未唯への手紙
未唯への手紙
地方分権の基礎理論 集権か分権か
『国家と財政』より 地方分権のフレーム
中央集権か地方分権かという視点から、主要な資本主義国は二つの形態に分けることができる。第一の形態が、中央集権を基盤とする単一国家(unitary nation)であり、その代表的な国がイギリス、フランス、イタリア、オランダ、北欧などである。言うまでもなく日本は、このカテゴリーに所属する。他方、第二の形態が連邦国家(federal nation)であり、基本的に地方分権が成立していると見なされる。この制度を持つ代表的な例が、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ドイツ、スイスなどである。
集権か分権の形態のいずれをとるかは、各々の国の地理的、歴史的、社会的、文化的そして経済的などの要因を背景に形成されてきたので、一概にどちらが優れているとも断言できない。双方に大なり小なり、メリット・デメリットが存在しうる。しかし「地方分権」という語の方が、何となく魅力的に響く。対立する「中央集権犬が何か専制的あるいは強権的な印象を与えがちであるのに対し、地方分権にはわれわれが好む民主的といったイメージがついてまわる。特に日本においては、このような印象が強いように思われる。これは近代国家の成立以来、一貫して中央集権のメカニズムが統治する中央からの地方支配という形で、様々な問題を生じてきたことに原因があろう。
世界の国々を集権か分権かの視点から眺めると、中央集権の国でその集権の程度をより強化しようという動きはなく、どちらかと言えばその逆に地方分権化を促進しようとする国が多いようである。その代表的な国が日本である。戦後わが国では、地方分権重視のムードが高まり、地方分権へ向けての改革が進められてきた。その背景には、行き過ぎた中央集権の弊害が目立ち、そのメカニズムに限界があるという認識が強まってきたことが挙げられよう。しかしながら地方分権への歩みは遅く、今日なおその大勢に変化は見られない。
ではこの中央集権の弊害とは何であろうか。逆にこれまで何故、地方分権への志向が高まってきたのであろうか。身近な日本の実態を念頭に、地方分権を重視する理由として次の3点を挙げたい。まず第一に、住民選好の把握という点である。基本的に、公共サービス水準の決定に関し住民の選好が無視されるべきではない。この住民選好をどう決定すべきかは、議会制民主政治を前提とする限りより身近な政府で把握されるべきであろう。
第二に、受益と負担の両者の関係を明確にする必要がある。つまり住民の政府便益に対する選好は、必ず自己の負担水準と対応させて考えねばならない。この仕組みが制度的に保証されないと、他人のフトコロのみを当てにしてコスト意識がなくなり、その一方で財政需要の要求のみが高まることになる。この受益-負担の関係は、身近な政府をベースにする方がはるかに把握が容易である。
第三に、国・地方全体の行財政のシステムの簡素化、効率化が望ましい。集権メカニズムのもとで税収を国に集中させ、それを補助金や平衡交付金のルートで地方政府に配分する形態をとると、どうしても国・地方政府間でムダな組織が数多く作られ、一国全体の政府規模が肥大化する傾向になる。
以上述べた三つの理由が主要なものだが、また他にも地方分権の促進のために積極的な理由は存在する。たとえば、中央省庁のタテ割行政の弊害が今日まで、地方政府の行動を制約してきた。分権化の方向で地方により独自の権限とより自由な財源を与えれば、行政の総合性が確保され、より効率的な財政運営が可能となるだろう。国により多くの権限を集中させておくより、地方政府に少なくとも現在以上に権限を与えその創意工夫を活用する方が、活力ある経済社会の形成に望ましいと言えそうである。
中央集権か地方分権かという視点から、主要な資本主義国は二つの形態に分けることができる。第一の形態が、中央集権を基盤とする単一国家(unitary nation)であり、その代表的な国がイギリス、フランス、イタリア、オランダ、北欧などである。言うまでもなく日本は、このカテゴリーに所属する。他方、第二の形態が連邦国家(federal nation)であり、基本的に地方分権が成立していると見なされる。この制度を持つ代表的な例が、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ドイツ、スイスなどである。
集権か分権の形態のいずれをとるかは、各々の国の地理的、歴史的、社会的、文化的そして経済的などの要因を背景に形成されてきたので、一概にどちらが優れているとも断言できない。双方に大なり小なり、メリット・デメリットが存在しうる。しかし「地方分権」という語の方が、何となく魅力的に響く。対立する「中央集権犬が何か専制的あるいは強権的な印象を与えがちであるのに対し、地方分権にはわれわれが好む民主的といったイメージがついてまわる。特に日本においては、このような印象が強いように思われる。これは近代国家の成立以来、一貫して中央集権のメカニズムが統治する中央からの地方支配という形で、様々な問題を生じてきたことに原因があろう。
世界の国々を集権か分権かの視点から眺めると、中央集権の国でその集権の程度をより強化しようという動きはなく、どちらかと言えばその逆に地方分権化を促進しようとする国が多いようである。その代表的な国が日本である。戦後わが国では、地方分権重視のムードが高まり、地方分権へ向けての改革が進められてきた。その背景には、行き過ぎた中央集権の弊害が目立ち、そのメカニズムに限界があるという認識が強まってきたことが挙げられよう。しかしながら地方分権への歩みは遅く、今日なおその大勢に変化は見られない。
ではこの中央集権の弊害とは何であろうか。逆にこれまで何故、地方分権への志向が高まってきたのであろうか。身近な日本の実態を念頭に、地方分権を重視する理由として次の3点を挙げたい。まず第一に、住民選好の把握という点である。基本的に、公共サービス水準の決定に関し住民の選好が無視されるべきではない。この住民選好をどう決定すべきかは、議会制民主政治を前提とする限りより身近な政府で把握されるべきであろう。
第二に、受益と負担の両者の関係を明確にする必要がある。つまり住民の政府便益に対する選好は、必ず自己の負担水準と対応させて考えねばならない。この仕組みが制度的に保証されないと、他人のフトコロのみを当てにしてコスト意識がなくなり、その一方で財政需要の要求のみが高まることになる。この受益-負担の関係は、身近な政府をベースにする方がはるかに把握が容易である。
第三に、国・地方全体の行財政のシステムの簡素化、効率化が望ましい。集権メカニズムのもとで税収を国に集中させ、それを補助金や平衡交付金のルートで地方政府に配分する形態をとると、どうしても国・地方政府間でムダな組織が数多く作られ、一国全体の政府規模が肥大化する傾向になる。
以上述べた三つの理由が主要なものだが、また他にも地方分権の促進のために積極的な理由は存在する。たとえば、中央省庁のタテ割行政の弊害が今日まで、地方政府の行動を制約してきた。分権化の方向で地方により独自の権限とより自由な財源を与えれば、行政の総合性が確保され、より効率的な財政運営が可能となるだろう。国により多くの権限を集中させておくより、地方政府に少なくとも現在以上に権限を与えその創意工夫を活用する方が、活力ある経済社会の形成に望ましいと言えそうである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
「自分中心」になれればプラスの実感が増えていく
『「なりたい未来」を引き寄せる方法』より もっと自分中心で生きでみよう
自分のなかにある無数の材料のなかから、どんな言葉をチョイスするかは、自分の意識によって決まります。
人を敵だと思っていれば、人を攻撃する材料しか見えません。人の心に無知であれば、どんなに善良であっても、自分を守る材料が見えないために、傷つく結果となる
それが目の前に存在していたとしても、「意識のベール」がそれらを覆い隠してしまうのです。
だから、先の母娘の例でいえば、肯定的なコミュニケーションの言葉を知識として知っていたとしても、まず、こんな言葉を使う場面すら、見えないのです。
いま見えないものは、未来においても過去においても見えません。だから過去においても現在においても未来においても、「固着している情報」を塗り替えないかぎり、似たような言動パターンで動き、似たような状況が起こり、似たような結果になるということなのです。
たとえば、あなたは職場で自分の能力を発揮したいと思っています。
けれども、実際の職場があなたの目には、
「上司が私の能力を低く見ている。上司が私の意見を聞いてくれない。同僚が私の足を引っ張る言動をとる。同僚が自分の仕事を私に丸投げしてくる。後輩が私の言うことに従ってくれない」
というふうに映ります。
こんなふうに相手の言動に目を向けて「他者中心」的に考えてしまうと、
「私のまわりには、私のじやまをする人ばっかりいて、自分の能力を発揮することができない」
というような気持ちになってきて、やる気が失せてしまうでしょう。
こんなとき、「自分中心」的な考え方ができる人であれば、まず「それぞれの問題」を分けて考え、それぞれの問題に対して一つひとつ向き合って、丁寧に解決していこうとするでしょう。
上司が「私の能力を低く見る」かどうか、それは上司の自由だ。
上司が「私の意見を聞いてくれない」。これに対して、具体的にどうやって解決していこうか。
同僚が「私の足を引っ張る」。これに対しては、具体的な問題が発生したときに取り組もう。
同僚が自分の仕事を「私に丸投げしてくる」。これに対しては、自分が引き受けていいところとそうでないところをはっきりと意思表示しよう。
後輩が「私の言うことに従ってくれない」。コミュニケーションが足りないのかもしれない。もっと具体的に話し合ってみよう。
こんな姿勢で臨めば、必ず結果もよくなってきます。
なぜなら、解決に至るまでのプロセスのなかにこそ、プラスの実感や力強い手応えの実感があるからです。
もしそうやってプラスの実感を積み重ねていれば、あなたは「まさか」と思うよりは、
「そういうことだったんですか。うまくいったのはたまたまだと思っていたのですが、プラスの実感がプラスの結果を招く、ということだったのですか。これで謎が解けました」
などと言うにちがいありません。
実際に自分の望みをかなえて満足している人や幸せな人、充実した生活を送っている人たちは、この「意識の法則」を経験的に知っているのです。知っているからこそ、順風満帆の生活を送りつづけているのです。
「しなければならない」や罪悪感から解放されて自由になればなるほど、プラスの実感や充実感を覚えるようになるでしょう。
いま感じているあなたの実感が、増えていけば増えていくほど、未来は保証されたも同然なのです。
まさに私が「自分中心心理学」で唱えているように、「自分中心」の概念は、誰もが必ず経験し実感していくだろう「人類の進化」なのです。身のまわりに起こる出来事はすべて「心の反映」
人は見ようとしないものは見えません。みんなが同時に同じ光景を見ていたとしても、それをどう見るか、どう解釈するかは、個々それぞれです。自分の関心があるところしか見えないのです。
だからこそ、自分に起こっていることは、すべて「私の心の反映」だということができるのです。
自分を中心に置くと、自分の身辺で起こることは、すべて自分の意識を反映しています。そういう意味では、自分の身辺に起こっていることはすべて、「自分を知るための情報」だといえるでしょう。
自分を中心にした視点に立つと、環境や出来事のなかに、自分がいるのです。
私たちは、自分の顔を見ることができません。
鏡に映る自分を見たり、写真に映っている自分やビデオを見ることはできますが、そこに映し出された自分が、「本当かどうか、じつはわからない」という立場に立っているのが私たちなのです。
自分を知るには、起こっていることでしか判断できません。そのときどきに起こる出来事やそれぞれの場面のなかに、自分の片鱗を見ます。それですら、表層的なものにすぎません。
顕在意識の世界と無意識の世界とでは、見えるものが大きく異なります。こんな無意識の世界にまで領域を広げるならば、あらゆる視点から自分を見ることができてもなお、自分の全貌は見えてこないかもしれません。
この世界は、誰もが、自分を知るためにある。「神は、あらゆる自分を知るために、あらゆる角度から自分を映し出すものとしてこの宇宙を創造した」といわれますが、そんな宇宙の存在理由と、私たちのホログラム世界の存在理由とが相似形のように重なって感じられて、私には、私たちという存在が、とても尊く思えてくるのです。
自分のなかにある無数の材料のなかから、どんな言葉をチョイスするかは、自分の意識によって決まります。
人を敵だと思っていれば、人を攻撃する材料しか見えません。人の心に無知であれば、どんなに善良であっても、自分を守る材料が見えないために、傷つく結果となる
それが目の前に存在していたとしても、「意識のベール」がそれらを覆い隠してしまうのです。
だから、先の母娘の例でいえば、肯定的なコミュニケーションの言葉を知識として知っていたとしても、まず、こんな言葉を使う場面すら、見えないのです。
いま見えないものは、未来においても過去においても見えません。だから過去においても現在においても未来においても、「固着している情報」を塗り替えないかぎり、似たような言動パターンで動き、似たような状況が起こり、似たような結果になるということなのです。
たとえば、あなたは職場で自分の能力を発揮したいと思っています。
けれども、実際の職場があなたの目には、
「上司が私の能力を低く見ている。上司が私の意見を聞いてくれない。同僚が私の足を引っ張る言動をとる。同僚が自分の仕事を私に丸投げしてくる。後輩が私の言うことに従ってくれない」
というふうに映ります。
こんなふうに相手の言動に目を向けて「他者中心」的に考えてしまうと、
「私のまわりには、私のじやまをする人ばっかりいて、自分の能力を発揮することができない」
というような気持ちになってきて、やる気が失せてしまうでしょう。
こんなとき、「自分中心」的な考え方ができる人であれば、まず「それぞれの問題」を分けて考え、それぞれの問題に対して一つひとつ向き合って、丁寧に解決していこうとするでしょう。
上司が「私の能力を低く見る」かどうか、それは上司の自由だ。
上司が「私の意見を聞いてくれない」。これに対して、具体的にどうやって解決していこうか。
同僚が「私の足を引っ張る」。これに対しては、具体的な問題が発生したときに取り組もう。
同僚が自分の仕事を「私に丸投げしてくる」。これに対しては、自分が引き受けていいところとそうでないところをはっきりと意思表示しよう。
後輩が「私の言うことに従ってくれない」。コミュニケーションが足りないのかもしれない。もっと具体的に話し合ってみよう。
こんな姿勢で臨めば、必ず結果もよくなってきます。
なぜなら、解決に至るまでのプロセスのなかにこそ、プラスの実感や力強い手応えの実感があるからです。
もしそうやってプラスの実感を積み重ねていれば、あなたは「まさか」と思うよりは、
「そういうことだったんですか。うまくいったのはたまたまだと思っていたのですが、プラスの実感がプラスの結果を招く、ということだったのですか。これで謎が解けました」
などと言うにちがいありません。
実際に自分の望みをかなえて満足している人や幸せな人、充実した生活を送っている人たちは、この「意識の法則」を経験的に知っているのです。知っているからこそ、順風満帆の生活を送りつづけているのです。
「しなければならない」や罪悪感から解放されて自由になればなるほど、プラスの実感や充実感を覚えるようになるでしょう。
いま感じているあなたの実感が、増えていけば増えていくほど、未来は保証されたも同然なのです。
まさに私が「自分中心心理学」で唱えているように、「自分中心」の概念は、誰もが必ず経験し実感していくだろう「人類の進化」なのです。身のまわりに起こる出来事はすべて「心の反映」
人は見ようとしないものは見えません。みんなが同時に同じ光景を見ていたとしても、それをどう見るか、どう解釈するかは、個々それぞれです。自分の関心があるところしか見えないのです。
だからこそ、自分に起こっていることは、すべて「私の心の反映」だということができるのです。
自分を中心に置くと、自分の身辺で起こることは、すべて自分の意識を反映しています。そういう意味では、自分の身辺に起こっていることはすべて、「自分を知るための情報」だといえるでしょう。
自分を中心にした視点に立つと、環境や出来事のなかに、自分がいるのです。
私たちは、自分の顔を見ることができません。
鏡に映る自分を見たり、写真に映っている自分やビデオを見ることはできますが、そこに映し出された自分が、「本当かどうか、じつはわからない」という立場に立っているのが私たちなのです。
自分を知るには、起こっていることでしか判断できません。そのときどきに起こる出来事やそれぞれの場面のなかに、自分の片鱗を見ます。それですら、表層的なものにすぎません。
顕在意識の世界と無意識の世界とでは、見えるものが大きく異なります。こんな無意識の世界にまで領域を広げるならば、あらゆる視点から自分を見ることができてもなお、自分の全貌は見えてこないかもしれません。
この世界は、誰もが、自分を知るためにある。「神は、あらゆる自分を知るために、あらゆる角度から自分を映し出すものとしてこの宇宙を創造した」といわれますが、そんな宇宙の存在理由と、私たちのホログラム世界の存在理由とが相似形のように重なって感じられて、私には、私たちという存在が、とても尊く思えてくるのです。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
この大宇宙の中で、ちっぽけな僕らの生に意味なんてあるのでしょうか……
『哲学入門』より 人生の意味 人生は、短めの目的手段連鎖の集まりである
こうした路線に対しては、トマス・ネーゲルが冷ややかな論評をしている。自分の外にある、より大きな目標が人生に意味を与えてくれるのだとしよう。しかし、次のようなケースを考えてみたまえ。人間は人間を食糧とする異星人のために飼育されているということがわかふた。だからといって、それによってわれわれの人生に意味が与えられるわけではない。なぜなら、異星人がわれわれを食べることによって何を実現しようとしているのかを知らない。さらに、われわれが食べられることは、異星人にとっては有意義かもしれんが、それゆえに「われわれの人生がわれわれにとって有意義になる」わけではない。というわけで、われわれの人生の究極目的じたいが自分にとって有意義であることが必要だ。
実際、神の栄光、国家、世界平和、革命、科学の進歩などに身を捧げている人は、それらの一部であると同時に、それらを自分の一部にしている。つまり、それらの目的と同化している。しかし、このようにこれらの目的・価値を自分の中に置いてしまうと、それらは「ビール飲みたい」と同列になってしまう。つまり、これらの目的について、それは何のため? と問うことができてしまうのである。ということは究極目的にならない。個人的で些細な目的からなるわれわれの人生総体に意味を与える外部の価値ではなくなってし
目的を探索する推論は、役に立つ装置の本来の機能とは外れた使い方、ある種の機能不全だということを認識すべきだと思う。ほら、どんなストーブにも衣類を載せて乾燥機として使ってはいけません、って書いてあるでしょ。目的手段の連鎖はたしかにあるけど、これは人生の内部で比較的短い連鎖で終わりに達する。「ビール飲みたい」という目的を果たすためにはどうしよう。そのためには「コンピニに行って買ってこよう」。そのためには「自転車をガレージから出さなくては」。そのためには「自転車とガレージのカギを小物入れから取り出さなくては」。くらいのものだ。そして、ビールを飲んでゲップをしたらおしまい。
人生は、短めの目的手段連鎖の集積だ。人生全体が目的手段の連鎖で成り立っているのではない。その集積(=人生)が全体として価値あるものだったかどうかは、その連鎖がすべて究極目標につながふていたかとは関係ない。一つ一つの短めの目的手段推論を本気で行って、その都度の自分の目的にとって最善の手段をとろうとしている限りにおいて、われわれは自分を価値あるものとして、自分の人生を生きるに値するものとして、まじめに受け止めているのである。これがネーゲルの言わんとするところだ。
科学的世界観が人生の意味を蝕む第三の仕方は、それがわれわれに時間的にも空間的にも巨大なスケールでものごとを見る視点を提供することに関係している。宇宙一三七億年の歴史の中では、われわれの人生はほとんど一瞬にすぎない。われわれが何をしようとも、宇宙の歴史の中に置いてみればどうでもよいことに見えてしまう。この意味での人生の無意味さの感覚は、目的手段推論を本気で行って生きている限り、われわれはすでに自分を価値あるものとしているのだ、といくら言ってみても消えはしない。その本気で生きていることそのものが、宇宙全体の歴史を背景にして眺めてみると、どうしようもなくちっぼけなくだらないことに思えてしまう、ということだからだ。
ネーゲルは、こうしたわれわれの卑小さは人生の無意味さを立証する論拠にはならないが、どうしてわれわれが人生は無意味だと思ってしまうのか、そのように思うのが自然なのかの説明にはなる、と考えている。私が何をどんなに頑張ろうと、一〇〇万年後にはどうでもよいことになる。人生は無意味だ、という人がいるとする。しかし、この人には次のように反論することができる。なるほど、キミが今やっていることは、一〇〇万年後にはどうでもよいことになる。時の隔たりが、キミのやつていることを無価値にするのなら、逆に、一〇〇万年後に起こることは、今はどうでもいい、とも言えるはずだ。だとしたら、一〇〇万年後に起こる「キミが今やつていることがどうでもよいことになる」という出来事も今のキミにはどうでもよいことになるね。
ここでネーゲルが言っているのは、全宇宙に比べてちっぼけな点にすぎないという事実が、われわれの人生を無意味にするわけではないということだ。宇宙の片隅で七〇年続いた無意味な人生は、かりに、その人が仝宇宙に充満して永遠に生きるとしても、永遠に無意味なだけだ。しかし一方でネーゲルは、自分の卑小さの意識は、人生は無意味だという感情と自然な結びつきをもっていると指摘する。そして、それには、おそらく人間に特有のある重要な能力が関わっている。
こうした路線に対しては、トマス・ネーゲルが冷ややかな論評をしている。自分の外にある、より大きな目標が人生に意味を与えてくれるのだとしよう。しかし、次のようなケースを考えてみたまえ。人間は人間を食糧とする異星人のために飼育されているということがわかふた。だからといって、それによってわれわれの人生に意味が与えられるわけではない。なぜなら、異星人がわれわれを食べることによって何を実現しようとしているのかを知らない。さらに、われわれが食べられることは、異星人にとっては有意義かもしれんが、それゆえに「われわれの人生がわれわれにとって有意義になる」わけではない。というわけで、われわれの人生の究極目的じたいが自分にとって有意義であることが必要だ。
実際、神の栄光、国家、世界平和、革命、科学の進歩などに身を捧げている人は、それらの一部であると同時に、それらを自分の一部にしている。つまり、それらの目的と同化している。しかし、このようにこれらの目的・価値を自分の中に置いてしまうと、それらは「ビール飲みたい」と同列になってしまう。つまり、これらの目的について、それは何のため? と問うことができてしまうのである。ということは究極目的にならない。個人的で些細な目的からなるわれわれの人生総体に意味を与える外部の価値ではなくなってし
目的を探索する推論は、役に立つ装置の本来の機能とは外れた使い方、ある種の機能不全だということを認識すべきだと思う。ほら、どんなストーブにも衣類を載せて乾燥機として使ってはいけません、って書いてあるでしょ。目的手段の連鎖はたしかにあるけど、これは人生の内部で比較的短い連鎖で終わりに達する。「ビール飲みたい」という目的を果たすためにはどうしよう。そのためには「コンピニに行って買ってこよう」。そのためには「自転車をガレージから出さなくては」。そのためには「自転車とガレージのカギを小物入れから取り出さなくては」。くらいのものだ。そして、ビールを飲んでゲップをしたらおしまい。
人生は、短めの目的手段連鎖の集積だ。人生全体が目的手段の連鎖で成り立っているのではない。その集積(=人生)が全体として価値あるものだったかどうかは、その連鎖がすべて究極目標につながふていたかとは関係ない。一つ一つの短めの目的手段推論を本気で行って、その都度の自分の目的にとって最善の手段をとろうとしている限りにおいて、われわれは自分を価値あるものとして、自分の人生を生きるに値するものとして、まじめに受け止めているのである。これがネーゲルの言わんとするところだ。
科学的世界観が人生の意味を蝕む第三の仕方は、それがわれわれに時間的にも空間的にも巨大なスケールでものごとを見る視点を提供することに関係している。宇宙一三七億年の歴史の中では、われわれの人生はほとんど一瞬にすぎない。われわれが何をしようとも、宇宙の歴史の中に置いてみればどうでもよいことに見えてしまう。この意味での人生の無意味さの感覚は、目的手段推論を本気で行って生きている限り、われわれはすでに自分を価値あるものとしているのだ、といくら言ってみても消えはしない。その本気で生きていることそのものが、宇宙全体の歴史を背景にして眺めてみると、どうしようもなくちっぼけなくだらないことに思えてしまう、ということだからだ。
ネーゲルは、こうしたわれわれの卑小さは人生の無意味さを立証する論拠にはならないが、どうしてわれわれが人生は無意味だと思ってしまうのか、そのように思うのが自然なのかの説明にはなる、と考えている。私が何をどんなに頑張ろうと、一〇〇万年後にはどうでもよいことになる。人生は無意味だ、という人がいるとする。しかし、この人には次のように反論することができる。なるほど、キミが今やっていることは、一〇〇万年後にはどうでもよいことになる。時の隔たりが、キミのやつていることを無価値にするのなら、逆に、一〇〇万年後に起こることは、今はどうでもいい、とも言えるはずだ。だとしたら、一〇〇万年後に起こる「キミが今やつていることがどうでもよいことになる」という出来事も今のキミにはどうでもよいことになるね。
ここでネーゲルが言っているのは、全宇宙に比べてちっぼけな点にすぎないという事実が、われわれの人生を無意味にするわけではないということだ。宇宙の片隅で七〇年続いた無意味な人生は、かりに、その人が仝宇宙に充満して永遠に生きるとしても、永遠に無意味なだけだ。しかし一方でネーゲルは、自分の卑小さの意識は、人生は無意味だという感情と自然な結びつきをもっていると指摘する。そして、それには、おそらく人間に特有のある重要な能力が関わっている。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
岡崎図書館の10冊
岡崎図書館の10冊
491.3『ギャノン生理学』
304『災後のメディア空間』論壇と時評2012-2013
320.4『「最悪」の法律の歴史』
212.1『青森縄文王国』
933.7『あるときの物語 上』
933.7『あるときの物語 下』
492.9『看護師のためのマナー・言葉かけ・接し方ハンドブック』
486.7『ミツバチの会議』なぜ常に最良の意思決定ができるのか
490.2『医学探偵の歴史事件簿』
673『小さなサプライズから始めよう』人を喜ばせる39のルール
491.3『ギャノン生理学』
304『災後のメディア空間』論壇と時評2012-2013
320.4『「最悪」の法律の歴史』
212.1『青森縄文王国』
933.7『あるときの物語 上』
933.7『あるときの物語 下』
492.9『看護師のためのマナー・言葉かけ・接し方ハンドブック』
486.7『ミツバチの会議』なぜ常に最良の意思決定ができるのか
490.2『医学探偵の歴史事件簿』
673『小さなサプライズから始めよう』人を喜ばせる39のルール
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )