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サファイアにおけるThinkとActの意味

サファイアにおけるThinkとActの意味

 ThinkとActは何なのか? GlobalとLocalは数学的に分かるけど。内側向きと外側向き。ポータルで、内側と外側との差なんでしょう。未唯空間で内なる世界と外なる世界が出てきました。

 グローバルがActする対象はローカルのThinkになるでしょう。循環の時のエネルギーを外向きのベクトルと内向きのベクトルとの対比で行うのがサファイアなんでしょう。こんな数学は見たことがないけど。どちらかというと、分子生物学に近い形になります。方向はお互いに拾うカタチになります。

 では、4つの機能にもそういう意味があるのか。そこには、エネルギーがあるけど、矢印がない。お互いが発散して、お互いが吸収して、それを同時に受けるというカタチです。本当に新しいということです。そう意味ではLANみたいなものです。発信するところと受けるのをルーターで勝手にやっていくという接続方法です。

 これはトポロジーのなかの関数として見ることができない。相手側を特定していないから、全体が同時に動く形になります。そして、一個一個の単位と全体の単位が一緒になります。

 そういう意味では、マーケティングとよく似ています。売る人は外向きで、買う人は内向きです。それが偶然に機会につながる。そうなると、人間の体の中の静脈系が想起されます。外から排出したものを心臓という吸収する機能がある故に持って行く。そういう機能があったから持って行くという機能です。

 そうでない限り、N対1というようなものは方程式が複雑になって、成り立たない。これなら、方程式は要りません。そういう風に考えると、近傍系の連結も近傍系同士が連結するのではなく、グローバルの場でもって、自然につなげていくと解釈できる。

 今のような連続関数という定義ではなくなっていきます。もっと、場の方程式の方が合っています。だから、ホメロジーなどが出てきたのでしょう。位相とか連続関数とかでは固い。もっと柔らかな接続が考えられます。

位相空間に全体はあるのか

 位相空間で全体というものは先には存在しない。部分の集まりを全体と見なしていた。そのために、基本形としての関数があった。ウットゲンシュタインではないけど、分かったもので作り上げたものが全てであり、それ以外はないという世界だった気がする。最初から全体があるというのは違和感です。

 今、EUとかロシアとかの超国家があるような感じになっているけど、本来は偶々集まっているだけです。そんなものあない。ただ、事務局が必要です。そういう空間が成り立つかどうか。それをどういう方程式で表せばいいのか。

 位相空間の方程式は、座標系があるだけで、それぞれの空間が座標系をマッピングして、逆位相を掛けて、空間をつなげていくというのが定義です。そこでの集まりと他の集まりとの関係は、集合を一つの点として、つなげていくという単純化、そして、変化を表わすものとして、周縁から固めて核を作っていくものが複雑性です。

 サファイアでは仮想的な全体を作っていきます。本社と店舗などを枠組みと見なします。EUも同様だけど、そこにはそれなりの機能があるということでしょう。それ単独を目指すのか、それともそれらを合わせたものを全体とするかは使い分けです。

 だから、販売店といった時でも本社だけなのか、店舗を含むのか、レンタ・リースを含むのかで、集合体は異なります。だけど、呼び方は同じです。関係づけだけが成り立ちます。歴然としてあるのは、それぞれの機能だけです。店舗は店舗の機能、本社は本社の機能です。その内側と外側向けの力。

情報共有という力

 個人の分化、組織の分化を同様だが、点が集合になることです。組織の場合は、集合の集合になるけど、それが点になっていく。情報共有というのは、外側に向ける力。内側に向ける力はまた別です。ペアとなるところで場ができます。

基本空間の扱い

 まだまだ、基本空間をどうするのか決まらないですね。トポロジーの場合はターゲット空間から基本空間に投射しあって、あとは逆位相でもって、それぞれの空間に反映させます。逆位相というのはプルなんです。

 組合せで位相化して、距離もそこでいれます。だけど、流れているものとなるとそうはいきません。

数学編のあらすじ

 存在と無から始まって、存在の力と全体、そして考えることと未唯空間。全てを知ることがそれらの中に一連で入ります。

 社会のところから始めて、数学的なカタチで、ローカルとグローバルが出てきて、分化と統合を経て、社会の位相化です。これらを数学編で理論化すると同時に、自分編で全体をまとめていきます。
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ショーペンハウアー 世界、意志、性--われわれは自殺すべきなのか?

『哲学は何を問うてきたか』コワコフスキより

ショーペンハウアーにとって「意志としての世界」は比喩的な表現でもなければ大げさな言葉のほとばしりでもない。彼は世界が実際に意志であると信じてもらおうとしていたのだ。しかし、それは神の意志でも人間の意志でもない。誰の意志でも何の意志でもないのだ。あるいは、意図、指向性、目的、計画をもつ何かでもない。すべてのものが依存するがそれ自体は何にも誰にも依存しない全能の力で、何も関知せず目的も人格もなく、単に存在するだけである。ショーペンハウアーにとって--自己意識の働きを通じて発見できる--この真理は完全に明白で、彼以前に誰も考えついていないとすればとても奇妙なことであった。

ショーペンハウアーは、カントによる現象界と不可知の物自体との区別を採用した上で改変も加えた。ショーペンハウアーの哲学には、神と不死の霊魂と自由意志に関する真理を発見できるようにする独自のア・プリオリな規則をもつ、実践理性に対応するものはない。神も霊魂も自由意志も存在せず、世界に存在するものはすべて、つまり生命も人間の行動も、緩和しがたい必然性によって支配されている。カントの教説に相応して、現象界の創造には人間主体も参画しており、時間と空間と因果性は人間精神が創り出したものだとされる。しかし、物自体、つまり真の現実、われわれの精神と独立に存在する世界は意志--不可知で目的も人格ももたない意志--である。ここに、形而上学における真の恐怖がある。われわれはこの意志を制御することができず、意志については何も知ることができないが、それが意志であり意志以外の何ものでもないと信じなければならない。道徳に関するカテゴリーも数学に関するカテゴリーも意志には適用できない。意志は悪でも善でもなく、数も他の人間精神の産物も意志には含まれていないのだ。また、意志は生物と無生物の両方からなる自然のうちに自ら顕れ出る。しかし、われわれは意志の働きを感知するので、われわれには意志を認識することのできる感覚がある。われわれは、意識の内なる経験を通じて直接意志を認識することができる。そのような経験においては、認識の対象と認識する主体は同一だからである。

われわれが経験する最も重要な意志は生存する意志、生命への意志である。何が何でも生存しようとする意志は世界のあらゆる要素に現れ、要素それぞれの意志は他のどの意志とも必ず衝突することになる。こうして、意志それぞれが世界にある他のものを犠牲にして生存するために闘うので、現象の世界全体が常に万人の万人に対する終わりなき闘争に陥る。この闘争は、宇宙全体と同様に、何の意味も明らかにせず、そもそも何の意味もない。起こることはすべて、人格も目的も持たない力である意志の働きによって引き起こされたもので、世界に意味などはなく、見いだしたと思われる意味は幻想だ。個人はミクロコスモスにおいて宇宙に対応する像であり、個人の生は世界の生が無意味なのとまさに同じように無意味なのである。

このことはすべて、ショーペンハウアーによれば、経験を通じて認識される。(ショーペンハウアーが特に嫌悪していたヘーゲルをまさに含む)非常に多くの哲学者によって提起されてきた、ア・プリオリな知識に対する形而上学的な主張はナンセンスなのだ。

それにもかかわらず、真理に近づく道があると主張できるのか。確実にショーペンハウアーは自分がそう主張していると考えている。物自体としての意志とその現象界との関係に関する、そしてわれわれの精神が構成する物事というカントの考え方に関する、ほぼ形而上学に近いショーペンハウアーの異常な声明は、驚くほど自信に満ちて打ち出されている。奇妙なことに彼以前には誰も気づかなかった、世界に関する論駁できない壮大な真理を発見したと信じているかのようなのだ。しかし同時に、われわれの知性は完全にわれわれの意志に従属しており意志を制御することはできないとも主張している。また、自分自身をきちんと見るために手を出す駆け引きや策略を独断で非難し、真の動機と感情について認識していることを自分自身にさえ隠すために誰もが屈服する悪名高い自己欺瞞を明らかにしたと称する(フロイトによれば、ショーペンハウアーはこの点で精神分析の先駆けになっている)。結局、われわれは真理を知ることができないのかもしれない--もちろんショーペンハウアー自身を除いて。われわれの意識は水面の泡にすぎず、われわれを実際に支配している暗黒の力についてわれわれは何も知らないのだ。

このすべてからできあがる世界像は本当に悲惨で悪意に満ちたものだ。人生は苦痛と不運以外の何ものでもない。それにもかかわらず、ショーペンハウアーは解決法として自殺を擁護したりはしない。しかし、彼が自殺を擁護しない理由は、想像しうるどんな理由でもなく、自殺は彼の見解によれば標的を間違えており問題を解決しないというものだ。自殺と言われるものは生命への意志を抹殺したいと望むものだが、自殺を実行しても殺されるのは生命だけで、生命への意志は破壊されない。このように、自殺は目的を達成できないのだ。そうではなくて、われわれは意志が妨げられることなく働くように望むべきなのである。以上の議論から誰が意味を見いだすのか。それは理解力を越えている。
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ヘーゲル 歴史と絶対者--善悪なき進歩?

『哲学は何を問うてきたか』コワコフスキより

歴史と絶対者--善悪なき進歩?

表現は違っても、これはヘーゲルが取り組んだ問題でもある。ヘーゲルの目論見は絶対精神の歴史がもつ意味を完全に発見することだ。絶対精神は自身の究極的な完成に向かう進歩の過程で欠かせない道具として人間文化の歴史を用いる。こうして、存在が進化していく発端である(このことはヘーゲルにとって議論する必要がないほど紛れもなく明らかな真理)と同時に存在の進化がいたる目的でもある絶対精神の歴史が、完全な統一性を達成する過程を構成する要素に人類の歴史がなる。このような統一性を達成するために、絶対精神は自身と自身による認識の対象との間にある壁を壊さなければならず、認識の対象を完全に同化することによって両者を隔てている距離を解消しなければならない。なぜなら、認識の対象が絶対精神にとってよそ者だとしたら、それは偶然的なものということになり、ゆえに絶対精神を制約することになるからだ。絶対精神はすべてのものを包括しなければならない。つまり、すべてでなければならないのだ。これもキリスト教神学から受け継いだ問題である。神は神自身のうちに神自身を通じてすべてを把握しており、神から切り離されたものが神の外部にあるとしたら無限であるべき神を制約することになるのだ。歴史の苦行を通じて、絶対精神が存在の偶然性を廃して(しかし存在の多様性を破壊することなく)存在を完全なまま吸収し存在と同一化する時のみ、必ず完成に向かうように予め定められた進歩の過程が究極目的を果たして終わる。この進歩は、カントの哲学における進歩とは異なり、無限に続くことはありえない。もし永遠に続くなら、覆われるべく残された地面はずっと同じ状態のまま--つまり無限に長い--ということになり、実際には進歩が全く起こっていないことになるからだ。ゆえに、絶対精神の進化は終わりがなければならないのだ。

この進化は、到達した一つ前の段階を常に否定し続けることを通じて起こる。否定が継続することでそれぞれ前の段階が廃され、遅かれ早かれ新たに到達した形態も破壊される。しかし、前の段階は破壊されても完全に消滅するわけではない。次の段階でも前の段階における豊かさは保持されるからだ。

われわれがこの過程を理解できるのは、理性を持っているからだ。理性は存在の進化を認識するだけでなく、それ自身が存在の進化を構成する要素でもある。そうだとすれば、理性自体が絶対精神の道具として変化しうる相対的なものだということに当然なる。言い換えれば、世界や世界内部の物事に対するわれわれの認識は、常に世界を構成する部分であり、世界と独立に存在するものではない。このことがもたらす帰結として考えられることは、存在が完全な究極形態を獲得するまでは、真理を普通の意味では全く主張できないということである。せいぜい、歴史に応じた正統性を主張できるだけなのだ。これは、認識に対する態度の変化を示している。念頭におかれていることは--少なくとも、存在が完全に偶然性から解放され、意識がその対象と統一され、絶対精神の無限性が完全に実現するまで--われわれの思考それ自身が外部の観察者や立法者ではなくわれわれの思考が対象とするものを構成する要素であるという事実に、われわれが気づくということだ。

このように、永遠に妥当すると想定される理性の抽象的な法則を通じて理性を定義することはできない。しかし、世界が、進化の過程でもっと高度な状態に進歩していくことに伴って、ますます合理的になっていくということは確信できる。世界の宿命は、理性に満ち溢れていくことで実現していくのだ。ヘーゲルの最も有名で最も頻繁に言及される金言は、現実的なものは合理的であり合理的なものは現実的であるというものだ。この物議をかもす見解は、通常の基準で判断してどんなに受け入れがたくても、最も恐ろしい形態でさえもまさにそれが存在しているゆえに是認すべきだという根拠に基づき、実際に存在している社会制度や政治制度すべてには合理性があると認めなければならないという憂鬱になる指示だと解釈されてもきた。これは、全面的な無気力を求めるものになりうるのだろう。しかし、このような解釈は正確とは言えないのだろう。なぜなら、まず確認しなければならないとヘーゲルがまさに述べていることが、進化の各段階で観察されると考えられるものはその没落が差し迫っているから存在していることであり、実在しているように見えているだけで実際には必ず進歩をもたらす避けがたい力によっていつでも追い払われてしまうことであるからだ。しかし、ヘーゲルは、このことをどのように確認すればよいのかを教えてくれたりはしない。存在するすべての段階が必ず消滅することはわかるが、見えているものがなお歴史的に十分な存在根拠をもつものなのか、すでに時代遅れになったもう食べてしまった御馳走の記憶なのか、確定する手段はない。特に、抽象的な道徳原理に基づいて、言い換えれば、現実化していないが望ましいとわれわれが考えること、つまり理想的な世界についての考えを持ち出すことによって、このことについて断言することはできない。ヘーゲルはこのような道徳主義的な世界の見方を無意味なユートピア建設だとして拒絶する。出来事の継起は不可避でわれわれには変える力がなく、試みる意味もないのだ。ゆえに、最終的には、単に存在しているという理由で存在しているものを是認する行為が、最善で唯一合理的な道筋なのだ。
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