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ディスコルシ第二巻 1 ローマ人が広大な版図を確保したのは、実力によってか、それとも運がよかったためか

『ディスコルシ』より

ローマ人民がその広大な版図を手に入れることができたのも、彼らの実力というよりはむしろ運がよかったからにすぎないという考え方は、最大の歴史家プルタルコスをはじめとして、多くの学者が抱いていたものだった。この理由の一つとして、プルタルコスは次のことをあげている。つまり、ローマが勝ち得たどの勝利をとってみても、全部が全部、幸運によってもたらされたものだ、とローマ人民自らが漏らしていることからもわかるのである。しかも、そのような幸運がもたらされたのも、人民が他のどの神々をさしおいても、第一に「運命の女神」の神殿の建立に精を出したからである。

リウィウスも、プルタルコスのこの考えに近いようだ。というのは、リウィウスがその史書の中で、ローマ人の登場人物の口を借りてしゃべらせているのを検討してみると、口ーマが持っていた実力を運のよさと結びつけずに、実力だけを云々させている例は、まずないといってよいからである。

ところが、この私は、どうしてもこの意見に賛成する気になれない。また、こんな考えなどに加担する者など、いるはずがないとも思う。そのわけは、ローマほどの発展をとげた共和国が二度と現われなかったことは、元をただせば、いかなる共和国でも、ローマと同じ大目的に向かって国家体制を整備したものがなかったからである。

また、彼らが大帝国を支配下に収めたのは、その軍事力によるものだし、また、〔いったん〕獲得した大国家を維持していけたのも、ローマがその草創の立法者に負う制度の手順や独特の手法によるものである。この点については、以後十分に紙面を割くつもりである。

さて、口丿マが一時に二つの強敵を向こうにまわして戦争をしたことがなかったのは、なんといってもローマの運がよかったからであり、ローマ人民の実力いかんとは何の関わりもない、という意見を吐く人びとがいる。彼らの言い分によると、ローマ人民がラティウム人と戦いを開く前に、すでにサムニウム人はローマ人に撃破されていたからである。むしろローマ人は、そのサムニウム人を守ってやるために、ラティウム人との戦端を開いたほどであった。

そればかりでなく、ローマ人がさらにエトルスキ人と戦ったのも、実は、はじめにラティウム人を屈服させておいて、さらに何度も戦いを交えた結果、全サムニウム人をほとんど壊滅状態に追いやってしまった後のことだった。そして、もし仮に、以上述べてきた口ーマの敵国のうち二つがいまだ健在で国力を消耗していなかった時代に、互いに力を合わせてローマに向かってきていたら、ローマ共和国に壊滅がもたらされていたことは間違いなく容易に推察されえよう。

ところが理屈はどうあろうと、実際には、ローマは同時に二つのきわめて手強い敵を引き受けて戦うようなことはなかった。むしろ、いつものことだが、一つの戦争の勃発がそれまで続けてきた戦争の終結の原因となり、あるいは一つの戦争の終結が、別の戦争の勃発をもたらす、といった具合だった。

このことは、ローマが次々と行なった戦争の順番をたどっていけば、わけなく理解できる。なぜなら、ローマがガリア人に占領される【前三九〇】以前のことはさておき、ローマがアエクウィ人やウォルスキ人を敵にまわして戦っていた時には、これらの部族の勢いが強かったものだから、これに対抗できるような第三の部族が興ってくることもなかったからである。この二部族が鎮圧されてしまう回、今度はサムニウム人との戦いが始まる。

ところが、この戦役が終わらないうちに、ラティウム人がローマ人に叛いた。この反乱のさなか、当時ローマと同盟を結ぶに至ったサムニウム人の助力を得て、暴威をふるったラティウム人を降しえた。このラティウム人の敗退に引き続き、またもサムニウム人との戦争〔啓二二六~三○四〕が再発する。数次に及ぶ戦争でサムニウム人の勢力が殺がれると、今度はエトルスキ人との戦い〔前三一二~三一一〕である。それもすぐ終わるには終わったが、たまたまエペイロス王ピュロスによるイタリア侵入〔前二八一~二七五〕を機として、またもやサムニウム人が乱に及ぶ。このピュロスも撃破され、ギリシアに送還される〔前二七四〕が、息つくひまなく第一次ポエニ戦役〔前二六四~二四二がカルタゴとの間に勃発する。この戦役のけりがっくかつかないかのうちに、今度は全ガリア人がアルプスの北と南で呼応してローマに対して兵を起こす。

ところがガリア人は、今日サンーヴィンチェンティの塔が建っているポポロニアとピサとの中間で捕捉されて大虐殺をこうむり、鎮圧されてしまった〔前二二五、ポポロニア近郊タラモネの戦い〕。この戦争が済んで二十年間というものは、これといって取り上げるほどの戦争はなかった。

ただ、リダリア人との戦い〔前二二四~二二二〕とか、ロンバルディーアに踏みとどまっていたガリア人との戦争があげられるにすぎない。このような状態が第二次ポエニ戦役〔前二一八~二〇一〕の勃発まで続く。ところが、それから十六年間というものは、第二次ポエニ戦役がイタリアを脅かし続けるのである。この戦役の輝かしい大勝利に引き続いてすぐにマケドニア戦争〔前二〇〇~一九七〕の戦端が開かれ、さらにこの戦争後アンティオコス、及びアジアとの戦争が起こる。この戦争での勝利を境として、独力でも、また束になって団結してみたところで、ローマの力に対抗しうるような君主も共和国も世界じゅうには見当たらないようになった。
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図書館 BIBLIOTHEQU

『100語でわかる西欧中世』より

図書館 BIBLIOTHEQUE

 中世は、部数は一という時代だった。当初は複製か写字生によってしか保証されていなかった。この時代にとって図書館という概念は、現実と架空を問わず、不確かだった。語源から言えば、図書館(bibliotheque)とは、書記媒体(ギリシャ語 theke)の、それにあてられた場所での収集ということだ。語彙をギリシャ語とラテン語から借りてきてコラージュしているのを見れば、図書館とは、集団的記憶の構築を目的として、書かれた知識を制度によって収集するという行為の一形態のことだと考えたくなるだろう。しかし、それか実現するのは、現実の図書館の歴史においては時代が下ってからのことだし、空想文学においてはなおさらである。

 中世において、宗教テクストと古代のテクストの収集を通して古代ローマの伝統を保存したのは、おもに修道院だった。大学とコレージュ、王かそれに続く。実際に一二五四年には、十字軍から帰国したルイ九世か、イスラムのスルタンを見本に、王宮礼拝堂の三階を当時の文人と聖職者に捧げることを決めた。聖書の筆写と、教父のテクストのすべて、および文書の宝庫(王国の古文書庫)が一か所に集められたか、王の死後散逸した。このような収集行為が再び見られるのは、一三六七~六八年にシャルル五世かシテ島の宮殿の蔵書を移してルーブル宮に置いてからのことだった。一〇〇〇巻近くの書物--ソルボンヌとほぼ同じ--が集められた。統治をよく行なうために知の普及が図られたが、科学、技術、天文学、歴史の書物はこの流れに乗った。俗語への翻訳と、[書物の]貸出のお陰で、知に接することが可能になった。シャルル五世の図書館は、完全版のフランス語テクストの集成を作り出したという点で、貴族の図書館の見本になることだろう。

 しかし、中世の図書館(ルネサンスまでは「書庫」と呼ばれた)が、「書物」を保存するだけのための場所としてある限りは、中世人が夢中になったような空想の空間としての姿をとるようにはならないだろう。アルクィンと、彼によるヨーク大聖堂付属学校の図書館の詩的な「目録」を別にすれば、中世の作家たちか文学作品やその作者に対する愛情を表わしたのは、むしろ、十四世紀以降、「文学的〔=文学作品・作家の名前の〕列挙」によってたった(『美男リシャール』、ジルール・ミュイジの〔瞑想録〕、ピエール・ド・オートヴィル〔一三七六~一四四八年〕の『悲嘆に暮れて逝った恋人の死後に遺された財産目録』、修道士アソジエの『聖グレゴリウス伝』(一二一四年)におけるグレゴリウス大教皇の破壊された図書館に似て侈いものでありつつも、中世の書庫は豊かな想像の世界へと道を開き、二十世紀にはボルヘスの有名なバべルの図書館〔J・L・ボルヘス『伝奇集』に収められた短編小説の題名〕に、唯一でありながらつねに更新されるという、それ自体の目的が理想化された形を見出すことになる。

コミューン(自由都市)COMMUNE

 十二世紀において特定の都市の構成員か、封建君主たちの敵意や権力に立ち向かうべく互いの支援と支持とを誓って団結を決意した場合、その都市は同盟(ラテン語のcon-jurare「共に誓う」に由来)またはコミューン(ラテン語ではuniversitas〔「共同体」〕)と呼ばれて、法的実体として認識された。それは時に交渉によって(たいていの場合)、時に暴力によって実現された。法的人格であるコミューンは、一般的に住民の中のエリートである行政官によって代表された。ヨーロッパ北部では参審人、ヨーロッパ南部では執政官である。コミューンは内治のための警察を組織し、係争を収めることによって、自身を統治し防御した。平和や住民の自由や法・軍事・経済における特権を保証する独自の法令を発布した。例として、コミューンの構成員--ブルジョワ、しかしいつもそうというわけではない--は、都市の法廷だけにおいて同輩による裁きしか受けないという権利を獲得していた。このような都市の法令は「フランシーズ文書」に記録された。コミューンは自分の法的存在を印璽によって明確にした。その政治的権威は、都市と、境界を定めた空間に対するバンの行使の舞台となった塔によって象徴されていた。最後に、鍵--門や城壁の--は、その自立を表象していた。

 コミューン運動は、都市およびそこに住むブルジョワを宣誓か伴う法的実体へと押し上げたことによって、都市の現実を「集団的領主による統治」へと変容させた。というのも、コミューンは以後、領主と同じ資格においてバン権力を所有することになったからである。そうして臣従の義務か機能することによって、コミューンは封建ヒエラルキーに組み込まれることになった。そのような次第で、コミューンとその自立か増加したことは、封建体制の柔軟性をよく物語ってくれている。封建体制は、さまざまな特性を持った人びとを寄せ集めて迎え入れる。あらゆる人びとが、封建制度という私的な関係か要求するものに適応しうるのだから。
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大クルディスタン構想の栄光と悲惨

『国家と犯罪』より

クルド難民保護区の現実のまえにムスタファ・バルザーニやイーサン・ヌリが夢想した大クルディスタン構想はもはや窒息死してしまったと言ってもいいだろう。リアル・ポリテクスがそれを掘殺したのだ。いまや、その夢想は遠いむかしのエピソードとしての記憶でしかない。

クルド人のこの今日的な状況はオスマン・トルコ帝国の解体によって産み落とされたものだが、第二次大戦後それはさらに深化していった。冷戦時代、中東の地下資源をめぐってさまざまな思惑が交錯したが、どのような国際関係のなかにおいてもクルド人だけはまっとうなかたちで視野に入れられることなく、利用主義的な価値としてのみ扱われてきたのだ。分断されたクルディスタンと血で血を洗うクルド人のあいだの党派闘争は国際社会のそういう意思の具現化なのである。社会主義陣営ももちろんクルドの民族自決権については一言も触れようとはしなかった。

左翼運動宣伝容疑で何度も逮捕された社会学者イスマイル・ペシクチはこう叫ぶ。「分断され分割され、あらゆる種類の民族的かつ民主的諸権利を剥奪され、併合された、そして天然資源を乱暴に略奪され、抹殺されんとし、化学兵器に向きあって生存闘争をつづけるクルド民族がどのようにして日本・ドイツ・アラブ諸国・トルコなどの労働者階級の闘争に合流できるというのか? 子どもも妻も、男も女も、老いも若きも有毒ガスの標的にされ、集団難民として何とか生き延びようとしている、そして故郷から国家による暴力によって追い立てられ、放り出されたクルド民族がいかにしてソヴィエト連邦・中華人民共和国・アルバニア・ヴェトナムに合流できるというのか? しかし、これらのどの国、どの階級にしろ、多くの勢力に囲まれ孤立のなかで進められているクルド民族の民族解放闘争に合流することはもちろん大いに可能だ」だが、ベシクチのこの結論はいまやただの夢ものがたりと言っていいだろう。先進諸国はとうのむかしに石炭から石油へのエネルギー転換を行なっている。彼のいう労働者階級もそういう経済基盤のうえに存在しているのだ。廉価なエネルギーの安定供給のためには現状維持がもっとも望ましいと考えている。その視野のなかではクルド人は存在すらしていない。旧社会主義諸国でいま蔓延しているのは拝金思想だけだ。ハラブジャの虐殺を想いださなければならない。マスタード糜爛ガスを散布したのはサダム・フセインが購入したソヴィエト製のミグ戦闘機だった。経済のためならどんなことでもする。社会主義時代ですらそうだったのだから、それが崩れた今日、旧社会主義陣営にとって民族自決テーゼが念頭にあるはずもないのだ。労働者階級とかつての社仝主義国家がクルドの民族解放闘争に合流する--もはや、この願望は他愛もない白昼夢に過ぎないと言っていいだろう。

かくて、クルド人はむかしもいまも孤立無援である。彼らは現代史の矛盾を一方に背負わされたまま忘れ去られているのだ。進行する歴史の非情さはこう宣告しているように思えてならない。

クルド人はクルド人であるということ自体で犯罪的である。

イラクにおいては汎アラブ主義がアラブ以外の権利を主張するクルド人の行為を有罪と決めつける。イランではイスラムの教義に照らし合わせてクルドの民族的覚醒は犯罪的だとされるのだ。トルコにおいては近代化の前提とした単一民族論がクルド人なるものは存在せず山岳トルコ人がいるだけだと主張し、クルド人がクルドであると名乗るだけで有罪とされるのである。

中東情勢はこれからもめまぐるしく揺れ動くにちがいない。イスラム原理主義と民族主義。石油をめぐるパワー・ポリテクス。ここは相変わらすの火薬庫なのだ。それに合わせて、近々、クルディスタン全域を巻き込んでの大爆発=現在の国境を越えたクルド人の一斉蜂起は起こりうるのか?残念ながら否と判断せざるをえない。フランツ・ファノンの修辞法を借りて言えば、それはあまりにも早過ぎるか、あまりにも遅過ぎるからだ。この現代史の冷酷さにたいしてはだれもが立ち疎みを覚えるだろう。わたしはアナトリア地方やマハバード周辺で出逢ったクルド人たちの表情を憶いだす。そして、いまのところは呆然としたままクルド民謡の一節を紹介するのみである。

 友だちはだれもいない、

 こころを許せるのは山だけだ……大地と風が囁きかける、

 おまえはいったい何か欲しいのだ、と
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岡崎図書館の9冊 全てを知るために

545.8『デザイン家電は、なぜ「四角くて、モノトーン」なのか?』

492.9『心・血管系の症状・疾患の理解と看護』

366.2『転職面接は9割成功する』採用側の本音を知れば なぜ面接では、こんな質問をさせるのか?

332.0『資本経済の基本法則』経済学教科書シリーズ

331『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか?』ヒトの進化からみた経済学

366.3『OL誕生物語』タイピストたちの憂愁

519『生存の条件』

918.6『生きる術としての哲学』小田実 最後の講義

602.1『2020年の日本 革新者の時代』掘り起こせ「日本の底力」
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