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ヒトラー演説は「絶対の宣伝」か?

『災後のメディア空間』より 「ナチスの手口に学んだらどうかね」--デマゴーグ演説の条件

そうしたヒトラー演説の神話化は私自身の読書体験でも思い当たる。ヒトラー演説は政治家かお手本とするほどすごい、中学生の私がそうした印象を抱いたのは、『週刊少年ジャンプ』連載(一九七一一九七五年)の本宮ひろ志「大ぼら一代」を読んだときである。主人公のライバルが政界進出を前にナチ映画でヒトラーの演説技法を学び、コンサルタントから指導を受けるシーンがリアルに描かれていた。

不思議なことだが、この一九七五年前後の日本ではナチズム、特に「ナチ宣伝」のテクニカルな応用に関する大衆書が多く出版されていた。長沼博明『ヒットラー統率力の秘密--シンボルは高く掲げよ』(評言社、一九七五年)、平岡正明『ヒトラー学入門--革命を志す諸君へ』(ゼロ・ブックス、一九七五年)、やや遅れて草森紳一『絶対の宣伝--ナチス・プロパガンダ』全四巻(番町書房、一九七八・七九年)である。「ヒトラーの演説」を含む草森の論考は一九七〇年代前半に広告業界誌『宣伝会議』に連載されていたものである。第三巻『煽動の方法』は当時翻訳されていたヒトラー伝やナチ党幹部の回想録、『世紀の獅子吼--ヒットラー総統演説集』(遠藤慎吾訳、羽田書店、一九四〇年)などを使って読み応えのある作品にまとめられている。「最後の文人」と呼ばれた草森は、プロパガンダヘの関心を持ち続け、『広告批評』に長期連載した中国編も『中国文化大革命の大宣伝』上・下(芸術新聞社、二〇〇九年)として没後に刊行されている。

草森がまず強調するのは、ヒトラー演説は「大衆」にこそ影響力があったか、〝認識の病い〟を抱える「知識人」には十分な威力を発揮しなかったという事実である。例えば、本書読者の場合かそうかもしれないが、知的な読書とは自分の先入観が揺さぶられる体験である。そこから生まれる懐疑の精神は、自己内対話、やがて他者との討議へと思考を開いてゆく。しかし、独裁者の演説に心酔する聴衆にとって、懐疑の精神など不要である。自分が考えていること、言葉にできない思いを気の利いた言葉で表現してくれる語り手だけを求めている。ヒトラーの演説論が知識人批判と表裏一体なのはそのためである。前出『ヒトラー選挙戦略』で使われた引用文に続いて、ヒトラーは知識人の演説をこう批判している。

「偉大な運動はすべて大衆運動であり、人間的情熱と精神的感受性の火山の爆発であり、困窮の残忍な女神によってかきたてられたか、大衆のもとに投げこまれたことぼの放火用矩火によって煽動されたかであり、美を論ずる文士やサロンの英雄のレモン水のような心情吐露によってではないのである。民族の運命はただ熱い情熱の流れだけが、転換させることができる。そして情熱はただ情熱をみずからの中にもっているものだけがめざめさせることかできるのである。……しかし情念がほとばしらず、口が閉じられているものを、天は自己の意志の告知者に選んだことはない」

知識人はヒトラーの演説を空疎な内容、安っぽい表現、飛躍する論理から批判したか、この反知性主義のコミュニケーション理論の前では無力だった。もちろん、反転した知性主義ゆえにヒトラー演説に心惹かれた知識人も存在した。文学博士号を持ち、若くして小説『ミヒャエル』(池田浩士編訳『ドイツ・ナチズム文学集成(1)ドイツの運命』柏書房、二〇〇一年所収)を執筆した、第三帝国の国民啓蒙宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスもその一人である。文章や論理に対する徹底したニヒリストにとって、ヒトラーの肉声こそ自己懐疑から解放してくれる「神の声」だった。もちろん、ゲッペルスは知識人であるがゆえに神の存在も、ヒトラーの言葉も信じてなどいない。自分にとってヒトラーが神の機能を果たす可能性に賭けたのである。ゲッペルスのヒトラー評をクルト・リース『ゲッペルス』(西城信訳、図書出版社、一九七一年)から引用しておこう。

「この男は危険だ。彼は自分の言うことを信じ切っている。……彼の力の秘密は運動に対して狂熱的な信念のあることだ。そしてそれゆえ、ドイツをも狂信していることにある」

ゲッペルスの演説も上手いが、皮肉の毒をたたえた語り口はいかにも「博士調」である。ここに知識人の演説の弱点がある。知的に語ろうとすれば、その内容に一〇○%の自信などありえるはずはない。だからこそ対話が可能であり、妥協の余地か存在する。ヒトラーの演説からはこうした対話の契機は生まれない。むしろ聴衆全体とヒトラーか二体化するのである。そのためヒトラーは忘我の境地に迫りえたが、知識人の多くは演説中も自分とその発話に注意をむけがちである。これではロック・コンサート会場のような熱狂を生みだすことはむずかしい。

ただし、大衆と一体化できたヒトラーが知識人ではなく大衆だったというわけではない。もう二〇年前、私はヒトラーが一九三八年ニュルンベルク党大会の文化会議でおこなった演説文を翻訳した経験かある(「『大衆の国民化』とヒトラーの美意識--一九三八年ヒトラー演説『芸術における真偽について』」『リべルス』一二号、一九九三年一二月)。知識人向けのナチ芸術論ということもあるが、論旨は明快で飛躍や破綻は感じない。もちろんスピーチ・ライターがいたはずだが、いかにもヒトラーの発言と思える内容だった。当然なから、こうした演説で「獅子吼」が演じられていたわけではない。

私たちはヒトラー演説というと、ドキュメンタリー映画で目にする(っまりナチ党が撮影した)、あるいはチャップリンの映画『独裁者』などで戯画化された「獅子吼」、つまり腕を振り上げて絶叫するシーンを思い描いてしまう。しかし、そうしたハイライト・シーンは演説の一部を切り取ったものであり、それだけで演説の効果を計るべきではない。それは運動期に特有の演説スタイルであり、第三帝国成立後は少なくなっていた。
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ナチのホロコースト計画における鉄道の役割

『世界の鉄道』より 第2次世界大戦中の鉄道の役割

絶滅収容所に送られたヨーロッパ中の何百万というユダヤ人の多くは列車の中で終末を迎えた。家畜運搬車の中に80~100人のグループで詰め込まれ、ほとんど水も食料も与えられなかった。5~10%の人々がその移動中に亡くなったのである。

ユダヤ人の輸送はアドルフ・アイヒマンが直接担当。その邪悪な行為は1937年にはすでに知られており、ライヒ・セキュリティ・メイン・オフィス(Reichssicherheitshauptamt、RSHA)でその任務にあたった。

彼の部署から、あるいは関連部門のゲシュタポ警察(ホロコーストの主実行者)から、〈帝国鉄道〉への要請が出されて輸送・科金部門に送られた。そこから、ひとたび緊急度合いと輸送費用が決まれば、文書が列車編成と運行スケジュールを実際に担当する運行部門に回された。それはつねに特別列車に類別された。〈ドイツ帝国鉄道〉はこの大量輸送に対する支払いを要求した。人々は家畜運搬車にすし詰めにされたにもかかわらず、<帝国鉄道〉は片道3等料金を適用した。1Kmあたり4pペニヒだった。

列車で強制移送された人々の総数が400人を越えた場合は「団体料金(lkmあたり2ペニヒ)が適用された。各々の列車が2000~2500人を運んでいたことを考えると、この条件をほとんどいつも満たしていた。

乗車券や請求書は移送された人々にも、また直接ドイツ国にも発行されず、「中央ヨーロッパ旅行代理店」と呼ばれる国営事務所に宛てて発行された。この代理店はその罪のない名前とは裏腹にゆユダヤ人の大量強制移送を仕切っていた。支払金はユダヤ人から徴発した金銭から集めた。この死の列車は第三帝国が崩壊すらまで走り続けた。そして、1945年の1月から5月の間にソ連と連合国の軍隊が絶滅収容所の解放を始めた。

〈ドイツ帝国鉄道〉が当時果たした役割の責任を認識していた〈ドイツ連邦鉄道(DB)〉は、1998年にベルリンのグリューネヴァレト駅の17番線に特別な記念物を設置することを決めた(歴史家は、〈ドイツ帝国鉄道〉なしではその大規模殺戮は実行不可能だっただろうと認めている)。この記念物の中核は年代順に並んた186本の金属製の板からできている。その板の各々には強制移送の日付、移送された人数、ベルリンからの出発地点と行き先が記されており、線路わきの歩道に並べてある。

長い年月の間に17番線のレールの間に植物が茂ってきたが、列車は--その番線のそのプラットフォームから--同じ行き先に決して出発することがないことを象徴的に示すものとしてそのままにされてきた。

ノルマンディー上陸作戦のあと、ドイツ軍は退却するときに、連合国側に利用されるのを防ぐためにすべての鉄道施設を細心の方法で破壊した。 TNT爆弾で橋やトンネルを爆破する他に、ドイツ軍は鉄道用の「鋤」のようなものを考え出した。これは機関車の後ろにつけて引っ張って、フックのようなもので枕木を切り裂いて線路を使えなくするというものだった。この道具はドイツ軍が最初にグスタフ線(ガエータとサングロ川河口の間)を放棄したときイタリアで使われた。それからパダーナ平原とブレンナー峠に向て退却するとき、ゴシック線でも使った。戦争中でも鉄道はもちこたえなければならないというプレッシャーについて一例を示すために、ミラノーヴェネツキア線の重要な芸術的建築物のひとつであるパラッツォーロ・スッローリオ橋に繰り返し行われた連合国軍の空爆を思い起こしてみよう。

1944年7月23日から1945年4月にかけて、その橋は32回爆撃された。1857年に建造されたその橋は長さ883ft(269m)、高さ約130ft (40m)で9つのアーチがあった。ドイツの輸送網を妨害し混乱させた、多数の一般鉄道労働者による英雄的な行為にも言及すべきだろう。とくにフランスの鉄道労働者の行動は、戦後に多くの著名な映画の題材になって有名になった。

戦後、全体状況は悲惨だった。1940年には、イタリアの鉄道網は10、000mile(16、000km)あり、そのうち3、lOOmile (5、150km)が電化されており、2、800mile (4、500km)が複線だった。これに私鉄の3、OOOmile (4、800km)、そのうち電化されたl、200mile(1、900km)を加えなければならない。保有車両は蒸気機関車が4、177両、電気機関車が1602両、貨車が13万両、客車と貨車の中間のものが約1万3、200両に上った。同じように営業許可を受けた私鉄の車両も多数あり、その内訳は蒸気機関車が600両以上、電気機関車が383両、貨車が8、000両、客車が2、000両以上だった。5年後の数字は被害の大きさを際立たせていた。4、350mile (7、000km)の線路、電化された鉄道網のほとんど全部、使われているものが3、215mileのうち3、106mile (5、144kmのうち4、970km)、電話線がほぼ50、OOOmile (80、500km)、伝達に必須のもの、駅とクロッシング・ボックスと停車場の間で4、700mile (7、520km)だった。輸送機材は十分でなかった。たった1803両の蒸気機関車とわずか546両の電気機関車がそれでも使えたが、架線が破壊されたために実際上使用不可能だった。そして約4万両の貨車と1、200両の客車。
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年休で病院へ

年休時のメールでの相談

 9時40分にメールが来ました。11時から相談とあります。相変わらず、思考パターンが読めないですね。

 12時前のメールで相談概要は理解できました。組織の問題がパートナーのところを中心に動き出します。

年休で病院へ

 太ももの付け根が痛くて、寝ても起きても座ってもいられない。いつもの病院に来ています。結果は神経痛ということでした。

 神経痛とは、老人ポイということを言ったら、奥さんとパートナーからは同じことを言われた。「歳なんだから」

 病名が決まり、薬を飲んだら、痛みが減った。いつものことです。それにしても、このモバイルスーツはガタガタですね。
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