日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

賑わっていた

2013年04月27日 | 町かど
           

 まだ、西岩国地区が市の中心機能を担うころの話。臥龍橋から椎尾神社までは小学校のころの通学路の一部。この道を臥龍橋通りと呼んでいた。米に煙草、菓子に楽器、呉服に文房具、靴に傘、肉に魚、板金に自転車、惣菜に漬物、野菜に果物……、臥龍橋通りに交叉する通りを含め、日常生活に必要な店すべてが軒を連ねていた。

 そのころの道幅は、オート三輪車が通れば歩きをやめて道を譲る、雨降りには傘があるので店の軒下へ避けるくらい狭い通学路だった。昨今の世相からだと大きな社会問題になっているだろう。当時、こうした状況を危険と気付いた人はいなかったと思う。逆に、このような日々の行動が「譲り合う」「身を守る」という気持ちを自然に身につけることになったのではと、今は思う。通学路で車の絡む事故などで注意喚起されたことは記憶にない。

 その通りが、昭和30年代中ごろ、「いったい何が通るの」と思うほど拡張された。広くて安全、社会人になっていたが拡幅をそう喜んだ。それを機にお店の構えが近代風に変わる。それまでの店の味が薄くなり、あるいは消えていった。やがて大型店がこの商店街の一角にに進出、便利さをうけ人の流れが変わる。さらに車社会の発展を受けて郊外により大型の店舗が開店する。それは、かっての商店街すべてが1店舗に収まっている。

 陽気な陽ざしの降り注ぐ昼下がり臥龍橋通りを見渡しながら、繁盛していたころの古い町並みを思い出す。長く続いた商店街のポイントシールが終わった。終わる理由は聞いていないが、通りの様子から運営の厳しさは容易に思いつく。シャッターが下り、解体され櫛状になった通りの家並み、それでも賑わいを戻そうと尽力されるグループがある。積み重ねの成果が花開くことを願いながら折り込みチラシの眺める。

 
 
コメント
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