存在と無と内なる世界
存在と無から始まると内なる世界になることを証明しましょう。存在と無というモノを対比で考えるのではなく、ループで考えた。その中に、全てのモノが入ってしまった。あたかも、トーラスのなかに入れ込んでしまう。内なる世界の意識を持ったまま、存在をなくしたい。
内なる世界と無為との関係
自分編はまだまだ、鍛えないといけない。なぜ、内なる世界が出てきたのか。存在と無との関係を含めて、自分のなかの思考をトレースすることです。
内なる世界に来た、一番のトリガーは環境社会です。何故、そんなところに私が入らないといけないのか。その妥当性は何か。自分の範囲で生きている時には、社会がどうなるかは自分の問題ではない。自分の問題ではないのに、入るのに意味があるのか。
世の中には、「仕事」という名前の入る口実はあるけど、それ以外はボランティアしかない。ボランティアはその問題だけ考える。社会全体を対象にする理由はない。社会を変えるというのは、本当にしんどいことです。生きてきた理由を考えると、そこに触れざるをえない。
去年の8月に、集中的に哲学をやってみて分かったのは、哲学者は社会とか個人を変えようとしている。全世界の問題を自分の問題としてやっている。そこから、自分で考えた時にどうなるか。自分のなかの問題なら、自分は入る権利を持ちます。幸い、絶対孤独の中にいるのだから、入るのは簡単です。取りこむのも簡単です。
存在と無で、世界をトポロジーとしてはトーラスで取り込むことができる。そんなところから、内なる世界はできました。
内なる世界は無為とは正反対です。無為は何もなさないこと。それに対して、内なる世界は全世界を自分の問題として見る。無為から、外なる世界ができてきた。自分自身を無にして、外の世界として感じてしまう。
こう考えると、絶対孤独でない人が内なる世界を難しい。そこから、個人の近傍化です。自分が居て、周りとの関係を付けるだけで、とりあえずいいでしょう。法然の南無阿弥陀仏のようなものです。内なる世界の人はそういう人の核になればいい。それで社会は変わります。
内なる世界の人は何もしません。最近読んだ老子も言っています。無為の骨頂です。行動はしない。聞かれたら、応えるだけです。その代わりに、全部を知っています。
世界を変える
池田晶子さんは皆が変わらないと、世界は変わらない。皆が変われば世界が変わる。百年かかろうと。
存在と無から始まると内なる世界になることを証明しましょう。存在と無というモノを対比で考えるのではなく、ループで考えた。その中に、全てのモノが入ってしまった。あたかも、トーラスのなかに入れ込んでしまう。内なる世界の意識を持ったまま、存在をなくしたい。
内なる世界と無為との関係
自分編はまだまだ、鍛えないといけない。なぜ、内なる世界が出てきたのか。存在と無との関係を含めて、自分のなかの思考をトレースすることです。
内なる世界に来た、一番のトリガーは環境社会です。何故、そんなところに私が入らないといけないのか。その妥当性は何か。自分の範囲で生きている時には、社会がどうなるかは自分の問題ではない。自分の問題ではないのに、入るのに意味があるのか。
世の中には、「仕事」という名前の入る口実はあるけど、それ以外はボランティアしかない。ボランティアはその問題だけ考える。社会全体を対象にする理由はない。社会を変えるというのは、本当にしんどいことです。生きてきた理由を考えると、そこに触れざるをえない。
去年の8月に、集中的に哲学をやってみて分かったのは、哲学者は社会とか個人を変えようとしている。全世界の問題を自分の問題としてやっている。そこから、自分で考えた時にどうなるか。自分のなかの問題なら、自分は入る権利を持ちます。幸い、絶対孤独の中にいるのだから、入るのは簡単です。取りこむのも簡単です。
存在と無で、世界をトポロジーとしてはトーラスで取り込むことができる。そんなところから、内なる世界はできました。
内なる世界は無為とは正反対です。無為は何もなさないこと。それに対して、内なる世界は全世界を自分の問題として見る。無為から、外なる世界ができてきた。自分自身を無にして、外の世界として感じてしまう。
こう考えると、絶対孤独でない人が内なる世界を難しい。そこから、個人の近傍化です。自分が居て、周りとの関係を付けるだけで、とりあえずいいでしょう。法然の南無阿弥陀仏のようなものです。内なる世界の人はそういう人の核になればいい。それで社会は変わります。
内なる世界の人は何もしません。最近読んだ老子も言っています。無為の骨頂です。行動はしない。聞かれたら、応えるだけです。その代わりに、全部を知っています。
世界を変える
池田晶子さんは皆が変わらないと、世界は変わらない。皆が変われば世界が変わる。百年かかろうと。