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倫理としての政治

『政治の世界』より 政治学入門

権力としての政治が政治のリアルな契機だとすれば、これは政治のアイディアルな契機です。政治的正義ということはプラトンの昔からつねに政治の究極の価値規準として掲げられて来ました。この問題はすぐ前に述べた政治権力の」ということと関係はありますが同じ問題ではありません。一は、政治権力が事実上ジャスティファイされる理由の問題であり、他は政治権力の奉仕する客観的な価値の問題です。どんなに客観的には正義人道に反した政治権力でもそれが継続的に一定の被治者を服従させている限り、それは被治者の心理のなかになんらかの主観的な根拠づけをもっている筈ですから……。従って倫理価値の客観性を全く否定し、正義人道などというものはすべて政治権力が真の支配目的を隠蔽するための装飾であり、欺膨であるという立場をとる限り、この第二の契機は単なる仮象にすぎず「イデー」ではなくしてもっぱら「イデオロギー」だということになり、第一の権力的契機のなかに解消してしまいます。

政治を赤裸々な権力闘争とのみ見る、いわゆる実力説と呼ばれる立場がそれで、国家論や政治学の上でもソフィスト以来しばしば説かれる主張です。新らしい所では、L・グンプロヴィッツ、G・ラッツェンホーファー、F・オッペンハイマーなど襖太利に興った社会学的国家がほぼ典型的に代表しているでしょう。ところがこうした考え方を論理的に貫いて行くと遂には「勝てば官軍」というシニカルなニヒリズムに到達してしまい、凡そ文化に対して積極的な態度決定をすること自体が無意味なものとなりますから、実はこの立場はそれほど純粋な形で現われることは稀なのです。たとえば初めの方で私があげたマキアヴェリの書物などは一見すると政治からあらゆる倫理的な契機を抜き去ったように見えますが、実は彼の思想のなかにはvirtuというまぎれもない政治的倫理が核心を占めています。またマルクス主義国家論(例えばレーニンの『国家と革命』)にしても凡そ一切の既成の政治権力のまとう道徳的宗教的仮面をはぎ、そのイデオロギー的性格を暴露することにかけては無慈悲なまでリアリスティックですが、実はそのリアリズムがそのまま未来の社会における真の人倫の実現に対する火のような渇望と、それをめざす実践への強烈なエネルギーに転換するところにその歴史哲学の真の特徴があるわけで、いわばそこには政治の倫理的契機が最も逆説的に表現されているのです。こういう様に昔から大きな意味をもった政治思想は正面からであれ、或いは裏口からであれ、結局倫理的なものを自らの立場のなかに導入しているということは、政治が究極において倫理的価値にかかわっていることを示しています。といってもこの場合の倫理というのは決して個人倫理のことではありません。むしろ個人倫理の次元が超克されるところに政治の次元がはじまるので、マキアヴェリが近代政治学の最初の樹立者といわれる所以もそこにあるわけです。政治的行動を特色づける外面性や集団性はそもそも個人倫理の立場とは相容れないものです。カントが道徳的善を次のように基礎づけていますが、ちょうどこれを裏返しにしたのが政治的行動の原理だとさえいえるでしょう。

「善なる意思はそれが与えた影響とか育した結果によってではなく、なんらか措定された目的に到達する能力のあるなしによってではなく、ただ意思することによって、つまりそれ自体として善なのである。……最大の努力にも拘らずその意思によって何事も遂行されず、単に善なる意思のみが残ったとしても(むろん単なる希望という意味ではなく、われわれの力で可能なかぎりの一切の手段を尽すという意味でいうのだが)、それは恰も宝石のようにそれ自身だけで輝きを放っており、己れの全価値を自らの内部に持っているのである。役に立つとか効果がなかったとかいうことはこの価値に何物をも加えず何物をも減じない」 政治的行為はこれとまさに逆に、善なる意思だけでは無意味で外部的に影響を与え客観的に有効な行為だけが勘定に入ります。「成功は政治の絶対目的である」(ラッツエンホーファー)。従って政治的責任はもっぱら結果に対する責任であり動機の善はなんら政治的責任を解除しないのです。いな善なる意思すらも政治目的のための手段として利用されます。「国のために死ぬ」というのは個人倫理の立場であり、政治は戦争においてそれを「国のために殺す」行為に転換させるのです。こうした「政治」の苛烈な法則、政治的次元の独立性が一切容認された上で、なおわれわれはヨリ高次の意味で政治における倫理的契機について語らねばなりません。いかなる万能の政治権力もその前に頭を垂れなければならない客観的な倫理価値があり、それを全く無視して存続することは不可能です。古から今日まで現実の政治史というのは、抽象的なアイディアリストが考えるほど正義や人倫の実現をめざして発展して来たものではむろんありませんが、さりとて単に「勝者の正義」という命題の実証されて行った過程ともいえません。

そこにはヘーゲルのいう「歴史における理性」が抗い難く貫徹されております。客観的正義に対する畏敬を持たず自己の上になんらの道徳律を認めない傲慢な政治権力は一時いかに隆盛を誇ろうとも必ず歴史の審判の前に潰え去ることは最近の世界におけるファシスト独裁国家の運命がなによりよく物語っています。「少数の人を永久に隔すことは出来る、多数の人を一時腸すことも出来る、しかし多数の人間を永久に腸すことは出来ない」というリンカーンの言葉、或いはまた、「目的は手段を神聖にするというのは正しくない。手段は真の進歩のためにはむしろ目的よりも重要だといえる。というのは目的というのは……人間相互の外部的な関係を変えるにとどまるが、手段の方は正義のリズムによるか暴力のリズムによるか、そのどちらかによって人間精神を形づくるからである。もし後者すなわち暴力によるとせば、たとえどんな形態の政治であろうとも強者の弱者への抑圧をとどめえない。これこそ私が革命の時の方が平時よりも却って道徳的諸価値の擁護を必須と見倣す所以である」というロマンーロランの言葉はそれぞれ最も簡潔に最も美しく、政治における倫理的契機を表現したものといえましょう。現実の政治は一方の足を権力に、他方の足を倫理に下しつつ、その両極の不断の緊張の上に、進展して行くのです。
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認知行動療法

『うつ病治療の基礎知識』より 心理・社会的治療法

認知行動療法は、ドイツのベックという人が始めた認知療法に、行動療法の技法を取り入れたものです。

うつ病になりやすい人には、特徴的な認知パターンが見られます。代表的なものは「過剰な一般化」と「全てか無か思考」などです。

「過剰な一般化」というのは、わずかな経験から、広い意味をもつ間違った結論に至ってしまうことです。たとえば、「昇進試験で一問間違えたので、自分は馬鹿な人間だ」と思い込んでしまうような考え方です。

また、「全てか無か思考」とは、本当は複雑なことについて、両極端に分けてしまうことです。たとえば、会議で発表した時に、「自分は発表で一カ所言い間違いをしたから完全な失敗だった」という風に、失敗か成功か、という両極端な判断をしてしまうような考え方です。

その他、心の先読み(「どうせあの人は自分の立場なんて考えてくれないだろう」などと、他人の考えを否定的に推論すること)、~すべきだ思考(「社会人なのだから人に頼ったりせず自分で解決すべきだ」などと、自分自身に対して、かたくなにこうすべきだ、と考えてしまうこと)、ラベリング(「あの人は以前プレゼントをあげたことを忘れてしまったようだ。もう友達じゃない」などと、ちょっとした好ましくない特徴によって、すべてだめだと決めつけてしまうこと)などがあります。

こうした、うつ病になりやすい考え方のパターンを自覚して、別の考え方ができるように練習し、このような認知スタイルを変えていくのが認知療法です。この認知療法は、うつ病の予防と改善に役立つと考えられています。中等症以上のうつ病に認知療法を行うことは難しいと思いますが、軽症のうつ病には効果があります。

実際のセッションでは、最初のうちは、その人のうつ病とその背景にある問題を心理的観点から評価し、認知行動療法の基本的な考えを学ぶことから始めます。

そして、生活の中でおきたことを題材として、その中でおきてきた「否定的自動思考」(自然と浮かんできてしまったマイナスな考え)を取り上げ、それに対しておこった気分について振り返ります。そして、こうした自動思考の代わりになるような、現実適応的な考えを、コラム法などを用いて練習していきます。たとえば、「自分は発表で一カ所言い間違いをしたから完全な失敗だった」と思い込んでいる場合であれば、それが「全てか無か思考」に該当する、ということを認識できるようにし、より適応的な考えを導いていきます。たとえば、「もしあなたの部下が発表で一カ所言い間違いをしたらどう思いますか?」などと視点を変えてみたりします。そして一カ所言い間違えたけれど、全体としての言いたいことは伝わったので、だいたい成功といってよさそうだ」というような適応的な考えを導いていくわけです。

行動療法的な技法としては、活動記録表をつけて行動の活性化を促したり、リラクセーションを行って不安・緊張を緩和したり、社会生活技能訓練を行ったりします。セッション毎に、その日の小さな目標を設定し、たとえば、「上司にうまく自分の考えが伝えられない」ことが最近の悩みであれば、「自分の考えを上司にうまく伝える」ことを目標として練習するといったことを行います。

こうしたことを繰り返す中で、自動思考の背景にある、その人のさまざまな人生経験から作られている考え方の癖のようなもの(スキーマ)を探り出し、その修正を目指していきます。たとえば、「人から頼まれたら決して断ってはいけない」というスキーマにとらわれて、すべてを引き受けた結果破綻してしまう、という傾向がある人であれば、これを修正することが、再発防止の役に立つのです。

認知行動療法は、薬物療法と並行して行うとより有効性が期待できます。うつ病に対する認知行動療法の有効性は、多くの科学的にしっかりした研究によって証明されており、特に軽症うつ病の治療において、大きな力になります。

詳細は次の解説書を読んでいただければと思います。

大野裕『はじめての認知療法』講談社現代新書、二〇一一年

最近では、認知行動療法を受けられるクリニックも増えてきました。一対一のセッションだと、一回一時間弱で八○○○円から一万円の費用がかかる場合が多いのですが、集団認知行動療法を行っている場合もあります。また後述のリワークプログラムの一環として、精神科デイケアという保険診療の枠組みの中に認知行動療法が組み入れられていることもあります。
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沈黙の螺旋理論、孤独な群衆

『コミュニケーション学がわかるブックガイド』より

沈黙の螺旋理論

 同調を求める社会的圧力によって形成される世論と個人 世論は流動的なものであるが、短い期間の活動によってその結果が出される選挙キャンペーン期間中では、マスメディアやそれによって作り出される世論の影響力は計り知れないものがある。ドイツの政治学者ノエル=ノイマンの研究の出発点は、1965年の連邦議会選挙であった。この選挙では、前評判では2つの政党が措抗しているといわれていたにもかかわらず、選挙の投票日が迫ってくると「とたん場のなだれ現象」によって、キリスト教民主同盟の支持率が一方的に上昇するに至った。その原因を、社会心理学的な視点から探り、導き出されたのがこの「沈黙の螺旋(らせん)理論」である。

 ノエル=ノイマンにとっての世論は、ある争点に対して個人が公然と表明できる意見のことを意味しているが、ここでまず着目したのは、どの社会にも存在する同調圧力である。集団のなかで自分が少数派となったとき、誰もが孤立させられることに恐怖感を抱きがちである。それは、人は常に自らが所属する社会や集団全体の人びとの心の動向を感知しながら、そのなかにある自分の立ち位置を探りながら意見表明を行うからである。

 このような「意見風土(climate of opinion)」ともいうべきそのときの世論において、自らの意見とは異なる意見が優勢となり、自分が少数派であると思い始めると、次第にそのような人たちぱ公の場での意見の表明を避けるようになる。その結果としてさらに、多数派の意見がより顕著となり、少数派の意見表明は螺旋を描くように消え去っていく。このさまをノエル=ノイマンは「沈黙の螺旋(spiral of silence)」とした。

 マスメディアもこのような意見風土形成の協力者となる。複数のメディアが類似した内容をあまねく繰り返し伝えることで、受け手の人びとはそれが優勢であると認知するようになる。マスメディアはある1つの見解を選び、それを社会に共有された意見として提示することで世論を作り出しているに過ぎないのにもかかわらず、ある意見や見解がマスメディアに登場することで、それは多数派意見とみなされるようになるのである。その継続的な提示によって、自分以外の他者のほとんどが優勢な意見を支持していると少数派は考え、公への自らの意思表示を躊躇し沈黙するようになる。社会を覆い尽くすこのような空気が世論の動向と見なされることで、優勢な意見が席巻し、あたかも少数意見がまるでらせんを描くように消滅してしまったかのように見えるのである。

 このような状況においても、現実の世界を見て自分で判断した世論像が社会の多数派のものと不一致であるとして、公然と多数派意見に反対表明を行うものもいる。またここで沈黙し続ける者たちの意見や見解は消滅するわけではなく、時代の流れや世の中の風潮の変化とともに再浮上し、それが優勢な意見として席巻することもある。

孤独な群衆

 個人にそれぞれ特徴的な性格があるように、社会にも、そこにいる人たちに共通に分け持たれた性格がある。それを「社会的性格」というが、リースマンは近代社会を中心にして、それ以前の中世の社会、そして近代化が進んだ現代の社会を時代的に大きく分けて、それぞれに特徴的な「社会的性格」を考えた。この本はその「社会的性格」を、「伝統指向型」(中世の社会)、「内部指向型」(近代社会)、そして「他人指向型」(現代社会)と名づけて、それぞれの特徴について分析したものである。

 中世までの社会は大きな変化のない、伝統的な決まりや習慣が受け継がれることを特徴にした。わからないことがあれば、問題が生じれば、これまでどのように考えられ、対処されてきたかを参考にする。その知恵や知識を持っているのは、長く生きてきた老人たちだった。

 ヨーロッパで宗教改革や産業革命を契機として起こった大きな社会変容を「近代化」という。ここにはもちろん、コロンブスに端を発する大航海時代とヨーロッパ列強による新世界の植民地化競争があった。そんな大きな社会変化のなかで生まれたのは、伝統ではなく、新しい知識や技術をもとにした理想や野望だった。 リースマンはそのような特徴を「内部指向型」と呼び、未知の世界に向けて船を漕ぎ出すために必要なのは方向を適格に見定めることができる「羅針盤」で、それを取得した個人こそが、近代社会の先導役を担うことができたと分析をしている。

 しかし、近代化が進んだ現代社会においては社会の変化はきわめて激しく、また多様である。そのような社会でぱ、遠大な理想や固い信念に基づいて行動したのでは、方向を間違えたり、見失ったりしかねない。したがって、道筋をう圭く見つけるためには、周囲の人たちの考えや行動、世の中の動向を把握するための情報に注意を向ける必要がある。リースマンは、そのような要請に基づいて社会に広まった性格を「他人指向型」と呼んだ。

 リースマンが指摘したように、現代社会が「他人指向型」という「社会的性格」を有しているのは確実である。ノペソコンやスマートフォンを使ってインターネットに常時つながっている私たちの生活は、まさにうまく生きるための指針が他人の動きにこそあると考えているからである。ただし、リースマンがこの性格を指摘したのは、いまから半世紀も前のことで、米国でやっとテレビが普及した時代だった。その意味で、この本は近代化以後の社会の特徴を見事に予言した傑作だといえる。

 ところで、他者とのコミュニケーションの需要性を自覚し、実践する現代人がなぜ、「孤独な群衆」になるのだろうか。これはぜひ、この本を読んで、自分で確かめてほしい。
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