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リンゴの庭園

『アメリカ西漸史』より シリコンヴァレー--太平洋の端にある新世界

スティーヴ・ジョブズとビル・ゲイツが開拓した製品の数々から、ほとんどの人々がデジタル革命とは1980年代に始まったものだと思っているが、それはパーソナルコンピュータ、ワープロ、ファックス、ビデオデッキ、その他の新たな消費アイテムの出現時期と重なっていたからでもあった。スティーヴ・ジョブズはイノヴェーターでありかつ企業家でもある点で、きわめて稀なシュンペーター的な存在である。カウパー・ストリートのイル・フォーナイオでモーニングコーヒーを1人すすりながらアイデアを落書きしては考え、誰も真似できない感覚を自分の会社に浸透させる。アップルが登場したとき、小さなクリーム付きウエハースサイズで、手のひらの上では超軽量なのに1000曲も入ってしまうというiPodNano、あるいはそれよりは少し大きい高性能のポケットコンピュータにしてウェブ検索が可能なiPhoneなどに匹敵するものはこの世になかった。アップルは世界中でほかにわずかしか見られない(ほとんどイタリアか日本にしかない)スタイリッシュな感覚を開拓した。それは単純には相容れないはずの形状と機能のそそられるブレンドである、こうしているうちにも世界中に広がっている、小さきものの美という感覚である。ロゴについては最初から意味を教えてほしかったが、アップルは人類の起源とカリフォルニアの永遠の隠喩へと誘う。それはすなわち庭園であり楽園であり、イヴが禁断の果実を食べるのを当たり前のこととしている--少し楽しんでみよう、と。ロゴのリンゴにかかっている色はありふれた赤、白、青ではなく、虹色である。しかし、60年代を象徴するように虹色の配置は不規則にされた。

ジョブズは瘤癩持ちにして傲慢かつ粗野で冷酷で、天敵はジョブズのことをクレイジーだと言う。晩年のジェリー・ルービンのように、ジョブズは自らの世代のパロディを何十年も通して行った。ロックンロール、インド人のグル、コミューン、20代の頃の「フルータリアン」ダイエット。そして40歳が近くなれば、株式相場表示機を確認しながら菜食と運動と大食で体型を維持する。いい中高年になってくるとアルマーニのスーツを着込み、ガルフストリームVの個人所有ジェット機に乗り、ヘリコプター発着所も持ち、禅、超巨大邸宅、全面的な警備、この世のオールラウンドな君主になる。2人組の片割れのスティーヴ・ウォズニアックのほうは、明らかにコンピュータの天才であり誠実な人間だった。しかし、ジョブズは人を突き動かし、煽動し、製品を売ることができたし、押しつけの未来ではない、ひとつの未来を描くことができた。その未来は、ほかの誰が描いた未来よりも、シックでスタイリッシュで、俗的だが使いやすい未来である。そしてそんな未来を実現するために、すべてをリスクにさらす。コンピュータの様々なプログラムをマスターした者でも、それがどうしてそう動くのかについてはまったくわからないし、教えたところで理解はできない。しかし、より重要なのは、人々は別にそれを知りたがっていなこということだ。人々は外見がかっこよく命令通りに動いてくれるものを求めていた。アップルはこれまでずっとそうした商品を提供してきたのだ。それに対して、しつこく出てきては消せないボッブアップが、毎日あるいは2日にいっぺんは、先月購入したマシーンはアップデートが必要ですと知らせをくれる--マイクロソフトはそういうコンピュータを売るのが素敵なことだといまだに思い込んでいる。

シリコンヴァレーのほとんどのベビーブーマー世代が、自分はヒッピーだったとか活動家だったとかあるいは麻薬常用者だったとか言いたがるのだが、ジョブズとウォズニアックについては「本物」だった。ウォズニアックの父親は--アメリカの最良の伝統で活躍する1人の物作りの担い手を育てることになったわけだが--ロッキードの技師だった。スティーヴ・ウォズニアックはクパーチのホームステッド高校在学中から(そう、ホームステッド〔自営農場〕である)すでに電子器機の天才だった。ウォズニアックの専門技術はともかくとしても、アマチュア無線熱の1960年代版はコンピュータだった。ウォズニアックとビル・フェルナンデスは、ロスアルトスのクリスト・ドライブ2066番地のフェルナンデスのガレージで(他にどこがあろうか?)スペアのパーツを使って、彼らのコンピュータをはじめて組み立てた。彼らがいつも飲んでいた飲み物から(少なくともガレージのなかで)「クリームソーダコンピュータ」と名づけた。すぐにフェルナンデスはウォズニアックをスティーヴ・ジョブズと引き合わせている。ジョブズもホームステッド高校の卒業生だった。12歳のときに家にいるビル・ヒューレットに電話して、アルバイトの相談をしたかと思えばその職を得て教師たちを驚かせたという過去があった。1971年、大学寮の部屋で2人のスティーヴは「ブルーボックス」を150ドルで売り始めた。装置の電子音はベル社のものを模倣していたので、世界中どこにでもかけられた。リンズメイヤーによれば、ウォズニアックは装置を使ってヘンリー・キッシンジャーの誂りでヴァチカンにかけて、ヘンリーがパウロ6世と話したがっていると言ったこともあった。ウォズニアックは、電話の相手から丁寧にパウロ6世は寝ているがすぐに折り返し電話すると言われた。当時の写真に写る彼らは、長髪に髭にジーンズという出で立ちで、それは完全に60年代、70年代の盛装であった。ジャック・パーソンズと同様に、ジョブズとウォズニアックは、創造性というのはしばしば反抗のなかで生じるし、あるいは反抗行為そのものであると主張した。
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