goo

スノーボールアース事件

『「地球システム」を科学する』より 地球システムの歴史--過去の劇的な気候変動

これは、丸い地球が巨大なスノーボール、つまり雪玉みたいになってしまったという事件です。日本語では全球凍結ともいわれます。そう、スノーボール状態では文字どおり、地球の表面のほぼすべてが凍りついてしまい、陸も海も雪や氷で覆われた巨大な雪玉状態になっていたのです。こんなことは起こりえるのでしょうか。もし起こったとしたら、そのメカニズムはどのようなものだったのでしょうか。そしてなぜ、現代の地球は凍っていないのでしょうか。少し考えてみることにしましょう。

実は、地球は太陽からの距離と地表面に存在する水の量から考えて、スノーボールになる可能性を十分に秘めているのです。そう、可能性を秘めている。可能性なので、いつもそうなるという意味ではありませんが、そうなったとしてもおかしくはないということなのです。この、「どっちに転んでもおかしくはない」という考え方は、地球システムを考えるうえで非常に重要なコンセプトなので、身近なたとえを使ってしっかり考えてみましょう。

システムが「安定」する場所は、ひとつとは限りません。図は坂道の断面図です。ここで、坂道の上部、峠の部分にボールを置くことを考えてみましょう。この部分にそーっとボールを置けば、なんとかここにボールを止めておくことはできますが、非常に不安定です。少し風が吹くだけで、ボールは坂道を転げ落ちることでしょう。そしてその風が、たまたまどちらから吹くかによって、ボールが落ちる向きは変わりますよね。つまり、もとは同じところにあったボールですが、偶然吹いてくる風によって、まったく違う場所であるA地点に落ちるか、B地点に落ちるかが変わってくるということです。 谷底であるA地点またはB地点に落ちたボールはどうなるでしょうか。さっき吹いてきたのと同じ強さの風が吹いてきたらどうなるでしょうか? 風が生じるとボールは谷のなかで微妙に動くでしょうが、それでも結局、風がやめばもとの位置である谷底に戻ってくるはずですよね。

では、すごく強い風が吹いてきたら? たとえば、B地点にあるボールに対して右側からすごく強い風が吹けば、どうなるでしょうか。少々の風ならボールはB地点に戻るはずですが、あまりに風が強ければボールは峠を越えてしまい、今度はA地点で落ち着くことになりますね。

さてこのように、地形は同じでも、風が偶然どちらから吹いてくるかによって、ボールはぜんぜん違う谷底で安定する可能性があることがわかりました。読者のみなさんに覚えてほしいのは、ボールが安定する可能性がある場所は一ケ所ではない、ということです。

このたとえ話は、地球システムにも当てはまります。地球という星の位置や大きさ、そして地球上の陸や海や大気は同じでも、偶然の作用によって、地球は液体の海を持つ星になることもあれば、凍った海を持つスノーボールになることもあるのです。さらに、とても強い風が吹いてくればボールが別の谷底に移ることもありえるのと同じように、地球システムでも、液体の海を持つ地球がスノーボールになったり、その逆のことが起こったりすることもありえるのです。

斜面とボールの図を地球システムに合わせて描くと、図のようになります。地球システムは、私たちのくらす現代では液体の海を持っていますが、ボールを遠くへ吹き飛ばすような「強風」が吹けば地球の海全体が凍りついてしまうこともありえますし、いちどそうなってしまえば、そのスノーボール状態で安定するのです。この場合は、地球の表面温度は氷点下となりますね。

地球がスノーボールになりえるほどの「強風」が起こる原因は、「水」のアルベドが引き起こすフィードバックです。ここでいう「水」とは、液体の場合もありますし、雪や氷といった固体の場合もあります。液体の水(つまりは海)のアルペドは低いため、表面に届いた太陽のエネルギーを多く吸収し、地球の温度を上げることに貢献しています。一方、水が固体の雪や氷になると、アルベドが高くなり、表面で受ける太陽のエネルギーの多くを宇宙空間にはね返してしまいます。よってこの状態では地球の表面温度は低くなり、いちど凍った地球は、ずっと凍ったままで安定してしまうのです。

つまり、太陽のエネルギーの強さや、太陽から地球までの距離が同じでも、図のボールのように、タイミングによって地球はどちらにでも転ぶポテンシャルを持っているのです。そして、もし「強風」が吹くことがあれば、状態ががらりと入れ替わります。不思議な話ですが、それが地球の現実なのです(この「強風」がどのように吹いたのか、のちほど考えます)。

このように、地球の位置する条件から考えると、地球は、いまのように大半の水が液体として存在していてもおかしくないし、スノーボール時代のように大半の水が凍っていてもおかしくないのですが、そのどちらで落ち着くかは、「最初の状態」に依存するといえます。

たとえば、生命の生まれる前の太古の地球は二酸化炭素などの温室効果気体の濃度が高かったので暖かく、海は液体として存在していました。その後、生命の光合成などによって大気中の二酸化炭素濃度は徐々に下がっていったのですが、もともと海は液体だったので、ちょっとやそっとの変化が起こっても、海はそのまま液体として存在し続けていたのです。しかし、「強風」が吹くことがあれば、地球はスノーボールになってしまうこともあり、そしていちどスノーボールになってしまえば、ちょっとやそっとの変化が起こっても、なかなか地球の雪や氷は溶けないのです。

実際、地球は解けた状態からスノーボールになり、またスノーボールから解けた状態に戻ったことがあります。つまり、これまでに何度か「強風」が吹いたことになりますね。では、なぜそういうことが起こるのか、地球システム科学を使って考えてみましょう。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

社会化、逸脱

『教育格差と社会学』より 社会化と逸脱

社会化の概念

 まずは「社会化」の概念からみていくことにしよう。

 『新教育社会学辞典』では「個人がその所属する社会や集団のメンバーになっていく過程、例えば子どもが大人になり、社会的存在になっていく過程を指す」とある。『新社会学辞典』では、「個人が他者との相互作用のなかで、彼が生活する社会、あるいは将来生活しようとする社会に、適切に参加することが可能になるような価値や知識や技術や行動などを習得する過程」である。

 『犯罪・非行事典』では、「社会化とは、生まれたばかりの生物学的存在である人間を社会的存在に至らしめる、あらゆる過程と作用のことである。言い換えれば、社会化とは、個人が所属するさまざまな集団での人間関係を通して、個人の成長の過程で、社会の成人として生きていくための知識、技術、価値、規範、役割などを内面化していく過程であり、またその作用である」となっている。

社会化を考える

 次に「社会化」とはどのようなことなのか、

 社会化は、人間だけでなく哺乳類や鳥類にもあり、適切に社会化されなかった哺乳類や鳥類は野生の生活ができなくなる。逆に、動物によって育てられた人間は、動物によって社会化されてしまうので、動物化してしまい、人間になれない。生物学的にはヒトではあるが社会的な存在の人とはいえなくなる。オオカミ少女のカマラとアマラがその例である。彼女たちは、生肉を好み、食べる前に必ず匂いを嗅ぎ、二足歩行ができず、四足で歩き・走り、脚は完全に伸ばすことも完全に曲げることもできず、人では見えないような暗闇の中でも物を見ることができ、遠いところの肉の匂いを嗅ぎつけたという。

 社会化は時代を超えて、あらゆる社会に存在する。「社会」があれば「社会化」がある、ということだ。社会化は時代と社会によって異なる。時代が変われば(もしくは社会が変われば)、社会化の内容だけでなく、社会化の様式も担い手(エージェント)も変わる。ということは、時代変動の激しい社会では、社会化の変容も激しい、ということである。

 また、社会化は幼少期・青年期のみならず生涯にわたるものである。生まれてから死ぬまで社会化し続けるのが人間である。しかも、上記のように時代変動の激しい社会では社会化の変容も激しいので、幼少期・青年期に社会化によって得た意識・能力がその後の時代では通用しなくなることが多分に起こる。

 社会化は社会にとっては、社会成員の再生産であり、文化の継続・伝承という機能・意味をもつ。また、個人にとっては文化の内面化であり、役割取得過程であり、人格の形成であり、成長発達課題の達成過程であり、アイデンティティの確立過程である。したがって、社会化機能が不全に陥るということは、社会にとっては、社会成員再生産機能不全・文化継承不全に陥るということであり、社会崩壊への路をたどることである。また、個人にとっては、役割取得不全・人格形成不全・成長発達課題未達成・アイデンティティ混乱ということであり、人格崩壊への路をたどるということである。

 人は、理性のみならず感情までも社会化される。好き・嫌い、快・不快までもが社会化の産物である。毎日風呂に入り・毎日下着を取り替えないといられない、というのは、個人的な心の問題であると同時に時代・社会によって社会化された結果でもある。

 当該社会にあっても、階層・性・年齢・宗教・地域・集団などによって、社会化は異なる。ここから、同一の時代社会にあっても、多様な社会化が出現するといえる。低階層家族の社会化は富裕層の家族の社会化と同じではない。こうして社会化は家族のもつ社会資本・文化資本とつながる。

 「教育」と「しつけ」は社会化の一形態であり、意図的な社会化、方法的社会化である。社会化には「意図しない社会化」が含まれる。「子どもは放っておいても育つ」「子どもは親の背中をみて育つ」「地域の中で子どもは育つ」「きょうだいやが牛大将集団の中で子どもは育つ」などといわれているが、これらは教育ではなく社会化である。「自然のもつ教育力」、これも教育ではなく社会化である。テレビ・ネットの影響力も多分に教育ではなく社会化である。

逸脱の概念

 「社会化」同様に「逸脱」も辞書を引いてみる。

 『新教育社会学辞典』では、「それぞれの社会や集団で分有されている社会規範に反する現象のことをいう。それが社会規範に反する行動ならば逸脱行動、人ならば逸脱者、集団ならば逸脱集団、文化ならば逸脱文化である。(略)なんらかの社会規範の存在が逸脱に先行し、逸脱はその性格によって左右される」とある。

 『犯罪・非行事典』では、「逸脱行動は、広域社会や社会諸集団で文化的に承認されている標準からはずれている行動を意味する。逸脱行動の識別基準は平均的類型に照らして例外的なものであり、かつ広域社会や社会諸集団で正当であり合理的であるとして成員の大多数に承認されている期待に反するものであるかどうか、というところにおかれている。このように逸脱行動は極めて相対的な概念であり、社会、集団、時代などが異なれば当然に異なって定められる」とある。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

またやってきた電子書籍元年

『図書館の基本を求めて』より

「電子出版物、「本」をしのぐか」「いまPDA電子書籍が熱い」「出版最前線、電子書籍元年 市場を制するのは」

いずれも新聞や雑誌の記事の見出しである。ただし、最近の記事ではない。私の古い切り抜きやコピーのファイルから出てきたもので、「日本経済新聞」1990.11.6、「出版ニュース」2002.6下旬号、「毎日新聞」2004.2.18の順である。

最初の二〇年前の日経の記事はCD-ROMのことだが、多分この頃、岡山県立図書館を会場にした図書館員研修会で、日外アソシエーツの社長のCD-ROMについての講演があった。CD-ROM元年という言葉も使われていた頃で、私の記憶では、社長は参加者の質問に答えて、一〇年後には、図書館でいま購入している類の辞典・事典の六〇%はCD-ROMに置き換わるだろうと豪語した。もちろんそんなことは実現しなかったし、図書館から紙の辞書が消えることもなかった。二〇年が過ぎた今、個人が携帯する電子辞書は相当普及しているが、それでも紙の辞書はそれ以上に販売されている。

その研修会の少し後、岡山市立幸町図書館が一九九二年に開館している。私はその建設や運営計画の実務を担当した。市民運動に後押しされて建設された新図書館は、開館時やその後の利用度を振り返ると、おおむね成功だったと思うが、その中で、岡山県内ではじめて本格的に導入したCD-ROMだけは明らかに失敗であった。企業総覧や判例情報など、現在のビジネス支援資料に繋がるような資料を主として、何種類かの高価なソフトを導入したのだが、それなりのPRもしたのに、利用は完全に期待はずれたった。その苦い記憶はいまも私に後遺症を残している。

二〇一〇年は「電子書籍元年」という言葉が何度も出版業界やマスコミを賑わした。以前にも同じ言葉が使われていたが、今度こそほんとうの元年だと言う人もいる。

二〇一〇年の日本図書館研究会のセミナーのテーマは電子資料・電子書籍で、発表者全員が書籍電子化の積極的な推進者ばかりであった。最後は相当熱っぽい雰囲気になり、閉会の辞で主催者は、「船に乗り遅れないようにしよう」と呼びかけていた。参加者の多くは大学関係者であり、公共図書館の職員は少なかった。私には、図書館の現場やふつうの図書館利用者の感覚と会場の雰囲気に、距離がありすぎるように思えた。

広島の大学の授業で、学生に電子書籍の利用について尋ねてみた。若い人たちは積極的に受け入れようとしているのではないかと予想していたのだが、意外なまでに否定的である。iPADなどの端末を買って電子書籍を読んだという学生はI人もいなかった。携帯電話でケータイ小説を読んだ学生はかなりいる。しかし、好奇心で読んでみたものの、続けて読もうとは思わない、今はまったく読んでいないという学生が多い。本は紙の本で読みたい、端末画面で読みたいとは思わないと言う。電子辞書はみんな持ち歩いているが、家では紙の辞書を使っているという学生が多かったのも意外だった。ただ、関西の大学の先生の言では、電子書籍に積極的な学生が多いと聞いているので、都会と地方、あるいは大学の違いもあるかもしれない。

私は電子書籍について一般的な問題を語れるだけの知識はほとんどないが、このような現象自体には興味があるので、さし当たってここでは、個人的な立場から考えてみたい。

私個人としては、電子書籍端末など持ち歩くことはないだろうし、パソコンで電子化された本を読む場合も、絶版で書店でも図書館でも手に入らない本か、特定のページを参照する場合にほぼ限られる。普通に紙で読むことが可能な本や雑誌を、わざわざ電子書籍で読もうとは思わない。

ただ、ジャパンナレッジだけは、何年か前から、個人として契約して、家で使っている。全国あちこちの図書館で有料のデータベースが導入されるようになった頃に、新しい分野を体験し、知るための授業料として、それに、何種類かの辞典・事典が使えるだけでも役立つと考えて購読した。

ところが、お金を支払っているのだから、使わなければ損だという気持ちは十分あるのに、案外サイトを開くことがない。机の上にはいつも四種類の小型中型の辞書があって、日常的なことはほとんどこれで済む。『週刊エコノミスト』も、その気になればこのサイトで毎週でも読めるのだが、実際には、先に駅の本屋などで立ち読みする方が多い。たまに興味のある記事があれば、データを保存することもあるが、その程度なら、必要な号だけ買ってもたいした値段ではない。ジャパンナレッジには東洋文庫も入っているが、読んでみると、当然だが紙の本の方がはるかに早く読めるし、目も疲れない。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )