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老子の無為

『老子』より

第二章

 世の中の人々は、みな美しいものは美しいと思っているが、じつはそれは醜いものにほかならない。みな善いものは善いと思っているが、じつはそれは善くないものにほかならない。

 そこで、有ると無いとは相手があってこそ生まれ、難しいと易しいとは相手があってこそ成りたち、長いと短いとは相手があってこそ形となり、高いと低いとは相手があってこそ現われ、音階と旋律とは相手があってこそ調和し、前と後とは相手があってこそ並びあう。

 そういうわけで、聖人は無為の立場に身をおき、言葉によらない教化を行なう。万物の自生にまかせて作為を加えず、万物を生育しても所有はせず、恩沢を施しても見返りは求めず、万物の活動を成就させても、その功績に安住はしない。そもそも、安住しないから、その功績はなくならない。

第三十八章

 高い徳を身につけた人は徳を意識していない。そういうわけで徳がある。低い徳を身につけた人は徳を失うまいとしている。そういうわけで徳がない。

 高い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはせず、しかも何の打算もない。低い徳を身につけた人は世の中に働きかけるようなことはしないが、しかし何か打算がある。

 高い仁を身につけた人は世の中に働きかけるが、しかし何の打算もない。高い義を身につけた人は世の中に働きかけ、しかも何か打算がある。

 高い礼を身につけた人は世の中に働きかけ、しかも相手が応えないと腕まくりして引っぱりこむ。

 そこで、無為自然の道が失われると徳化をかかげる世の中となり、徳化の世の中が失われると仁愛をかかげる世の中となり、仁愛の世の中が失われると社会正義をかかげる世の中となり、社会正義の世の中が失われると礼をかかげる世の中となった。

 そもそも礼というものは、まごころの薄くなったもので、混乱の始まりである。先を見通す知識というものは、道にとってのあだ花であって、愚昧の始まりである。

 そういうわけで、りっぱな男子は、道に即して純朴なところに身をおき、誠実さが欠けた薄っぺらなところには身をおかない。道に即して充実したところに身をおき、華やかなあだ花には身をおかない。だから、あちらの礼や、先を見通す知識を棄てて、こちらの道を取るのだ。

第四十三章

 世の中でもっとも柔らかいものが、世の中でもっとも堅いものを突き動かす。形の無いものが、すき間のないところに入っていく。

 わたしは、このことから、無為が有益であることを知った。不言の教えと、無為の益とは、世の中でそれに匹敵するものは、ほとんどない。

第四十七章

 部屋から出ていかなくても世の中のことは分かり、窓から外を見なくても天の理法は見てとれる。遠くに行けば行くほど、道のことはますます分からなくなる。

 そういうわけで聖人は、どこにも行かないで分かり、なにも見ないで明らかであり、なにもしないで成しとげる。

第四十八章

 学問を修める者は日々にいろいろな知識が増えていくが、道を修める者は日々にいろいろな欲望が減っていく。欲望を減らし、さらに減らして、何事も為さないところまで行きつく。何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。

 天下を統治するには、いつでも何事も為さないようにする。なにか事を構えるのは、天下を統治するには不十分である。

第七十章

 わたしが言うことは、たいへん分かりやすく、たいへん行ないやすい。だが、世の中にはそれが分かる人はおらず、それを行なえる人はいない。

 (わたしの)言葉には主旨があり、(行なう)ことがらには要点がある。そもそも、人々は何も分からないから、それだからわたしのことが分からないのだ。

 わたしのことが分かる人はまれだから、わたしは貴いのだ。そういうわけで聖人は、そまつな着物をきていても、しかし懐には宝玉を抱いているのだ。
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チベット ダライラマ十四世

『チベットの歴史と宗教』より

勝者王(ダライラマ)十四世

 第十四世勝者王テンジンギャムツォ貌下は木の豚の年(西暦1935年)に東北チペットのクンブム大僧院の近郊にあるタクツェルという地に、父君チューキョンツェリン、母君ソナムツォのお二人の御子息としてお生まれになった。摂政ラデン御前を始めとするチベットの高僧・シャーマン全ての託宣の結果が一致し、先代の日用品を選ばせるテストにも合格し、十三世の側近たちもそれと認められるなど、「先代ダライラマの転生者に相違なし」との徴か数多くあったので、先代のダライラマの転生者に認定申し上げた。

 土の兎の年(西暦1939年)にクンブム大僧院から中央チベットに招かれて、ラサに到着すると釈迦牟尼の寺(トゥルナン寺)において摂政ラデン御前が剃髪の儀を執り行い、ジェブツゥン=ジャムペルガワン=ロサンイェーシェー=テンジンギャムツォベルサンボとお名前をお付けし、鉄の龍の年(西暦1940年)にポタラ宮の黄金の座に推戴申し上げた。

 鉄の虎の年(西暦1950年)に中国が国際社会に向かって「チベットは中国領である」とのプロパガンダを発表すると同時に、東北チペット・東チペットの地方に侵略した。こうして全チペットが中国の強権におしつぶされそうになり、チペットの仏教と政治は風前の灯火のごとく危うくなった時、チペットの神や人全ての懇請に従って、11月17日に御年十六歳にも満たずして、政治と仏教の長としての職責をお引き受けになられたのである。

 土の豚の年(西暦1951年)5月23日、中国の側喝下で行われた協議に基づいて決まった十七条協約に、チベット代表は署名を余儀なくされたのであった。

チベット全土が独立のために蜂起する

 中国共産党の占領下に八年ほどおかれた間、中国共産党のチペット政策は次第に苛烈なものとなり、中国の強権支配に対する抵抗運動の炎はチベット全土に広がった。1959年3月10日、ラサに駐留する中国軍は勝者王氏下に中国軍の軍営に観劇に来るようにと、何度もお出ましを請うた。また、観劇にお出ましの際には「以前のような護衛を付けることはまかりならず、人々も中国軍の軍営には近づくことはないように」との命令がでた。ラサのチベット人はみな、ダライラマ氏下率いる政治と仏教の一致したチペット政府を護るためには命を投げ捨てる覚悟は常にあったので、数千人の人々が中国軍の銃口にまさに消えようとするのを御覧になり〔チペット人と中国軍の衝突を回避するために〕、ダライラマ貌下は厳選された側近たちとともにチベットの南部を通ってインドに亡命することになった。

 その後、ラサを始めとするチペット全土で中国軍はチベットの僧や俗人など数千人の民衆を殺傷し、三大僧院を始めとするチペットの宝ともいえる大僧院を無数に破壊し略奪の限りを尽くした。

チベット亡命社会の創設

 1959年4月に勝者王氏下主従はインドに到着されて、ムズリーに一年ほど、それからダラムサラに滞在されて、その間亡命チベット政府の諸機関を新設され、インドを始めとする世界中に亡命チベット人の組織を建設し、それを強固なものとなされた。インド政府の助けの下、貌下は、チベットから続々と到着する亡命者たちの生計のために、各地で道路建設の仕事を工面し、入植地の建設も行われた。

 特に、ダライラマ氏下はチペットの行く末を考えられて、1960年3月3日にムズリーに学校を開設されて、それを皮切りにして現在はインド・ネパール・ブータン三ケ国に八十を超えるチペット人学校があり、三万人近い生徒がチペットの文化一般と近代教育を学びっづけている。さらに、チペット仏教の諸宗派の二百九を超える寺にいる一万二千人の僧が仏教一般と自派の宗学の勉強に励んでいるのである。

民主主義の体制を確立する

 昔、古代チペットの歴代の法王たちや、その後に現れた仏法を奉じる高僧や領主たちは、チペット国の政治を政教一致の体制において守ってきた。しかし、現在、世界中において民主主義を志向する流れは不可逆的なものであり、われらがチペットの近い未来、遠い未来の行く末を御覧になっても、ダライラマ貌下は民主主義体制を確立することが重要であるとお考えになった。そこで、1963年に貴いチベット憲法を公布され、その年の1月2日にチベット人民代表委員会という最高司法機関を新設された。特に、1991年の第十一回チベット人民代表会議以来、代議員の数は四十六名まで増えた。さらに、直接選挙によって選ばれた代表によって構成される国民代表者会議が立法機関となった。こうして、立法・司法・行政(内閣)という民主主義の三本柱が揃い、内外に居住するチペット人全ての要求に合致した政治体制を新しく確立されたのである。
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朝鮮戦争 国土完整と北伐統一

『北朝鮮現代史』より

国土完整と北伐統一

 朝鮮民主主義人民共和国の首都は憲法ではソウルとなっており、平壌は仮首都である。大韓民国の領土は。憲法では韓半島全体だと書かれているにどちらの国からみても、三八度線の向こう側にある政府なるものは自分たちの版図に陣取る外国の傀儡政権だということになる。論理的には大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国はお互いに相いれない存在、非和解的な存在であった。

 建国した朝鮮民主主義人民共和国の課題は、四八年九月一〇日に金日成が発表した同共和国政綱の第一項に明記されている。

 南北朝鮮人民の総意により樹立された中央政府は全朝鮮人民を政府の周囲にしっかりと団結させ、もって統一された民主主義自主独立国家を急速に建設するために全力をつくすのであり、国土完整と祖国統一を保障する最も切迫した条件として両軍同時撤退に関するソ連政府の提案を実践させるために全力をつくすつもりである。

 この北の「国土完整」案には南の「北伐統一」案が対抗した。一九四八年にそれぞれ全朝鮮を版図とする二つの朝鮮国家が生まれたとき、武力による相手の除去、国土統一の構想が双方に現れる土台がおかれた。日本の植民地支配から脱して民族国家を再建するという願望からして、国土統一はかならず成就されなければならない民族の目標と考えられた。注目すべきは、その構想が隣国中国の経験の延長として考えられ、中国の過程の直接的影響のもとに実行に移されることになったことである。「国土完整」も「北伐統一」も中国語であった。武力の行使は中国の場合と同じように一民族内部の内戦と考えられた。しかし、朝鮮では、その内戦は国際秩序の中に組み込まれ、建設のはじまった二つの国家の間の戦争という性格をもつにいたるのである。その意味では、もはや中国の経験の延長では考えられない異なった歴史現象となるのであった。

 すでに話し合いがついていた北朝鮮からのソ連軍撤兵は一〇月から開始され、はやくも一二月には完了した。ソ連軍の占領が終わり、シトゥイコフが大使に着任した。

朝鮮側の意欲と大国の抑制

 北朝鮮の指導者は国共内戦の進展に強い刺激を受けていた。一九四八年一一月には満州全域が中共軍の支配下に入った。満州での戦争にサンクチュアリーを提供し、これを直接たすけていた北朝鮮は大いに鼓舞された。満州の朝鮮族のメディアも朝鮮民主主義人民共和国の建国と満州の解放とを結びつけ、蒋介石とともに李承晩を打倒せよという声を挙げはじめていた。

 韓国の李承晩は中国の事態から逆の危機感を強め、「北伐統一」を一九四九年の初めから公然と打ち出した。この構想は、国民党政府が北方の軍閥に対して進めた、かつての中国の内戦をモデルとしていた。一月末から二月はじめにかけて、南の警察と軍は三八度線を越えて、攻撃をおこなった。李承晩はそのころ訪韓した米陸軍長官ロイヤルに北進の希望を伝え、軍隊の増強、装備と武器の提供を求めている。しかし、アメリカ政府は支持を拒否した。

 第二次大戦後の東北アジアは米ソの合意によって統制されていた。この合意はヤルタ協定、連合国最高司令官の一般命令、および四五年一二月のモスクワ三国外相会議での決定によって設定されたものであった。その合意の重要な部分が、朝鮮は米ソで分割占領するというものであった。ヨーロッパで冷戦がはじまっても、スターリンはアジアでのこの枠組みに忠実であった。だから、金日成、朴憲永らが四九年三月、建国最初の政府代表団として訪ソしたさい、金と朴は三月一四日にスターリン、モロトフと秘密の会見をおこない、「国土完整」の希望を伝えたが、スターリンはこれを許さなかった。

 三月からは韓国側の侵入攻撃事件がふたたび起こり、四月には韓国の北進攻撃が六月にあるとの秘密情報が伝わって、ソ連指導部はおびえた。他方で四月二三日、中国人民解放軍が揚子江を越えて、南京を陥落させた。北朝鮮の士気はますます上がり、ソ連は中国革命を認知することを迫られた。

 金日成と朴憲永は四月末にソ連大使に武器装備の提供を求めるとともに、金一を中国に送り、中国革命に加わった朝鮮人部隊を北朝鮮に派遣してくれるように求めた。毛沢東はこれを認め、一万人規模の朝鮮人二個師団をいつでも引き渡すことができると回答した。

 六月、南北朝鮮の労働党は組織を統一することを決定した。金日成が新朝鮮労働党委員長に、朴憲永が許ガイとともに副委員長になった。この月、韓国軍は甕津半島で攻勢に出て、北側の銀波山を占領した。この当時、韓国軍は六個師団あったのに、北人民軍は三個師団と一個旅団からなっていたにすぎなかったから、ソ連大使は恐怖した。七月、瀋陽を出発した人民解放軍第二(六師団と長春を出発した第一六四師団が北朝鮮に到着した。前者は人民軍第六師(方虎山師団長)に、後者は人民軍第五師(金昌徳師団長)となった。精鋭二個師団が北人民軍に加わって、兵力比は改善された。
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中野美代子さんとパートナーの対比

未唯へ

 日曜日だけど、4時起きしている。

ギリシャ情勢

 ギリシャ危機の裏に商機、ワイン生産者がユーロ安を歓迎 | 世界のこぼれ話。ギリシャの姪の旦那はワイン関係者です。状況を聞きましょう。

サファイアの進化

 ここは発想を先に進めて、サファイアの進化をカタチにしよう。組織を体現化したOもいる。変わることができないならばどうするかのシミュレーションもできる。私は内なる世界として、全てに関与する。相手の思惑は気にしない。全体と先が見えているのは私だから。

 発想を変えても、パートナーがいない世界は考えられない。理解は求めます。

 これは二年前にパートナーに頼んだ、サファイアの進化の一部です。

今後の世界

 今後はローコスト・ローエネルギーです。地域活性化から変えていく。

ネットワークの核が必要

 前のGMなら、ネットワークの核をなくすことはなかったというパートナーの認識は正しい。年替わりのGは功を焦った。ザ・パートナーを理解できなかった。最終的な責任は彼にある。

 名古屋の連中は先を見ていないので、責任という感覚はない。基本は担当として、言われたことをやっているだけ。パートナーのように、Hの立場で核になって進めることはしない。この会社が先を見たら、ローコスト・ローエネルギーの社会実現です。

シェア社会

 商品の中に、その仕掛けをする時期です。レンタ・リースの概念をシェアに拡大する。それとお客様とつながることを考えれば、アイデアが出てくる。

Oの悲劇

 ネットの展開はHに技術屋が行って、設置すればおしまい、と確信している。

 パートナーはHの立場から、営業が行って、キッチリおさえる。ネットワーク会社の役割。それが出来ないなら、キャリアにすべて責任を持たせるだけ。ネットワーク会社は不要。そこまで、先を考えている。

 私はさらに、ネットワーク設置の営業活動を通じて、Hとの信頼関係をつくりあげることをかんがえている。Hの悩みが分かれば、ネットワーク会社も次の行動が可能になる。Hにシステムを提供すると同時に、使えるようにする。それを横展開していく。

つぶやき

 かなり、「仕事」の話になっている。私の頭はこれで一杯みたい。つぶやきもこうなってしまう。

 もう、6時過ぎました。図書館の残りの本を読みましょう。iPadはどこでも入力できるようにすることはない。寝ながらできれば十分です。寝ながら、本は読めるのと感覚は一緒です。

制約があるから自由がある

 私にとっての、iCloudはツイッターであり、ブログです。考えたこと、感じたことをそこに入れ込む。

夢の中の行動

 夢の中で、いろいろな行動をしていた。自分が乗っていた車が暴走して事故を起こした。周りから非難が殺到。どうしようか思ったところで、夢であることが分かった。目を開ければ元に戻っている。考えたところだけが残っている。すごい世界に住んでいる。何でもできる。

20年前の中野さんとの関係

 サファイアなきサファイアと同様のことを20年前にも行っていた。

 中野さんから会社を去りたいという意向を受けて、話し合いを行いました。6時間、二人で話し合って、部署を異動することにしました。商業高校出身の女性の部間異動は珍しかった。

 その結果、どうだったのかはまだ出ていません。管理部から技術部の技術員になりました。当時、24歳だったから、かなりの年になっています。結婚したとか退社したとかは聞いていない。

 18歳から24歳まで、私は掛りっきりでした。技術者に負けないだけの仕事を見つけてきた。中野さんが去ってから、私は技術員の仕事を再構築するR&Dを立ち上げた。変えないといけないと思っている技術の課長と一緒になって、次長を巻き込んで、根本から分析を行った。

 もし、中野さんが居たら、私が遠慮して、しまって、できなかった。今、中野さんに会いたいのは、20年後の感想が聞きたいというのもある。これは、今回のパートナーと共通するところです。

 中野なき後は、私がLAの進化を担った。同様に、パートナーなき後のサファイアの進化は私がやります。実質、2年しかないけど。

 そのくらいに、戻ってくることも期待しています。パートナーの居場所はサファイアです。私があなたのために作り上げた空間です。

社会を見ること
 
当時も、私のメインテーマも社会を見ることでした。実験者の動きを理解するために、データ解析は山ほどしていた。多くのムダがありました。個のムダをなくすためには、ネットワーク、マック・UNIXを使って、技術者自身で環境をできるようにした。

 私は40過ぎていたが、中野さんは24歳でした。これから、二人でいろいろなことをしようとしていたが、中野さんは自分の道を歩きだした。

論文教室

 「ベッカー先生の論文教室」を読んでいる。文章の添削(本当に削っていく)をやることで、レポート用紙4枚が、内容とか意図を変えることなく、3/4ページになった。

 未唯空間の表現を変えてみて、自分の文章に多くのムダがあることはわかった。接続詞はほとんどいらないし、「思う」みたいな言葉も不用です。ダラダラした文章、前後関係がハッキリしない言葉、ロジックが中途半端になっている文章をきってきました。

 この最近は14文字で表現することに憧れている。そこを幹にして増やしていかないと、文章は成り立たない。この本は、かなり、当てはまります。私の場合は、未唯への手紙だから、分身に対しての文章だから、素直にすればいいんでしょう。

 次は、「ペルソナ」について語っている。そして、「ただ一つの正しいやり方という幻想」です。この題名だけで内容は分かります。

 最後が「ドアの外に出すこと」を恐れているです。この辺が30年前の本だからでしょう。今は、社会学者も生のまま、外へ出している。半分は自分を売るためですから。今後は文章は変わっていきます。

一生を凝縮する

 一つのことに、一生を凝縮させましょう。サファイアなきサファイアに全てを使います。

精神的な疲労

 老人ホームの母親の部屋だけど、私が精神的にかなり疲れているのは自分でもわかります。外側へのコミュニケーションでは笑顔は必要だけど、内側のコミュ二ケーションでは笑顔は邪魔になります。

 何もする気がない。というよりも、寒気がします。一つひとつの行動が何故、それをしているのか、忘れることが多い。
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