goo

ここにもグーグル、あちらにもグーグル

ページとブリンはスタンフォード大学の著名な学生起業家の星としてヤンとファイロの後を継いで、グーグルを(読者がご想像の通り)メンロ・パークのサンタマルガリータ通り232番地のガレージで起こした。「ネット検索」はニューヨーク州イサカという変わった町で始まり、ポータルを通して、冬が厳しい土地を奇跡のようにつないだ(ジム・クラークが訪れた篭のなかのワインを提供しているあのアーバナと間違いなくつながっていた)。ちょうどその頃、ARPANETが始動し、SMART(Salton's Autonomic Reviewer of Text)も登場した。ジェラルド・サルトンはコーネル大学のコンピュータ科学者だったが、「問い合わせからのフィードバックに基づく、統計的な重量と関係性のアルゴリズムによる、コンセプト・アイデンティフィケーション」という初歩的なアイデアを思いついた。かくして長い技術的な苦悩の時期が何十年も続いた。サルトンの仕事がインスパイアを与えたのが、毎年行われるテキスト情報検索会議(TREC)であり、ここが最先端の技術をいち早く世に知らせていた。トレッキーズ(TRECkies)はウェブには興味がなかったが、ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは関心があった。1996年の彼らの最初のグーグルの売り込み文句は以下のようなものだった--「情報検索の主要なベンチマークであるテキスト情報検索会議(TREC96)は、『我々の147ギガバイトの生簑の2400万のウェブページに比べて、20ギガバイトしかない巨大なベンチマーク』を使用していた。TRECでは機能しても、ウェブでは良い結果を生み出さないことも多い」。20ギガバイトというのはフリーフリッカーのような概念で、今日のグーグルのテラバイトからすれば小さな点にしかすぎないことが理解できる。

すぐに活動的な2人はバックラブ(BackRub)というクローラを開発したが、これは数百のサイトを収集するだけではなくランク分けもした。彼らが理解しているアルゴリズムは我々に簡単に理解できる代物ではないが、それを用いて行ったのだ。グーグルのアルゴリズムは業界最良で、ビル・ゲイツのOSのように慎重に守られている。にきび治療の軟膏を検索しているのに、ダビュークの10代のオオカミ人間のサイトが出てくるはめにならないように、利用者にフレンドリーなアルゴリズムは、同じものを検索している他の人によって最良だと(あるいは最も人気があると)判断されたサイトを探し当てる。バックラブは含蓄のある結果を提示してくれる。それに対して、アルタヴィスタ(AltaVista)やエキサイトは些細な情報を提供した。最も良いことには、ジョン・バッテルが指摘するように、このサーチエンジンはウェブのスケールに合わせて自らの大きさを調整する。すなわち「ウェブが大きくなればなるほど、エンジンも大きくなる」ということだ。そして彼らはバックラブ(BackRub)をグーグル(Google)に変えた。もとになったgoogolという名前は数学者が1のあとに0が100個続く数を意図したものだ。グーグルの最初のヴァージョンはスタンフォード大学のウェブサイトに1996年8月に立ち上がった。問題は、想像を絶する量の容量を必要としたので、スタンフォード大学の帯域の半分を占めてしまったことだった。しかし、1年もしないうちにシリコンヴァレーの大物たちは資金を注ぎ込むようになり(プリンとページは最初の10万ドルをバーガーキングで祝った)、ジョン・ドーアも投資した。2000年、グーグルはマウンテンヴューの101号線の霞の大降りのような高速道路沿いで150人の従業員を抱えるようになっていた。

グーグルのモットーは「邪悪なことはするな」である。これはどういう意味だろうか。「シリコンヴァレーのユニークさ」の反復、あるいは大学院生の無垢さ、あるいは優秀な広報のことかもしれない。グーグルにはだらしない服装やランチ休みのバレーボールが必須だが、これはPARCも40年前にやっていた。ページとブリンは2004年8月に株式公開したときにモットーを確認した。インサイダーと独占企業がほとんど事前に買い占めているということのない、アメリカ史上初の株式公開をウォール・ストリートは見届けた。複雑なインターネットのオークションでは100ドル札がある人は誰でも値をつけることができ、85ドルより高く値をつけたら配当があったし、かなり稼げることもあった。ウォール・ストリートの目利きの達人は20ドルと90ドルのあいだで値をつけていたが、85ドルで安定し、2007年には700ドルを突破した。株価が急上昇しても、グーグルはウォール・ストリートが無知な人々への目くらましに小手先で行う、会社の分割の衝動には抵抗した。
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リンゴの庭園

『アメリカ西漸史』より シリコンヴァレー--太平洋の端にある新世界

スティーヴ・ジョブズとビル・ゲイツが開拓した製品の数々から、ほとんどの人々がデジタル革命とは1980年代に始まったものだと思っているが、それはパーソナルコンピュータ、ワープロ、ファックス、ビデオデッキ、その他の新たな消費アイテムの出現時期と重なっていたからでもあった。スティーヴ・ジョブズはイノヴェーターでありかつ企業家でもある点で、きわめて稀なシュンペーター的な存在である。カウパー・ストリートのイル・フォーナイオでモーニングコーヒーを1人すすりながらアイデアを落書きしては考え、誰も真似できない感覚を自分の会社に浸透させる。アップルが登場したとき、小さなクリーム付きウエハースサイズで、手のひらの上では超軽量なのに1000曲も入ってしまうというiPodNano、あるいはそれよりは少し大きい高性能のポケットコンピュータにしてウェブ検索が可能なiPhoneなどに匹敵するものはこの世になかった。アップルは世界中でほかにわずかしか見られない(ほとんどイタリアか日本にしかない)スタイリッシュな感覚を開拓した。それは単純には相容れないはずの形状と機能のそそられるブレンドである、こうしているうちにも世界中に広がっている、小さきものの美という感覚である。ロゴについては最初から意味を教えてほしかったが、アップルは人類の起源とカリフォルニアの永遠の隠喩へと誘う。それはすなわち庭園であり楽園であり、イヴが禁断の果実を食べるのを当たり前のこととしている--少し楽しんでみよう、と。ロゴのリンゴにかかっている色はありふれた赤、白、青ではなく、虹色である。しかし、60年代を象徴するように虹色の配置は不規則にされた。

ジョブズは瘤癩持ちにして傲慢かつ粗野で冷酷で、天敵はジョブズのことをクレイジーだと言う。晩年のジェリー・ルービンのように、ジョブズは自らの世代のパロディを何十年も通して行った。ロックンロール、インド人のグル、コミューン、20代の頃の「フルータリアン」ダイエット。そして40歳が近くなれば、株式相場表示機を確認しながら菜食と運動と大食で体型を維持する。いい中高年になってくるとアルマーニのスーツを着込み、ガルフストリームVの個人所有ジェット機に乗り、ヘリコプター発着所も持ち、禅、超巨大邸宅、全面的な警備、この世のオールラウンドな君主になる。2人組の片割れのスティーヴ・ウォズニアックのほうは、明らかにコンピュータの天才であり誠実な人間だった。しかし、ジョブズは人を突き動かし、煽動し、製品を売ることができたし、押しつけの未来ではない、ひとつの未来を描くことができた。その未来は、ほかの誰が描いた未来よりも、シックでスタイリッシュで、俗的だが使いやすい未来である。そしてそんな未来を実現するために、すべてをリスクにさらす。コンピュータの様々なプログラムをマスターした者でも、それがどうしてそう動くのかについてはまったくわからないし、教えたところで理解はできない。しかし、より重要なのは、人々は別にそれを知りたがっていなこということだ。人々は外見がかっこよく命令通りに動いてくれるものを求めていた。アップルはこれまでずっとそうした商品を提供してきたのだ。それに対して、しつこく出てきては消せないボッブアップが、毎日あるいは2日にいっぺんは、先月購入したマシーンはアップデートが必要ですと知らせをくれる--マイクロソフトはそういうコンピュータを売るのが素敵なことだといまだに思い込んでいる。

シリコンヴァレーのほとんどのベビーブーマー世代が、自分はヒッピーだったとか活動家だったとかあるいは麻薬常用者だったとか言いたがるのだが、ジョブズとウォズニアックについては「本物」だった。ウォズニアックの父親は--アメリカの最良の伝統で活躍する1人の物作りの担い手を育てることになったわけだが--ロッキードの技師だった。スティーヴ・ウォズニアックはクパーチのホームステッド高校在学中から(そう、ホームステッド〔自営農場〕である)すでに電子器機の天才だった。ウォズニアックの専門技術はともかくとしても、アマチュア無線熱の1960年代版はコンピュータだった。ウォズニアックとビル・フェルナンデスは、ロスアルトスのクリスト・ドライブ2066番地のフェルナンデスのガレージで(他にどこがあろうか?)スペアのパーツを使って、彼らのコンピュータをはじめて組み立てた。彼らがいつも飲んでいた飲み物から(少なくともガレージのなかで)「クリームソーダコンピュータ」と名づけた。すぐにフェルナンデスはウォズニアックをスティーヴ・ジョブズと引き合わせている。ジョブズもホームステッド高校の卒業生だった。12歳のときに家にいるビル・ヒューレットに電話して、アルバイトの相談をしたかと思えばその職を得て教師たちを驚かせたという過去があった。1971年、大学寮の部屋で2人のスティーヴは「ブルーボックス」を150ドルで売り始めた。装置の電子音はベル社のものを模倣していたので、世界中どこにでもかけられた。リンズメイヤーによれば、ウォズニアックは装置を使ってヘンリー・キッシンジャーの誂りでヴァチカンにかけて、ヘンリーがパウロ6世と話したがっていると言ったこともあった。ウォズニアックは、電話の相手から丁寧にパウロ6世は寝ているがすぐに折り返し電話すると言われた。当時の写真に写る彼らは、長髪に髭にジーンズという出で立ちで、それは完全に60年代、70年代の盛装であった。ジャック・パーソンズと同様に、ジョブズとウォズニアックは、創造性というのはしばしば反抗のなかで生じるし、あるいは反抗行為そのものであると主張した。
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スタンフォードという名のフレキシブルな連結

『アメリカ西漸史』より シリコンヴァレー--太平洋の端にある新世界

スタンフォード大学は、東部のアイヴィ・リーグ大学とは根本的に異質の大学を志向した。フレッド・ターマンは1930年代に芽吹きつつあった大学、政府、企業の連鎖の中心にいた。その頃スタンフォード大学は連邦政府の助成を受けることにした数少ない私立大学だった。レベッカ・ローエンが言うところの「あらゆる政治権力から自由」でいることで、学者も科学者も真実を探求できる唯一の「真の天国」になるが、それが私立大学である、との論理から、ハーヴァード大学、プリンストン大学、イェール大学などは、自らの大学の在り方を定義していた。公立大学というのは納税者や州議会に隷属しなくてはならないし、政府のカネをいったん貰ってしまえば私立大学とて、同じ穴の格になる。プリンストン大学の学長だったハロルド・ドッズは、政府の補助金は私立大学を不可避に汚染すると確信していた。「どのような外部的なコントロールの力にも、決して恐れを感じて(我々の自由を)売り渡してはならないのだと明確にしておこう」とドッズは述べた。スタンフォードの大学の多くはこの考えに賛同していた。しかし、ターマンは意に介さずにほどなくして、オープンで政府とビジネス界と教授陣のためのスピンオフ企業の連携を恥じらいもなく実現するスタンフォード大学流のモデルを確立した。1937年、ターマンは理事会を説き伏せて、スタンフォード大学が大学の研究で獲得した特許を所有すること、物理学研究室をヴァリアン兄弟に解放し、スプレー・ジャイロスコープ社から入るヴァリアンが製造していたクライストロンの特許権使用料を積み立てることなどの許可を得た。

その数年後もスタンフォード大学の財政は依然として不安定だった。理事長のロナルド・トレシダーはターマンを彼の父のルイスと共に、何人かの教授と富裕な卒業生も含めて、ヨセミテヴァレーのアワニー・ホテルに招いて週末を過ごして、そこで大学の財政力強化の新たな方法を相談した。ターマンは大学を政治やビジネス界の顧客にする路線の急先鋒で、スタンフォードは工場のようになるべきで、「原材料と思考プロセス」により学位を生産するが、この学位は「一般消費者に購入されて金銭が支払われる」という製品でもあると主張した。ターマンは学長に大学の行政的な権力を集約して、学部長を信頼すれば、学部や構成員の教授陣の(以前は大きかった)権限を縮小できるので、研究所や新分野や学部から独立した形でのリサーチの受け皿を立ち上げやすくなり、政府と企業(とりわけベイエリアの)への「サービス」機関に脱皮することができると進言した。

こうしてアイヴィ・リーグの学長たちといくつかのスタンフォードの著名な教授陣が恐れていたことが実現してしまった。スタンフォード大学の学者はすべての分野の科学において、あげくは心理学から哲学に至るまで機密扱いの委託研究に手を染めるようになり、ターマンらは最初から連邦政府と私企業に、研究のアジェンダをあらゆる分野で次々に決定させることを許した。1944年、理事長のトレシダーは次のように述べた--「航空機会社の特定の利益になる研究委託を請け負うことを約束してあげるだけで」、スタンフォード大学の技師は「航空機産業からの財政的支援を受けることを期待できるのです」(1947年、トレシダーはより明け透けに明言した)「財布の紐を握っている手が君主なのだ」。スタンフォード大学は戦争中に繁栄したが、戦争直後もアメリカ政府がスタンフォード研究所に拠出した。スティーヴン・ベクテルとヘンリー・J・カイザーの支援で、スタンフォード大学はアメリカ有数の規模のコーポレート=ガバメント・シンクタンクに変貌した。防衛予算は研究所予算の半分以上を占め、レーザーレーダー、弾道ミサイル防衛、ヴェトコン殲滅のメソッド開発などで国防総省を手伝った(ベクテルグループはこの過程に常に密接に絡んだ)。

カリフォルニアの防衛産業の常であるが、石にこの軌道を刻んだのは朝鮮戦争だった。1951年、スタンフォード産業パークがオープンしたが、これは大学と研究と政府委託と産業をシンクロナイズさせる、自称、未来のモデルだった。大学のキャンパスのように設計され、1958年のブリュッセルの万博の展示品にもなった。スタンフォード大学はレベッカ・ローエンに言わせれば「新たなアカデミックな型」の実現を祝福したのだ。「スタンフォードの教授は、研究中心の仕事で、大学外の世界と強力につながり、研究者としてのキャリアと大学の財政と評判がかかった財源を追い求める企業家である」。大学の新しい方針に反発しがちな教員はテニュアを認められにくくなり、機密委託が増えるにつれてスタンフォード大学の研究室の外に武装した護衛が現れるようになった。しかし、先見の明があったのはハーヴァード大学でもプリンストン大学でもなく、スタンフォード大学だった。1950年代末には連邦政府の資金が、ほぼすべてのアメリカの主要な大学の研究予算の6割以上を支えるようになっていたからだ。
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