由な生き方があることを示しました。
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