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スタンフォードという名のフレキシブルな連結

『アメリカ西漸史』より シリコンヴァレー--太平洋の端にある新世界

スタンフォード大学は、東部のアイヴィ・リーグ大学とは根本的に異質の大学を志向した。フレッド・ターマンは1930年代に芽吹きつつあった大学、政府、企業の連鎖の中心にいた。その頃スタンフォード大学は連邦政府の助成を受けることにした数少ない私立大学だった。レベッカ・ローエンが言うところの「あらゆる政治権力から自由」でいることで、学者も科学者も真実を探求できる唯一の「真の天国」になるが、それが私立大学である、との論理から、ハーヴァード大学、プリンストン大学、イェール大学などは、自らの大学の在り方を定義していた。公立大学というのは納税者や州議会に隷属しなくてはならないし、政府のカネをいったん貰ってしまえば私立大学とて、同じ穴の格になる。プリンストン大学の学長だったハロルド・ドッズは、政府の補助金は私立大学を不可避に汚染すると確信していた。「どのような外部的なコントロールの力にも、決して恐れを感じて(我々の自由を)売り渡してはならないのだと明確にしておこう」とドッズは述べた。スタンフォードの大学の多くはこの考えに賛同していた。しかし、ターマンは意に介さずにほどなくして、オープンで政府とビジネス界と教授陣のためのスピンオフ企業の連携を恥じらいもなく実現するスタンフォード大学流のモデルを確立した。1937年、ターマンは理事会を説き伏せて、スタンフォード大学が大学の研究で獲得した特許を所有すること、物理学研究室をヴァリアン兄弟に解放し、スプレー・ジャイロスコープ社から入るヴァリアンが製造していたクライストロンの特許権使用料を積み立てることなどの許可を得た。

その数年後もスタンフォード大学の財政は依然として不安定だった。理事長のロナルド・トレシダーはターマンを彼の父のルイスと共に、何人かの教授と富裕な卒業生も含めて、ヨセミテヴァレーのアワニー・ホテルに招いて週末を過ごして、そこで大学の財政力強化の新たな方法を相談した。ターマンは大学を政治やビジネス界の顧客にする路線の急先鋒で、スタンフォードは工場のようになるべきで、「原材料と思考プロセス」により学位を生産するが、この学位は「一般消費者に購入されて金銭が支払われる」という製品でもあると主張した。ターマンは学長に大学の行政的な権力を集約して、学部長を信頼すれば、学部や構成員の教授陣の(以前は大きかった)権限を縮小できるので、研究所や新分野や学部から独立した形でのリサーチの受け皿を立ち上げやすくなり、政府と企業(とりわけベイエリアの)への「サービス」機関に脱皮することができると進言した。

こうしてアイヴィ・リーグの学長たちといくつかのスタンフォードの著名な教授陣が恐れていたことが実現してしまった。スタンフォード大学の学者はすべての分野の科学において、あげくは心理学から哲学に至るまで機密扱いの委託研究に手を染めるようになり、ターマンらは最初から連邦政府と私企業に、研究のアジェンダをあらゆる分野で次々に決定させることを許した。1944年、理事長のトレシダーは次のように述べた--「航空機会社の特定の利益になる研究委託を請け負うことを約束してあげるだけで」、スタンフォード大学の技師は「航空機産業からの財政的支援を受けることを期待できるのです」(1947年、トレシダーはより明け透けに明言した)「財布の紐を握っている手が君主なのだ」。スタンフォード大学は戦争中に繁栄したが、戦争直後もアメリカ政府がスタンフォード研究所に拠出した。スティーヴン・ベクテルとヘンリー・J・カイザーの支援で、スタンフォード大学はアメリカ有数の規模のコーポレート=ガバメント・シンクタンクに変貌した。防衛予算は研究所予算の半分以上を占め、レーザーレーダー、弾道ミサイル防衛、ヴェトコン殲滅のメソッド開発などで国防総省を手伝った(ベクテルグループはこの過程に常に密接に絡んだ)。

カリフォルニアの防衛産業の常であるが、石にこの軌道を刻んだのは朝鮮戦争だった。1951年、スタンフォード産業パークがオープンしたが、これは大学と研究と政府委託と産業をシンクロナイズさせる、自称、未来のモデルだった。大学のキャンパスのように設計され、1958年のブリュッセルの万博の展示品にもなった。スタンフォード大学はレベッカ・ローエンに言わせれば「新たなアカデミックな型」の実現を祝福したのだ。「スタンフォードの教授は、研究中心の仕事で、大学外の世界と強力につながり、研究者としてのキャリアと大学の財政と評判がかかった財源を追い求める企業家である」。大学の新しい方針に反発しがちな教員はテニュアを認められにくくなり、機密委託が増えるにつれてスタンフォード大学の研究室の外に武装した護衛が現れるようになった。しかし、先見の明があったのはハーヴァード大学でもプリンストン大学でもなく、スタンフォード大学だった。1950年代末には連邦政府の資金が、ほぼすべてのアメリカの主要な大学の研究予算の6割以上を支えるようになっていたからだ。
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