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分蜂群の知恵

『ミツバチの会議』より

メンバーの知識と知能を効果的にまとめあげ、適切な集団的選択が行なわれるような意思決定グループをどのように組み立てるかという点で、私たち人類がミツバチから学ぶことができるものは何かを考えてみよう。これは重要な問題だ。人間社会は、重大な決定を下すことにかけては個人よりも集団のほうが頼りになると信じているからだ。だから陪審団が、評議員会が、有識者会議があり、合衆国最高裁判所には裁判官が九人いるのだ。しかし誰もが知っているように、集団はいつも賢い判断をするとは限らない。集団がうまく組織されておらず、したがってメンバー同士の面と向かった討論が、幅広い情報と熟慮にもとづく集団的推論に至らなければ、その集団は意思決定機関として機能不全に陥りやすい。そうなると、その集団が下した判断は、関係する社会に大失敗を引き起こしかねない。幸い、家探しをするミツバチが、優れた集団意思決定をするにはどうすればいいかという難問への見事な解答を、私たちに示してくれる。この解決策は何百万年にもおよぶ(漸新世の化石から、少なくとも三〇〇〇万年前にはミツバチは存在していたことがわかっている)自然選択によって磨かれており、集合知を実現するための方法として長い時間をかけて実証済みであることは確かだ。

もちろん、昆虫に経営指南を求めるといっても限度があり、そのやり方をやみくもに真似ればいいというものではない。それでもミツバチは、効果的な集団意思決定の原則をいくつか示しており、それらを実行すればヒト集団による意思決定の信頼性を引き上げられると、私は主張したい。この主張の後半は単なる仮説ではない。なぜなら私はすでに、ミツバチから学んだことをヒトに、特にコーネル大学の同僚たちに応用しているからだ。二〇〇五年、ハチの意思決定プロセスの形態がちょうどはっきりしはしめたころ、私は神経生物学・行動学科の学科長に就任した。なかば楽しみのために、なかば実験として、私は探索バチが巣を選ぶときのやり方を、同僚の教授たちと月に一度行なう教授会の議論の進め方に一部取り入れることにした。分蜂バチとは違い、私たちは生死に関わる決定を迫られているわけではないが、難しい決定をしなければならないのは確かだ。すなわち採用、昇進、その他、整然と組織された私たちの学界に長期的影響を及ぼす事項についての選択だ。同僚が自分たちの集団意思決定を本当のところどう考えているかは、知らぬが花かもしれないが、たとえ物事が各自の思い通りに必ずしも行かなかったにしても、これまでに下した難しい決定に彼らが満足していると、私は思っている。そして、見たところ彼らが満足しているのは、私たちの決定が開かれた公平な議論に基づいていることの表われだと思いたい。いずれにしても、私がミツバチから学んだ「効率的な集団の五つの習慣」を、どのように大学での業務に取り入れようとしたか、これから説明しよう。

ハチから学んだことが人間にも当てはめられるという私の立場をさらに裏付けるために、ミツバチ分蜂群とニューイングランドのタウンミーティングに、優れた決定を生み出すように組織されたという点で、興味深い類似が見られることを検討したい。なぜニューイングランドのタウンミーティングを比較対象にするのかと言えば、この独特の形式を持つ小さな町の地方自治は、三世紀以上にわたって存在し、人類の民主主義の世界一信頼できる形態と言えるからだ。これが分蜂バチとあまり違わない集団意思決定プロセスを用いているのだ。年に一度のタウンミーティングの日--昔から三月の第一月曜日の翌火曜日--に町民は、開かれた、互いの顔の見える集会に参加し、町の住民全員の行動を支配する拘束力を持った集団的決定(法律)を提出する。タウンミーティングはミツバチ分蜂群がそうであるように、和気蕩々とした雰囲気と個人の活力とが入り交じった、興味深いものだ。民主主義の形態として実証されたこれら二つの内部構造に、興味の尽きない類似があることがわかるだろう。分蜂群でうまくいくものがタウンミーティングでもうまくいくことは、単なる偶然とは私には思えない。
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分蜂群の知恵

『ミツバチの会議』より

メンバーの知識と知能を効果的にまとめあげ、適切な集団的選択が行なわれるような意思決定グループをどのように組み立てるかという点で、私たち人類がミツバチから学ぶことができるものは何かを考えてみよう。これは重要な問題だ。人間社会は、重大な決定を下すことにかけては個人よりも集団のほうが頼りになると信じているからだ。だから陪審団が、評議員会が、有識者会議があり、合衆国最高裁判所には裁判官が九人いるのだ。しかし誰もが知っているように、集団はいつも賢い判断をするとは限らない。集団がうまく組織されておらず、したがってメンバー同士の面と向かった討論が、幅広い情報と熟慮にもとづく集団的推論に至らなければ、その集団は意思決定機関として機能不全に陥りやすい。そうなると、その集団が下した判断は、関係する社会に大失敗を引き起こしかねない。幸い、家探しをするミツバチが、優れた集団意思決定をするにはどうすればいいかという難問への見事な解答を、私たちに示してくれる。この解決策は何百万年にもおよぶ(漸新世の化石から、少なくとも三〇〇〇万年前にはミツバチは存在していたことがわかっている)自然選択によって磨かれており、集合知を実現するための方法として長い時間をかけて実証済みであることは確かだ。

もちろん、昆虫に経営指南を求めるといっても限度があり、そのやり方をやみくもに真似ればいいというものではない。それでもミツバチは、効果的な集団意思決定の原則をいくつか示しており、それらを実行すればヒト集団による意思決定の信頼性を引き上げられると、私は主張したい。この主張の後半は単なる仮説ではない。なぜなら私はすでに、ミツバチから学んだことをヒトに、特にコーネル大学の同僚たちに応用しているからだ。二〇〇五年、ハチの意思決定プロセスの形態がちょうどはっきりしはしめたころ、私は神経生物学・行動学科の学科長に就任した。なかば楽しみのために、なかば実験として、私は探索バチが巣を選ぶときのやり方を、同僚の教授たちと月に一度行なう教授会の議論の進め方に一部取り入れることにした。分蜂バチとは違い、私たちは生死に関わる決定を迫られているわけではないが、難しい決定をしなければならないのは確かだ。すなわち採用、昇進、その他、整然と組織された私たちの学界に長期的影響を及ぼす事項についての選択だ。同僚が自分たちの集団意思決定を本当のところどう考えているかは、知らぬが花かもしれないが、たとえ物事が各自の思い通りに必ずしも行かなかったにしても、これまでに下した難しい決定に彼らが満足していると、私は思っている。そして、見たところ彼らが満足しているのは、私たちの決定が開かれた公平な議論に基づいていることの表われだと思いたい。いずれにしても、私がミツバチから学んだ「効率的な集団の五つの習慣」を、どのように大学での業務に取り入れようとしたか、これから説明しよう。

ハチから学んだことが人間にも当てはめられるという私の立場をさらに裏付けるために、ミツバチ分蜂群とニューイングランドのタウンミーティングに、優れた決定を生み出すように組織されたという点で、興味深い類似が見られることを検討したい。なぜニューイングランドのタウンミーティングを比較対象にするのかと言えば、この独特の形式を持つ小さな町の地方自治は、三世紀以上にわたって存在し、人類の民主主義の世界一信頼できる形態と言えるからだ。これが分蜂バチとあまり違わない集団意思決定プロセスを用いているのだ。年に一度のタウンミーティングの日--昔から三月の第一月曜日の翌火曜日--に町民は、開かれた、互いの顔の見える集会に参加し、町の住民全員の行動を支配する拘束力を持った集団的決定(法律)を提出する。タウンミーティングはミツバチ分蜂群がそうであるように、和気蕩々とした雰囲気と個人の活力とが入り交じった、興味深いものだ。民主主義の形態として実証されたこれら二つの内部構造に、興味の尽きない類似があることがわかるだろう。分蜂群でうまくいくものがタウンミーティングでもうまくいくことは、単なる偶然とは私には思えない。
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電子書籍は紙の本を殺すのか

『読書脳』より 「読書の未来」石田英敬(東京大学附属図書館副館長)×立花隆

立花 ところで、電子書籍は日本でも普及しつつありますが、欧米ではかなり先行していますよね。一般読者ではなくて、本のディープな読み手、いわゆる読書人といわれる人たちの間でも電子書籍は受け入れられているんでしょうか。

石田 何カ月か前に、フランス人の古くからの友人に会ったらキンドル派になっていたんでビックリしました。とても保守的で、電子書籍に手を出すような人間には思えなかったからです。欧米の読書人の間で、電子書籍が急速に読者を獲得しているのはたしかでしょう。新書のような軽い読み物まではすべて電子書籍化してくれれば私個人としては有難いと思っています。新書やエンターテイメント系の小説、ある程度読み飛ばせる本は電子書籍で、長くて本格的なものは紙の本で、という具合にいずれみんな読み分けるようになるんじやないでしょうか。

立花 サイエンス系の教科書は分厚くて重いから、電子書籍で済めば、ぼくとしては有難い(笑)。しかも電子書籍だと、改版されたとき、簡単に中身を差し替えることも可能です。これまでぼくはけっこう重量級の教科書を新たな版が出るたびに買っていたんですが、やっぱりカサばる。ただ大きな図版は、いま出回っているビューアーの画面サイズだと全体像を一度に表示できない難点があります。ビューアー自体、もう少し大きくする必要があるでしょうね。ただ、それも時間の問題で、もっと利用しやすい形態で、もっと高精細のビューアーがどんどん出てくるだろうと思います。

紙の本から電子書籍への移行も劇的変化ですが、過去をふり返れば、スクロール(巻物)からコデックス(冊子本、綴じ本)への移行も書物史の中では革命的な出来事でした。『読むことの歴史』(ロジェ・シャルティエ、グリエルモーカヴァッロ著 大修館書店刊)を読むと、その辺の事情がよくわかります。たとえばコデックスになってはじめて本にタイトルを付けるようになったとか。写本から活版印刷への移行も本の形式に大変化をもたらした。本に目次や索引を付けるのが二般的になったのも活版印刷が登場した後です。

石田 いまアップルのiPadなど、スレート(石版)型のデバイスが出てきていて、それはそれで便利ですが、コデックスの備えている機能はなかなか捨てがたい。むしろスレート型デバイスの登場で、コデックス型の利点があらためて認識できるようにもなりました。

立花 ヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』という十五世紀パリを舞台にした小説に、「コレがアレを殺す」という有名な章がありますよね。そこにノートルダム大聖堂の司教補佐クロード・フロロが、印刷されたばかりのグーテンペルクの印刷本と寺院の大伽藍を比較して、「コレがアレを殺すだろう。書物が建物を」とつぶやく場面が出てきます。グーテンペルクの活版印刷が登場したからといって、それで建物が消えることはありませんでしたが、大聖堂に象徴されるキリスト教が絶大な権力を振るっていた中世は終った。写本に代る印刷本という新しいメディアの登場が文明の交代を促したわけです。いま、これまでの印刷本に代る電子書籍が登場して普及しつつあるわけですが、十五世紀と同じように、「コレがアレを殺す」ことはありえるんでしょうか。

石田 iPadのような電子的なスレートが、己アックスを殺すのか、ということですね。いま立花さんがおっしやったように、実際にグーテンベルクの印刷本がノートルダム大聖堂を殺すことはありませんでした。メディア史研究でも一般に、古いメディアを新しいメディアが完全に乗っ取ってしまうとは考えられていません。広く受け入れられているのは、成層論、つまり、新しく登場するメディアが古いメディアを完全に消し去るわけではなく、層が堆積していくように、各メディアの関係が変っていくという説です。これまで新しいメディアが登場するたびに「コレがアレを殺す」という議論がくり返されてきましたが、スレートとコデックスの関係だけでなく、テレビ、ラジオ、映画などマルチメディアとの関係についても考えなければならないと思うんですね。マーシヤル・マクルーハンは、活版印刷技術が生みだした文化圏としての「グーテンベルクの銀河系」による文明がまもなく終焉を迎え、テレビに見られる視覚優位の電子メディアによる文化圏の到来を予見しました。しかし、実際にいま見られるのは、マクルー(ンが描いた未来像より複雑な状況です。たしかに電子メディアは世界を席巻していますが、活字メディアの中心的役割を果たした文字が消えてなくなったわけではなく、むしろインターネットの登場で文字が復権してきたともいえます。ただし文字は復権したけれども、紙の上の文字においてではないという点が状況を複雑にしているわけですが。

立花 たしかにメール、メッセンジャー、ブログ、ソーシャルネットワーキングサービスなど、ウェブ上のいたるところに文字が躍っている。インターネットの登場で、人類がやりとりする文字量は爆発的に増えたことは間違いありません。

石田 特に、何かにコメントを付けるというのが、インターネットでの発信活動の柱の一つですよね。記事、動画、写真、音楽などに対して多数の閲覧者がコメントを付ける。それによってウェブは成り立っています。動画共有サービスのニコニコ動画なら再生中の動画そのものにコメントを表示させることもできる。しかし、現状では、コメントのつけ方に秩序が確立していません。私はそれがインターネット上で起る問題の背景にあると考えています。

立花 ウェブ上で、あるメッセージなり、コンテンツなりにコメントを付け加えるとはどういう行為なのか。それは紙の本で言えば、注釈とか脚注を付ける行為に非常に近いと思うんです。注釈の付け方には、意見の表明、引用、参考文献の例示などいろいろある。フランスのポンピドゥー・センターのグループと共同研究で、注釈のカテゴリーの洗い出しをしているところですが、いずれはそこで得られた成果をソフトウェアの開発に活かしたいと考えています。
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甥の結婚式で名古屋へ

未唯の似顔絵

 甥の結婚式で、一家揃って、名古屋へ。人前結婚式です。要領がつかめないですね。

 色々なサービスがありました。似顔絵描きは面白かった。おかげで、未唯のイメージがハッキリした。私と似ているということです。

体調が悪い

 3時前に帰り着いたが、太ももの付け根が痛くなり、座ったり、寝ながら、OCR結果の反映作業を繰り返していた。
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