『学校臨床社会学』より
ケータイー般のリスクと青少年にとってのリスクを合わせてみると、(a)すぐにリスクだと分かる身近な支障と(b)リスクだと分かりにくい奥深い支障とに分けられる。
(a)分かりやすい支障
故障や電池切れ、ケータイ機器とその使用料の高額さ、そして紛失や盗難によって個人情報(所持者の情報だけでなく、家族や友人すべての個人情報)が盗まれるというリスク。また、迷惑電話=メール(架空請求など)や「ケータイ・ネットいじめ」についても広く知られるに至った。
(b)分かりにくい支障
「ケータイ依存(症)」と「ヒューマン・コミュニケーション学習の低下」の二つを挙げることができる。それぞれについて説明しよう。
①ケータイ依存(症)
パソコンが登場したときに問題視された「機械親和性」と似て、人間が機械のとりこになって自律性を失い、ケータイなしでは生活できないとか、ケータイでやりとりしていないと不安であるというような一種の機械中毒症状に陥るリスクである。使用時間が長くなるほど陥りやすいが、短い場合でも症状が現れることがある。また、深夜までケータイ・メールやネット検索を繰り返しているうちに、睡眠リズムが乱れ、身体の失調をきたす場合も少なからずあり、学業不振を引き起こすことも稀ではない。
ケータイ所持率が上がっていくなか、生徒たちの間に奇妙な「掟」が全国的に広がった。メールが届いたら20分以内(学年や地域で相違があるようで、5分以内とか10分以内という場合もある)に返信しないと友達と見なされない、という圧力である。生徒たちは煩わしく思いながらも、この瞬時の返信(「即レス」)の掟に仕方無く従っていることが多い。しかし、固定電話と比べてケータイの長所である「都合のよいときにメールを見て、都合のよいときに返信できる」という点から考えても、これほど奇妙なことはない。相手の都合を大事にできるはずのケータイが相手を拘束する短所となってしまっている。もちろん、その短所は機械自体の限界というよりも、その使用法に由来する。こうして、ケータイ機器に友人関係もが引きずられて、所持者が主人公でなくなるほどケータイ依存(症)が広がる。
②ヒューマン・コミュニケーション学習の低下
より気づきにくく深刻な問題は「ヒューマン・コミュニケーション」のスキルが磨かれないリスクである。人類がその誕生時から長い歴史を通じて日常生活のなかで営んできたコミュニケーションは直接面接関係であり、視線や表情、身振り手振りなどのしぐさを通したノンバーバル(非言語)な側面も含めたヒューマンーコミュニケーションが基本である。ところが、現代のコミュニケーションの花形はパソコンやケータイを介した「メディア・コミュニケーション」であり、特に青少年への浸透ぶりは新聞やテレビを中心とした「マス・コミュニケーション」を凌駕するほどである。人間のコミュニケーションの根幹はヒューマン・コミュニケーションであるのに、メディア・コミュニケーションが人のコミュニケーションだという錯覚に陥ると、ヒューマン・コミュニケーションの技法を学習することがおろそかになり、ひいては対人関係能力(ソーシャルスキル)の習得を不十分なものにするだろう。学校にケータイを持ち込むことが原則禁止である理由としては、授業の支障となり、周囲に迷惑となり、学校秩序を乱すためと理解されてはいるか、むしろ思春期(青年前期)にこそ習得すべき対人関係能力を弱体化させないように、せめて学校内だけはヒューマン・コミュニケーションに徹するためであるという点を見落とすべきではない。
そこで、遅滞から生じる諸問題を解決するためには、社会の諸部分を技術変化に適合するよう変化させるか、あるいは技術変化を社会生活の関心に適合するように方向づけるか、という点が重要な検討課題である。特に青少年を対象にする場合には、単なる規制主義では遅滞を解消することはできず、ケータイを所与の技術変化としてそのまま受け取るのではなくて、その技術自体を相対化して批判的に捉え直しつつ、同時に遅滞部分を調整するという総合的な取り組みが求められる。
ケータイー般のリスクと青少年にとってのリスクを合わせてみると、(a)すぐにリスクだと分かる身近な支障と(b)リスクだと分かりにくい奥深い支障とに分けられる。
(a)分かりやすい支障
故障や電池切れ、ケータイ機器とその使用料の高額さ、そして紛失や盗難によって個人情報(所持者の情報だけでなく、家族や友人すべての個人情報)が盗まれるというリスク。また、迷惑電話=メール(架空請求など)や「ケータイ・ネットいじめ」についても広く知られるに至った。
(b)分かりにくい支障
「ケータイ依存(症)」と「ヒューマン・コミュニケーション学習の低下」の二つを挙げることができる。それぞれについて説明しよう。
①ケータイ依存(症)
パソコンが登場したときに問題視された「機械親和性」と似て、人間が機械のとりこになって自律性を失い、ケータイなしでは生活できないとか、ケータイでやりとりしていないと不安であるというような一種の機械中毒症状に陥るリスクである。使用時間が長くなるほど陥りやすいが、短い場合でも症状が現れることがある。また、深夜までケータイ・メールやネット検索を繰り返しているうちに、睡眠リズムが乱れ、身体の失調をきたす場合も少なからずあり、学業不振を引き起こすことも稀ではない。
ケータイ所持率が上がっていくなか、生徒たちの間に奇妙な「掟」が全国的に広がった。メールが届いたら20分以内(学年や地域で相違があるようで、5分以内とか10分以内という場合もある)に返信しないと友達と見なされない、という圧力である。生徒たちは煩わしく思いながらも、この瞬時の返信(「即レス」)の掟に仕方無く従っていることが多い。しかし、固定電話と比べてケータイの長所である「都合のよいときにメールを見て、都合のよいときに返信できる」という点から考えても、これほど奇妙なことはない。相手の都合を大事にできるはずのケータイが相手を拘束する短所となってしまっている。もちろん、その短所は機械自体の限界というよりも、その使用法に由来する。こうして、ケータイ機器に友人関係もが引きずられて、所持者が主人公でなくなるほどケータイ依存(症)が広がる。
②ヒューマン・コミュニケーション学習の低下
より気づきにくく深刻な問題は「ヒューマン・コミュニケーション」のスキルが磨かれないリスクである。人類がその誕生時から長い歴史を通じて日常生活のなかで営んできたコミュニケーションは直接面接関係であり、視線や表情、身振り手振りなどのしぐさを通したノンバーバル(非言語)な側面も含めたヒューマンーコミュニケーションが基本である。ところが、現代のコミュニケーションの花形はパソコンやケータイを介した「メディア・コミュニケーション」であり、特に青少年への浸透ぶりは新聞やテレビを中心とした「マス・コミュニケーション」を凌駕するほどである。人間のコミュニケーションの根幹はヒューマン・コミュニケーションであるのに、メディア・コミュニケーションが人のコミュニケーションだという錯覚に陥ると、ヒューマン・コミュニケーションの技法を学習することがおろそかになり、ひいては対人関係能力(ソーシャルスキル)の習得を不十分なものにするだろう。学校にケータイを持ち込むことが原則禁止である理由としては、授業の支障となり、周囲に迷惑となり、学校秩序を乱すためと理解されてはいるか、むしろ思春期(青年前期)にこそ習得すべき対人関係能力を弱体化させないように、せめて学校内だけはヒューマン・コミュニケーションに徹するためであるという点を見落とすべきではない。
そこで、遅滞から生じる諸問題を解決するためには、社会の諸部分を技術変化に適合するよう変化させるか、あるいは技術変化を社会生活の関心に適合するように方向づけるか、という点が重要な検討課題である。特に青少年を対象にする場合には、単なる規制主義では遅滞を解消することはできず、ケータイを所与の技術変化としてそのまま受け取るのではなくて、その技術自体を相対化して批判的に捉え直しつつ、同時に遅滞部分を調整するという総合的な取り組みが求められる。