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マーケティングに対応したシステム

マーケティングに対応したシステム

 Jの枠は完全に取り払えばいい。メーカーからすべてのモノ、お客様との関係などのバラバラなモノを販売店のスタッフの皆と考えていく。そのベースはマーケティングを変えることです。

 単に、売るということを完全に使うということに変えることです。そのための体制づくり、経験を積んでいる。経験よりも重要なのは、考えれるかどうかです。それを10年間やってきたのですから、ベースは完全にできています。

 そういう意味では、関連部署との連携を考えることはできます。年内にその辺のインプットはしておきます。全ては、この会社が新しい社会で生き残るためです。ポイントは偶然をいかに使い切るか。そして、聞くことです。全体を見ることです。

スタバのIさん

 今朝はIさん待ちできずに、エチオピアのグランデをボトルに入れて、抜け出した。その時に、お昼に待っていますという声が掛かった。

 昼休みは食堂に直行して、12時過ぎにスタバへ。15分以降は混み始めるので、それ以前に到着。スタッフに眼で合図して、三人抜かされで、会話。トリビュートは合わないと言った所、同意見だった。
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きっとそこは楽しいところ

『ピープルウエア』より

人間が祖先から受けついだ記憶のどこかに、仕事とは煩わしいもの、という考えが潜んでいる。例えば、何かをやっていてそれが楽しいなら、それは本当は仕事ではない。思う存分楽しむようなら、罰あたりである。楽しみ過ぎてもよくないし、全然楽しまないのもよくない。楽しむことで金をもらってはいけない。本当にしなければいけないのは、何かほかに仕事、仕事らしい仕事を見つけることだ。そうすれば、他のあらゆる人々と同様に、退屈し、うんざりし、みじめになることができる。

あなたがマネージャーなら、この薄ぼけた記憶のために、部下たちに絶対に仕事で楽しい思いをさせないようにせざるを得なくなる。オフィスの中に喜びや楽しみの跡がみられることは、そこのマネージャーが仕事を真面目にやっていない証拠とみられる。スタッフを最大の効率でキリキリ仕事をさせていない、そうでなければそんな楽しい時間は持てるはずがないと思われる。もちろん、あからさまに仕事は楽しくあるべきではないと言った人はいないが、そうした考えは、文化的な潜在意識の中にしっかりと焼き付けられている。今やっている仕事が、面白くて思わずクスクス笑ってしまうことがあるが、何やら後めたいような気がしてオドオドしてしまう。この意識は、楽しんで仕事をする人たちから、いわゆるプロフェッショナルな人たちを区別する服装規定やポップコーン禁止令、よくみられる苦虫をかみつぶしたような態度、こういったものを受け入れざるをえないような状況を作っている。

これとは正反対に、仕事は楽しくあるべきだという考え方を見ていこう。

混乱と秩序

 人間には「混乱」を目のかたきにする本性があるらしい。ひとたび「混乱」に出会うと、腕まくりをして一気に「秩序」に変えてしまう。人が作った「秩序」はいたるところにある。家庭にも庭にも、髪をとかすときにも、街路を碁盤の目のように作るときにも……。だが、「混乱」がなくなったら、もっと楽しく生きていけるのだろうか? そんなことにでもなれば、退屈で、涙が出るほどだろう。現代社会に残された「混乱」は、貴重である。大事に取っておいて、欲張りな少数派に食いつくされないようにしなければならない。

 マネージャーは、この欲張りな少数派になりやすい。「混乱」はマネージャーにとっては自分たち固有の領域である。そして、根こそぎ取り除くことが仕事であるかのように振る舞う。しかし、第27章の「粋を脱ぐ」夕イプのマネージャーは、ちょっと違った方法をとる。つまり、進んで「混乱」を小さな包みにして、部下へ渡してしまう。このタイプのマネージャーの仕事は「混乱」を小さくして配分することである。「混乱状態にあるものをキチンとする」快感を本当に味わえるのは、その包みを受け取る部下たちだ。

進歩こそ最も重大な問題

 「混乱」は次第に少なくなっている。特に新しい技術分野ではこの傾向が著しい。何年も前、技術の新しさや秩序が欠けている部分に魅力を感じた人々は、すべてがそれほど機械的でなかった時代を懐かしんでいる。過去30年の大きな進歩によって、人々の仕事の馬鹿馬鹿しい部分は大きく減った。もちろん、この進歩は素晴らしいし、誰も、決して、昔へ戻りたいとも思わない。とはいうものの……

 この業界の人々は、仕事のやり方を改善して、ソフトウェア開発のビジネスをもっ「と秩序ある事業にしようと一生懸命になっている。それが進歩というものだ。確かに、ある人にとってものすごく面白いことが進歩の過程で失われるが、ある人にとって面白いことは、別の人にとっては苦痛なことかもしれない(部下がこんなに愉決なプロジェクトはない、と思っていても、上司はそのために胃潰瘍になるかもしれない)。いずれにしても、より整然とした、制御可能な方法をめざす進歩は、どんなことがあっても止めようのない流れである。思慮深いマネージャーは、その流れを止めようとはせずに、今まで仕事へのエネルギーの源泉であった「失われた混乱」のうちのいくらかを、元の混乱状態に戻す必要を感じている。これは結局、小さな混乱の建設的な再導入という考えに行きつく。
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社会保障の連帯精神

『日本の国民年金制度』より 社会保障制度の再構築と課題 持続可能な社会保障制度

日本の社会保障は、第2次世界大戦後の1947年に施行された現在の日本国憲法第25条の「生存権」規定によって誕生したと言われている。すなわち、この規定を受けて、1949年に内閣総理大臣の諮問機関として設置された社会保障制度審議会が、翌1950年に「社会保障制度に関する勧告」23)(いわゆる「50年勧告」)を出し、その中で社会保障制度の仕組みと理念を述べ「社会保障の責任は国家にある」と宣言、「国家は総合的企画を立て、政府及び公共団体を通じて民主的能率的に実施しなければならない」と誓い、国民に対しては「社会連帯の精神に立って、能力に応じて制度の維持と運用に必要な社会的義務を果たさなければならない」と呼びかけたものである。

ここで求められている「連帯」という考え方は、古今東西を問わず「1人では生きていけない」と互いに手をさしのべ、助け合ってきた人間社会での義務であり尊厳であった。日本でも戦後、法律の条文に連帯の文言がみられるようになり、「国民の共同連帯」(国民年金法や介護保険法など)や「社会連帯」(障害者基本法、知的障害者福祉法など)でも使われている。最近では、2011年7月に閣議報告された「一体改革成案」の中で「個人の尊厳の保持、自立・自助を国民相互の共助・連帯の仕組みを通じて支援していく…」と表現されている。

連帯思想の広がりは、自由な議論と合意を通じて、義務としての連帯を果たし、社会保障の進展や促進に力強く影響されていくであろう。とくに「一体改革」推進では、社会全体で連帯し合い、自助、共助、公助の実現で、互いの自立を支え合って生きていくことが理念であり、目的であり、大切なことである。

社会連帯は、日常生活の中では幅広く多彩な社会的つながりである。家庭では、親子、夫婦、兄弟、姉妹といった身近な家族や親族の支え合いの中で暮らし、加齢していく。地域では、近所や周辺コミュニティ、学校地域などで信頼を寄せ合い、語り合って四季を迎える。そして職場では企業人、公務員、自営業者、農漁村民などとして生き生きとした人生を生きているのである。そしてこれらの人たちの生活の保障の代替や補完する機能を持ち、果たすのが社会保障制度であるといえよう。

とくに明治以降の日本では、終身雇用を前提とした長期の正規雇用や公共事業などによる地域の雇用創出などで男性優位の雇用関係が続き、勤労所得の性差、格差が目立ってきた。先進諸国に比べると、社会保障制度が広がってもその支出は小さく、また抑制されてきた。しかし近年は、高齢化時代に入って、年金給付や医療・介護費の増加となり、社会保障費の支出は上昇カーブを描いている。

日本の社会保障制度が形を整え、充実してきたのは、1961年の「国民皆保険・皆年金」制度発足からであろう。全ての国民が公的年金や公的医療保険を受けられることによって人々の社会保障制度に対する関心は高まり、理解も深まっていったのである。さらに、これらを機に、他の社会福祉や雇用保険、介護保険などの制度が組み合わさって構築され、日本の社会保障制度は大きく歩み出したと歴史的な評価を受けている。

それとともに1960年代の高度経済成長期に日本型雇用システムが定着した。終身雇用や年功賃金とともに企業内の福利厚生の充実や魅力ある職場づくりによって企業への帰属意識を高めさせ、諸外国に比べて低い失業率を保って従業員と家族の生活向上に寄与し、生活保障の中心的役割を果たしてきた。

しかしその後、1990年代以降の国、内外の社会、経済情勢の変化、とくに経済のグローバル化、産業構造の変化、非正規労働者の増加、女性のさらなる社会進出、高齢人口の増加などが重なり、現在は社会保障費の支出が拡大しつつある。そのために社会保障制度のさらなる改革、つまり持続的発展への道を早く、正しく、確実に進むことが叫ばれているのである。「一体改革」はその選択の1つである。
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パートナーの存在の力

ホットライン起動

 昨日の23時16分にメールがありました。それまで、色々、思い悩んだんでしょうね。それを考えると泣けてきます。何しろ、合わない、行き先が見えない、頼るものがない。

 どう、メールで応えればいいのか分からなかったので、とりあえず電話して、聞きました。多分、言えば、自分でまとまるはずです。今まではそれで聞いてきました。そういう意味では、ホットラインが起動しました。

 頑張る人に頑張れというのではなく、一緒に考えるモードに入ります。

 何しろ、主体的に生きてもらいたい。色々な生き方があるけど、パートナーらしい生き方をしてもらいたい。できるようにしたい。あと一年です。

パートナーの存在の力

 今のこの会社を救えるのは、パートナーしかいないと思っています。それだけの素質があります。何しろ、全体を考えられます。その中に、当然、販売店もあります。そんな人間は名古屋にはいない。

 今回のことで、パートナーが鍛えられて、私が鍛えられるようにしたいけど、持ちこたえられるかどうかは不明です。何しろ、哀しい思いをしたくないと思っている。それが一番、ダメなんでしょうね。

 それにしても、他者の目を気にしている。もっと、自分の実力を出せばいいと言っても、実力が分かっていないから、それが難しい。一つ一つの成功体験を積み上げていくしかないけど、ただ、あまりにもまどろっこしい。

 何しろ、従来型のコミュニケーションの縛りではダメです。新しいカタチ、情報共有であると同時に、それぞれが独立するということでしょう。本来、孤立しているけど、独立はしていません。

 それを独立化して、つなぎあわせていくというのが重要です。それを身を持って体験してほしい。それによって、次の社会を会社を超えて、作ることができます。

 あなたは、人類の進化にとって、絶対に必要な存在であり、未来は我々が作り出すべきなものである。あなたは、そのために、たとえわずかであっても、貢献できる。

 モラル・サークルの拡大は可能であるが、文化は変化に抵抗する。世界市民すべてが同じ用になるという期待は非現実的である。そうなることは、望ましくこともないし、そうなる必要もない。

 人々は多様であり続ける。他者が自分と同じようになることは求めないで、人々は共存の道を歩ぬまねばならない。それ以外に未来はない。

名古屋の喜劇

 人間関係という喜劇を見ている感じです。

メールでの回答

 朝から本を読む気になれなかった。パートナーからの相談の時に、あまりにも役に立たない自分、本で解決しようもない、その無力さみたいなものが、本に頼る自分が情けない。11時には一応、メールでの回答をまとめました。

 「あれから色々考えました。やはり、強くなることかな! ザ・パートナーとして、生き抜く手段を手に入れる。がんばっている人に頑張れとは言えない。一緒に考えることしかできない」

 「知は力です。必ず、味方してくれます。組織の人間に自分なりの問題意識をぶつけよう。それから先は彼らの問題です。そんなことを考えていた」

 これでは、何を言いたいのか分からないですよね。
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