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ワーグナー 「トリスタンとイソルデ」

『ワーグナー』より 「神秘の奈落から個人の幸福へ」

一八五九年三月二日、《トリスタンとイソルデ》第二幕の完成を目前に、ワーグナーはマティルデ・ヴェーゼンドンクにこう書いている。「恋人よ、なんと難しいことでしょう、ああ、本当に難しいのです。しかし、私の善良な天使はそれでも私に微笑みかけてくれます。その天使は私を慰めてくれ、最も安らぎが必要なときにそれを与えてくれます。だから私は感謝して、自分自身に言いたいのです。「こうなるためには、苦難は必要だったのだ」と。椋欄の葉は、茨の冠をかぶった者にしかわかりません。それは柔らかに安らぎ、手のなかで揺れ、我々に涼しさと極上の爽快感を送り届けてくれる。このうえない香りの天使の羽のように頭の上にアーチを描いているのです」。現下の精神状態を描写するのに、ワーグナーはこのような詩的な手紙を用いている。その際、彼は明らかに、詩作に励んでいた、彼のミューズから送られたばかりのメルヘンのモティーフを使っている。

ワーグナーの当時の状況は「芸術と人生」というテーマにとって大変有益であるため、いくらか詳しく述べることにする。この手紙は、チューリヒで「隣家間の混乱」が何度か生じた後、ワーグナーが逃亡していたヴェネツィアから届けられた。一八五七年の八月末から、ヴェーゼンドンクとワーグナーの二組の夫妻は、「緑の丘」に隣り合って暮らしていた。ヴェーゼンドンク夫妻は、ミュラ、ギド、カールの三人の子どもたちとともに新築の豪華な屋敷に住んでおり、ワーグナー夫妻の方は、隣接する、庭に囲まれた家屋に住んでいた。リヒャルト・ワーグナーとマティルデ・ヴェーゼンドンクが芸術を通じて何年もかけて育んだ強い絆は、婚姻関係に影響を与えないはずはなかった。二人の交友関係の結果として、ワーグナーは「隠れ家」(彼自身がそう呼んでいた)を早くも一年後に去り、約七か月間ヴェネツィアに腰を据えることとなった。そこで彼はカナル・グランデ沿いのジュスティニアーニ館に居を構える。同じくカナル・グランデ沿いには、コルネル・スピネッリ館が建っていたが、それは両方とも、かつてジョルジョ・ヴァザーりが建築に携わったものである。ルネサンス期の画家で美術史家であった彼は、近代の芸術家の、つまり「神のごとき芸術家」の神話を創った一人で、職人のように雇われたのではなく、芸術の天才として、その後援者から高額の報酬を得ていた。

ワーグナーの豪奢な書斎は、彼の自己認識を象徴している。すなわち、長い伝統のなかで(苦境のなかでさえ、いや、だからこそ)、彼は自分自身を、音楽の領域における唯一のではなくとも、一人の「神のごとき芸術家」と見なしていた。もっとも、彼の当時の状況をルネサンス画家のそれと比べることはできない。ワーグナーはみずからの芸術への要求に対し、自身の創作した人物像とともに、拷問にかけられる救世主さながらに苦しんでいた。さらに、賞賛を浴びる英雄としてなどではなく、警察の監視下に置かれた政治的国外追放者としてみずからをヴェネツィアヘと導いた人生の運命を恨んでいた。しかしながら彼は、超人的なものを創出し、それゆえに大規模な支援のみならず、同時代人であるヴェルディ同様に、妻とミューズを持つという芸術家の「昔ながらの」権限を求めることが許される、芸術宗教の代表者と見なしていた。

ワーグナーは以前から、「尊敬に値する、しかし完全には私のものではない妻」ミンナを、自分の芸術への理解が足りないと非難していた。そして、すでに一八五三年の手紙のなかで、つまり《トリスタン》の時期よりもずっと前に、友人のリストに打ち明けている。「あなたは何と言うでしょうか。私が愛の本当の幸福をまだ一度も味わったことがないと知ったら。いまや、日毎に私への理解や認識を失っていく最も身近な人間の偏狭さに直面し、私の存在は困窮と禁欲的な配慮の狭間にいます。ここで公然と侮辱することはできないし、しようとも思いません。(そうしようものなら、私の心も痛むでしょう。慣れとは、確かで強大な力なのです!)。しかし、せめて私は、そのような不毛さから時折身を引き、妨げられることなく、気兼ねなく、私の生命力の翼を羽ばたかせるための能力を獲得しなければなりません」。

そのような「不毛さ」の補完となったのが、一八五一年に二二歳で夫とともにチューリヒに越してきて、その翌年に、ベートーヴェン指揮者として、そして《タンホイザー》序曲の作曲家としてのワーグナーに感激したマティルデ・ヴェーゼンドンクであった。「チューリヒの古い商館の暗い一室で[中略]最初の稽古のときに抱いた印象を私はけっして忘れません。それは、幸福感の渦、霊感でした」。この若い女性は、単なる母ではいたくなかったし、観光の中心地や優雅な保養地を見物して歩くだけでは満足できなかった。むしろ彼女は、自分自身をパトロン、熱烈な芸術支持者、詩人と見なしていた。このような立場で、彼女は実際にワーグナーに接近した。そして一八五七年夏にヴェーゼンドンク邸が完成するまで、マティルデは家族とともにチューリヒの高級ホテル、ボー・オー・ラックのスイートで暮らしていたため、しばらくの間ワーグナーが定期的に彼女を訪問しても不適切とは思われなかった。「彼は午前中に作曲したものを午後に私のグランドピアノで弾いて聴かせ、試していたものでした」と後に彼女は満足げに回想している。
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三酔人経綸問答

『三酔人経綸問答』より

「だいたい近年のヨーロッパの状況を考えますと、イギリス、フランス、ドイツ、口シアの四カ国がもっとも強く、いずれも文学にすぐれ、学術をきわめ、農業、工業、商業が盛んにして物資は豊富、陸には数千万の強い兵がいならび、海には数千隻の戦艦がつらなり、その強大堅固な軍備は、うずくまる龍がにらみをきかせ、かたわらの虎がとびかかろうとするようで、その盛んなことは前例をみないほどです。さてこのような強力な国力をうみだし、莫大な財力を築いた要因は何でしょうか。要因はさまざまあるとしても、要するに自由という原理がこの一大建築の基礎をなしたのです。

たとえばイギリスの繁栄と強大は、代々のすぐれた王にさかのぼれるとしても、一躍、多大の力をふるって奮闘したのは、チャールズ一世のときに自由の波濤がどうと湧き起こり、古い弊害である堤防を突きくずして、有名な権利の請願の実現をみたのでした。

またフランスでも、ルイ十四世のときに早くも強大な軍備を誇り、華麗な文芸を開花させて一世を風靡したとはいえ、それは専制国家という穴倉のなかにむらがり咲いた徒の花にすぎず、ほんとうに隆盛を確かなものにしたのは、あの一七八九年の大革命という偉業の成果にほかなりません。

またドイツでも、十八世紀に勇猛なプロイセン王フレデリック[フリードリヒ]二世が、武力で近隣諸国を圧倒して以来、次第に強大になってきたとはいえ、フランス革命の思想がいまだ移入されないうちは、国は分裂してばらけた薪のようでしたが、ナポレオン一世が共和国の指揮官となり、革命の旗をなびかせてウィーンやベルリンに遠征するに及んで、初めてドイツ国民は自由の空気を呼吸して友愛の滋液を飲みくだし、以来、情勢は一変、風俗は一新し、着々とこんにちの隆盛に至ったのです。

ロシアの場合には、国土が広く、その軍備の強大なことは世界第一とはいっても、文化や政治の面では他の三カ国に遠く及ばない。これは圧制の名残といわなければなりません。

人間社会のあらゆる事業は、たとえば酒のようなもので、自由とはちょうど酵母のようなものです。ワインでもビールでも、その素材がどれはどよくても、もし酵母というものがなければ、せっかくの素材もみな樽の底に沈殿して、アルコールの醸造されることはない。専制国家の事物はどれも酵母のない酒のようなもので、みな樽の底の沈殿物です。ためしに専制国家の文芸に目を通してごらんなさい。なかには見るべきものがあるにしても、こと細かに見るならば、千年たっても変化なく、万の作品を見ても同じようで、変化発展がみられない。作者の見聞する現象はどれも樽の底の沈殿物にすぎず、作者もまた沈殿した精神でそれを描写するだけ。変化発展がないのも当然です」(欄外にいわく。漢学先生、何か言い分は)

「ことによると、こう言う人がいるかもしれません。『国が富んで強いのは、財貨が豊富なためである。財貨が豊富なのは、学問が精緻なためである。なぜなら、物理学や化学、動物学や植物学、数学などの成果を取り入れて産業に応用することで、時間を節約し、体力をむだにせず、大量のすぐれた製品を生産できることは、手作業でこつこつ作るよりはるかに効率的である。これこそ国が富んで強い要因ではないか。国が富んで強ければ、すぐれた兵をもち、堅牢な戦艦をそなえ、争乱がおこれば敵国のすきをついて出兵し、僻地を開拓して耕地に変え、遠くアジア、アフリカの地を領有し、移民を送りこんで市場を設け、その地の産物を安く買い、自国の製品を高く売って莫大な利益を得る。工業がいよいよ盛んになり、販路がいよいよ拡大すれば、陸軍、海軍とも軍備はますます強大になってゆくのは自然の勢いである。国が富んで強いのは、自由の制度のためではないのだ』と。

ああ、これこそ、一を知って二を知らない者の言うことです。人間の行なう事業というのはどれも関連しあい、原因と結果は複雑にからまりあっているとはいえ、これを細かく考えれば、そこには真の原因があるのです。国が栄えて豊かなのは、学問の精緻なことが原因であり、学問の精緻なのは国が栄えて豊かなことが原因であり、このふたつは互いに原因となり結果となるのは言うまでもありません。しかしそもそも学問が精緻になることができたのは、要するに人々が知識に目ざめたためです。いったん知識に目ざめれば、学術の面で目がひらかれるだけでなく、社会制度の面でも目をひらかれるようになるのは、理の当然です。このためどの国でも、昔から学術の発達した時代は、かならず政治思想の盛んになった時期です。学術も政治思想も、ただ知識という一本の根から育った枝葉であり果実なのです。
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クライシスは進化をもたらす

クライシスは進化をもたらす

 第三帝国での迫害によって、ユダヤ人は進化した。そして、西洋そのものの。

 あれも、クライシスです。地殻変動です。

2分の出待ち

 今日はパートナーが年休なので、Iさんとの会話だけが頼りだった。

 朝は出待ちすることなく、カウンターでおしゃべり。よく、見ていると、スタッフの間で微妙な時間差を作り出して、順番を変えていた。空いたIさんが隣のカウンターを手伝うことで、前の人をそちらに誘導していた。

 お昼休みに、「待っている」と言われた。

 12時に行ったところ、Iさんは居ません。1分ぐらいして、呼び出されたIさんが登場。「ちょっと、待って!」と言って、バックヤードに戻っていった。1分後に戻ってきて、カウンターをオープンしました。

 アスクルでオーダーをしていたということです。汗だくです。

 つまり、2分ぐらい出待ちしていた。カウンターで3分ぐらい、「10分前ルール」について、話すことができた。
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