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町作りの単語の本音 2

『口辞苑』より

■合意形成

 集団の参加者などが共通の理解をもち、事業等を行うことについて了解しあうこと。共同事業を行うためには参加者の合意が必要であるが、実際にはこれがきわめて困難で、この合意形成をとるのに疲れ果ててしまうということも少なくない。この負荷を軽減するために、石原武政は合意形成は全員一致だと決めつけずに、事業によって使い分けるべきだと提案した。

 複数の人間がまったく同じ意見になることなどありえないから、合意できたといっても「ある一点で」とか「ここまでは」というのが普通である。しかし、通常はそんなことは表に出さず、あるところで合意すれば、それで全部が合意できたように振る舞うことになる。しかし、それが後に「そんなはずではなかった」という不満を生み出す素ともなるだけに、逆に合意形成のレペルを表に出しておくことは重要なことと言える。中心市街地活性化に取り組んだ地元への調査によれば、「最も困難であったのは合意形成」であり、同時に1年間の活動を通して「最も効果があったのは合意形成」という結果が出たことがある。最も困難なものが1年くらいで効果を上げるはずはなく、1年で効果の上がるものが最も困難であるはずがない。それでもこう言えるのは、現場ではこの合意形成のレベルを巧みに使い分けする技術が確立していることを示しているのかもしれない。

■コンンパクトシティ

 都市機能と生活機能を都市の中心部に集め、郊外への拡散を防止し、比較的狭い、まとまった高密度な都市空間を目指す考え方。日本では、特に1990年代の規制緩和で郊外開発が進展し、中心市街地の空洞化を招くとともに、郊外化に伴うィンフラ整備等の費用負担も問題となってきた。2005年のまちづくり三法見直しの議論の中で改めて取り上げられ、それ以降、まちづくりのキーワードとなった。

 もともとヨーロッパで生まれた考え方で、以前から日本にも紹介されていたが、都市と郊外との区別が曖昧で、緑地で分断されることなく、都市部が延々と続く日本にはなじまないという意見もあった。しかし、人口減少が現実化する中で、これ以上の郊外開発費用をQ担できるのかという議論が優勢となった。まちなか居住を進め、郊外開発を抑制することで除町費を大きく節約した青森市の事例が大きく紹介されたが、それを聞いて、「うちは雪が降らないからなあ」と嘆いた関係者がいたようだが、これは発想の貧困の極致である。

■まちづくり

 商業の分野では1990年代に入って用いられるようになり、大規模小売店舗法の廃止が議論される頃から時代のキーワードとなった。都市計画や都市基盤整備の分野では以前から用いられていた。しばしば「街づくり」とも書かれる。この両者には違いがあると言う人もいるが、一般的に認められているわけではない。ただ、近年は柔らかい感じが受けてか、ひらがなの「まちづくり」が多く用いられるようになった。そこには、ハード中心からソフト中心へ、行政主体から住民主体へといった流れの変化が希望的に込められていることが多い。

 「まちづくりはUFOみたいなものだ」と喝破した人がいるという。みんなそれぞれに勝手なことを言うが、誰も実際にそれを見た者はいないというのである。まさに言い得て妙である。その言葉の響きも柔らかいことから「反対だ」と言う者はほとんどいない。その意味で、好意的な意味合いを込められた言葉ではある。ただ、その言葉に託して考えていることはそれぞれにパラパラであるため、同床異夢的なところはある。といって、これを厳密に定義してしまうとその分野の専門家だけの集まりになってしまい、全体的、総合的な取り組みができない。その意味で、つかみ所がなく、曖昧なキーワードであるからこそ、多くの分野の人びとを糾合できているという利点はある。

■図書館

 図書・雑誌・資料等を系統的に収集し、広く一般の利用に供する施設で、主に地方自治体など公共団体によって開設・運営される。全国に3、000を超える公共図書館が存在するが、その頂点である国立国会図書館には国内で発行されるすべての図書が収集され、蔵書点数は3、600万点を超えている。その他に、大学図書館がI、700強存在するが、こちらは学術研究目的に限定されており、一般公開されているところは少ない。

 読書家の多くは本を自分のものにしたがる傾向があり、読みたい本は自分で買うことが多い。しかし、本代が馬鹿にならないばかりか、読んだ本は妙に捨てられず、狭い家の中を本が占領してしまう。図書館はそんな悩みを解決してくれるところで、占有消費ではなく共有消費(三浦展の言う「共費」)のもっとも古典的な支援機関である。多くの図書・資料を系統的に集めるところが貸本屋との違いで、近年ではビジネス支援、創業支援を理念に掲げた図書館が現れ、まちづくりとの接点を強めている。
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町作りの単語の本音 1

『口辞苑』より

■新しい公共

 2009年に誕生した民主党内閣、鳩山由紀夫首相が10月の所信表明演説で導入した言葉で、次のように述べた。「『新しい公共』とは、人を支えるという役割を、『官』と言われた人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などにかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です。」以来、国の政策の大きな柱の1つとなった。

 確かに言葉は新しく、響きもいい。しかし、人を支えるという役割をもっぱら官が担ってきたというのは大げさだ。昔はそんなもの、ほとんど地域社会が共同で取り組んでいた。市場社会の進展と共に失われた「共」の世界を取り戻そうとするのはいい。しかし、それを「官」(「公」)の政策として強調し、そのために大きな予算をつけると違った世界が見えてくる。予算を求めて多くの関係者が群がる。その中には、地道に地域の中で活動を展開する者ももちろんあるが、彼らが使う予算はしれている。もっと大きな予算を消化するのは、国の政策に鼻をピクピクさせながら事業を組み立てる組織で、予算がなくなればあっさりと引き揚げてしまう。打ち上げ花火とならないことを願う。

■意識改革
意識が行動を規定する。商店街の現状を見ると、「本当にやる気があるのか」と疑われることがしばしばある。それは「生業志向」として、資金問題と並んで、商店街の近代化を阻害する最重要要因として指摘されてきた。商店街を魅力あふれる場とするためには、商業者たちの意識を改革することこそが必要であるとされる。
意識が遅れているから改革する必要があると言うが、何をもって意識の遅れとするかは明確ではない。ときには「オレのいうことを理解しようとしない」ことをもって意識の低さの証拠とみなすりIIダーもいる。仮に生業志向から脱却するとしてそれはどのような姿を意味するのか。企業家精神あふれる小売業で商店街が埋め尽くされたときの商店街がイメージできるだろうか。商店街の商人がすべて中内切や岡m卓也、鈴木敏文などで占められたとすれば、商店街は本当に魅力的になるのだろうか。意識改革の必要性が強調される割には、意識をどのように改革すべきなのかといったことが議論になることはほとんどない。反面で、意識が低いと指摘される商業者たちは、「誰に迷惑をかけるわけでもなく、自分で自分の生活を支えるに足るだけの商売をきちんとしていてどこが悪い」という開き直りにも似た声が聞こえてくる。解決することのない商店街の永遠の課題である。

■おかみさんの会

 「おかみさん」と言えば、旅館や相撲部屋が有名だが、商家の女性経営者達で作られるのもおかみさんの会。東京・浅草で冨永照子が立ち上げ、全国に呼びかけた。男性経営者とは違った視点から、きめ細かな活動を展開している。

 男は元来が機能主義者で、機能を求め対象に固執せず、よりよいものを求めて飛び回る。加えて、建前主義や権威主義からも抜けきれない。それに対して、女は対象を特定してその関係の中で何かを生み出していこうとする。同時に、建前主義や権威主義からも自由で、本音で足が地に着いた議論を展開する。それによって男とは別の、きめ細かな発想でまちの問題に取り組むが、ときには、10数名が着物姿で陳情に繰り出すなど、権威主義の男に対して「久の色気」を武器にするしたたかさも身につけている。)

■学識経験者

 学問的あるいは理論的見識をもち、大所高所から判断し、適切なアドバイスをすることが期待されている人。大学教員などがこれにあたると考えられており、各種の委員会などに中立委員として参画を求められ、しばしば委員長を務める。

 実際には実務経験がなく、現場を知らないことが多い。畳の上で水泳を習ったような人。理論と現実との距離感を気にすることは少なく、また自分の理論と現場で求められて行う発言との間の乖離を気にすることもほとんどない。その場の思いつきを理屈っぽく、説得的に語る技術に長けた人は多いが、提言の結果、現場がどのように動いていくかに関心をもつ人は少ない。現場がうまく進まなかったときには、自分の提言が非現実的で、実現不可能であったことを棚に上げて、「私の言った通りにしなかったから悪い」と現場に責任を転嫁することにかけては天才的な能力を発揮する。
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未唯空間の先行き

未唯へ

 Iさんと本の話をしていた。なぜ、読んでいるかというと、世界の全てを知りたいから。

 今日もまた、45分を過ぎてしまった。バスが遅くなっている。

 共通の敵が居なくなった、パートナーは、どう出てくるのか。先週のようにバタバタはしないでしょう。

未唯空間の先行き

 先週金曜日から未唯空間の目次を見る気がなくなっている。目次を送って、監査してもらう「夢」を見ていました。トランク一杯になったけど、余分なものだけだった。じゃ何をすればいいのか。そこで起きました。

 未唯空間の先行きが心配になりました。身体も心配だけど、こちらは外なる世界です。人のせいにして、怠惰な生活をしています。シンプルになっていない。土日はずっと食べている。人のせいにするにも、人が周りにはいません。

言い訳の世界

 この先、どうするかを根底から考えます。今は時間つぶししています。その先どうするのかも中途半端になっています。徹底的に自分のところに持ってくる。あまりにも、言い訳の世界です。自分に対しての言い訳だから、自分で納得しています。

絶対的な孤独から始まった

 未唯空間の自分編で見ても分かるように、絶対的孤独から始まったから、最後もそこに戻るのでしょう。それに、論理的な確証をつけてきただけです。つまり、自分しか居ない。自分だけの世界が現実の世界です。単にそれだけです。

 絶対的な孤独が自分で決めた結論なのでしょう。その答が出たら、未唯空間はいらないのか。今、悩んでいるのは、その部分です。

 これ以上精査しても何も出てこない。出てくるのが目的ならば、そうでしょう。どうも、出てくるのが目的ではないみたいです。精査することも目的ではない。では、目的は何か? 単に、全てを知りたい。真理を知りたいというだけかもしれない。そのために、今の環境を最大限に使っていきます。邪魔されずに、影響を与えずに。

存在感をなくす

 今、必要なのは自分の存在感をなくすことでしょう。どうも、これが重荷です。その中には、未唯空間そのものも入ってくるみたいです。

電柱がなく、駐車場がない

 先を具体化しましょう。2030年の世界。そこには、電柱がなく、駐車場がない。それがどういう形でなっているのか。そうなっていくことの良さを先に示しましょう。

 インフラから変えていく。だから、インフラはシンプルでないといけない。

世界の全てをしりたい

 やはり、この一点に絞るしかない。世界の全てを知りたい。その結果として、世界が変わるかどうか。先を見て、考えるしかない。

資本主義の論理
  電気自動車の最大のニーズは、現行のクルマを陳腐化することみたいです。あくまでもメーカーの論理であり、現在の資本主義の論理です。

 つまり、省エネとかCO2削減とは関係なく、市民にムダなお金を使わせることです。その意味では太陽光も同じです。それでは幸せにはなれません。その先を考えていない。やはり、ローコスト・ローエネルギーです。
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