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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

下駄の音

2015年07月01日 | しっちょる岩国

 下駄箱を掃除していた妻が「まだ履きます?」と取り出したのは下駄、何十年も仕舞われたままになっていた、というか、その存在を忘れていた。ということは浴衣を着て外出してないということだ。浴衣を着たら下駄を履く、この気づきは古い人間そのままらしい。今の人らは浴衣に「スニーカー」「つっかけ」「サンダル」などが主流という。もしかして下駄が履けないのかもしれないと思い直す。

 下駄は「鼻緒があり底部に歯という凸部のある日本の伝統ある履物。凸部は地面に接しそのため雨の日には足の濡れを防ぐ。鼻緒を通す3つの穴を眼と呼ぶそうだ。絵文字の顔を逆にした形で足をのせるのが悪い気がする。足の親指と人差し指の間に鼻緒を挟んで履く。人差し指と中指の間に挟む履き方もあったそうだ。下駄は草履とは違い乾いた心地い良音をたてる。

 下駄と出た時「カランコロンと下駄で行く」という錦帯橋にまつわる短いフレーズを思い出した。もしやと、1972(昭和47)年11月出版(岩国図書館発行)の「岩国の昔話と歌謡」を繰ってみると載っていたのが次の歌。歌に記憶は無いがどこかで聞いた短いフレーズが耳に残っていたのだろう。下駄で錦帯橋を渡った記憶はないが、カランコロンという音の表現が何ともいえない和の情感を誘う。サーサは人を誘い促す語という。

 「からんころん節」 作詞:野口雨情、 作曲 岡村素芳、 編曲 吉田矢健治(岩国市出身)
 ♪ ハア 誰に逢うやら あの錦帯橋を カランコロンと下駄で行く カランコロンと サーサ橋の上
   ハア 立つは河霧 あの岩国ゃ夜明け 山は城山 ほのぼのと カランコロンと サーサ橋の上
   ハア 錦川すじ あの鮎は瀬をのぼる 流すいかだは 瀬を下る カランコロンと サーサ橋の上
   ハア 錦川原も あのまだ夜は夜中 鳴いてくれるな川千鳥 カランコロンと サーサ橋の上
   ハア 吉香公園 あの中国一の 春は桜の花となる カランコロンと サーサ橋の上 ♪
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演歌 岩国城

2015年06月23日 | しっちょる岩国

♪ 曲名 岩国城 (山口県演歌)発売1991年
 1 桜吹雪が 城下を染めて 瀬戸の内海 春霞 吉川広家 六万石の ほまれも高き 岩国城
 2 燕返しを 柳の枝に 悟る小次郎 剣の技 三代広嘉 錦帯橋に 命を賭けた 錦川
 3 夕陽きらめく 白亜の天守 浮世絵巻の 夢に酔う 大名行列 お駕籠で行けば 昔を語る 岩国城
   作詞:鈴木 信子 作曲:吉田矢健治 (岩国市出身) 歌:高瀬きよし

 こんな歌碑が吉香公園の菖蒲池を見下ろす佐々木小次郎像のそばにある。その場所は城山山頂の岩国城が四季を通して眺望できるいいロケーションにある。歌詞2番の「悟る小次郎」は、吉川英治作「宮本武蔵」で巌流島で決闘して敗れた佐々木小次郎のこと、作品で佐々木小次郎は周防岩国の生まれとある。

 文藝春秋 七月号、117頁に次の記述がある。『昭和天皇実録』明治四十三年七月六日条には「関ヶ原の戦いに関する戦史の地図をご覧になり、裏切りをする二心を持った者を嫌う旨を仰せになる」とある(以下略 桑野鋭傳育官の肉筆日誌)。二心あるは小早川秀秋のこと。

 小早川秀秋は豊臣家の身内として重きをなしたが、関ヶ原の戦の最中東軍に寝返り徳川家康に勝利をもたらすきっかけを作った武将。この秀秋に対峙したのが「毛利両川」の一人として最後まで西軍のために和平を図った人、それが歌詞の1番にある吉川広家で岩国藩初代藩主として知られる。(このいきさつは、中路啓太作「うつけの采配」に詳しく書かれている)。歌詞2番の吉川広嘉は錦帯橋を完成させた3代藩主。
 
 岩国城は城山の標高200メートルに1962(昭和37)年に三層四階の上に物見を置く桃山南蛮造りの白亜の天守閣として復元され、日本名城100選に選ばれている。眼下に見える錦帯橋から城下町、遠くに瀬戸内海までの景観は日常の雑念を忘れさせる。
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ぽっかり

2015年06月04日 | しっちょる岩国


 40年以上も親しまれた地域唯一のスーパーが閉店して3カ月、店舗は解体され更地になった。大きな木の杭が道路との境界に立っている。近くの人は跡地の活用は定かでないと話す。更地の前に立つと、観光ホテル、岩国城、城山ロープウエイが遠くに見える。近くには宇野千代の愛した「割烹半月庵」の文字が白壁にくっきりと浮かぶ。

 右側には170段の石段を上ったとこに1626(寛永3)年創建の椎尾八幡宮が所在する。この八幡宮は、2代吉川広正の時、岩国山より和木村に通ずる椎尾の地にある古神祠に猿田彦大神を祀った。これを岩国山南麗の現社地へ移し、同時に吉川家累代の産土神・駿河八幡宮を領内由宇村より迎えて合祀し、椎尾八幡宮と称した(いわくに通になろう 参照)。ここは「椎尾さん」と呼んで親しまれ、西岩国地区の氏神さまとして子どものころから参っている。

 西側に昔は中級武士の屋敷で侍町であった大明小路がある。そのさらに西側には「岩国七町」と呼ばれる町人居住の町があった。米屋町、塩町、材木町、魚町、豆腐町など職業をなぞった町名表示が今も各所に見られる。この地域は2007(平成19)年「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されていることはあまり知られていない。七町も郊外型店舗に押され閑散としている。

 スーパーは錦帯橋から500メートル。元々は、明治33年に劇場「錦座(にしきざ)」として開業した。内部は花道のある立派な建物として印象に残っている。錦座は錦帯劇場(きんたいげきじょう)と名前を変え、閉館前には映画館となり3本立てを楽しんだ。1972(昭和47)年に外観は劇場のままスーパーとなり1976(昭和51)年に解体され建て替わった。現在も残っていたら岩国を代表する建築物になっている。そんな城下町の中心にぽっかりと空きができた。フォローしていきたい。
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紅葉谷です

2015年05月29日 | しっちょる岩国


 岩国の名勝・錦帯橋近くの吉香公園にある紅葉谷公園と宮島の紅葉谷公園、これを聞き間違えたことから殺人事件が発生する。推理小説「箱庭」を読み終わったときTVドラマにならないかと思った。それがドラマになったのは8年くらい前、実名ではなかったがホテルや病院、柳井市や島根県の町、ドラマとなったテーマはなにか、など地域を知っている者には面白い展開だった。推理作家・内田康夫の浅見光彦シリーズといえば思い出される方もあろう。

 名前のとおり紅葉で知られた観光地。岩国のそれは錦帯橋からも近く平坦な地形は高齢者や小さなお子さんも安心して散策が出来る憩いの一帯になっている。付近には吉川藩時代の史跡も多く近代岩国の起源を知ることもできるが、それらへの公の注力は少なく、崩れ落ちた由緒ある建造物の跡地が長く更地状態にあるなど観光立地を標榜する自治体住民としては心もとない。

 そんな紅葉谷、今は緑の薄い色から濃い色までが紡ぎあって人では描けない自然模様を立体的に展開している。燃えるような秋とはひと味もふた味も異なる、落ち着きのある爽やかな光景に感じる。たまに聞こえるウグイスの鳴き声が興を添える。

 紅葉谷公園には吉川家の菩提寺洞泉寺を始めとして岩国の歴史を刻む由緒ある寺がある。公園を城山登山口へ向かって進むと道の中ほどの左奥に、あまり知られていない一対の文人石の像がある。これは朝鮮高麗王朝時代のもので豪族の墳墓の前に設置され守護像としての役割をなすものであり、韓国固有の伝統的文化財という。これと並ぶように元禄から明治維新まで廃寺政策など幾多の変遷をへた梅ケ枝薬師堂がある。古人の信仰への深甚な思いが伝わる必見の場所、静寂の中でそう感じる。
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二つの南条踊り

2015年05月04日 | しっちょる岩国

 「錦帯橋まつり」、これは国の名勝に指定されている錦帯橋を中心に繰り広げられるまつりで、毎年4月29日に行われる。奴道中に大名行列、地域の民俗芸能などが道中を練り歩く。中でも渡橋禁止された錦帯橋をこれらの行列が渡る様子は必見と好天気にも恵まれ4万人の人出だった。

 この中に2組の初参加が紹介された。一つは地元の「小糠踊り」、もう一つは「長門市湯本南条踊り」。小糠踊りは、江戸時代から踊り継がれてきた岩国城下の盆踊り、太鼓の調子にあわせゆったりした優雅な踊り。昔は錦帯橋近くの路地踊として夏の夜にあちこちで踊られたもので年配の人には懐かしく、この日も追っかけです、という人もいた。踊を復活して地域を盛り上げたい、応援隊も結成され、今夏の実現が待たれている。

 湯本南条踊り。南条踊りは「岩国南条踊り」だけと思っていたが、岩国と縁のある南条踊りが他にあることを知った。南条踊りは伯耆国の羽衣石城主・南条元続と毛利家臣・吉川元春との戦に縁のある踊り。元春の許しを得て岩国藩の踊りとなった。長門の俵山に在住した藩士数名が岩国藩在の折、吉川家の許しを得て習得し、持ちかえり再編、現在まで続くという紹介があった。

 湯本の踊り子数十名は成人で、岩国の児童だけによる違いに驚き、湯本ではしっかり継承されていることがうかがえる。湯本は赤や黄、紫といった原色の飾りものも身にまとい大きな動きの踊りだった。岩国のそれが静ならあちらは勇壮で華麗な感じを抱いた。違いはあっても共に岩国の地が起こりとする「県指定無形民俗文化財」、エールの交換を続けてほしい。
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卆寿展

2015年04月19日 | しっちょる岩国


 書道展の会場に足を踏み入れた瞬間、迫りくるエネルギーのような波動を感じ、何か身体が熱くなったようで一瞬だが立ち止まる。何度か訪れた絵画や写真展では感じたことのない初めての経験をした。

 訪れたのは石田霞村(いしだかそん)さんの書道展。この度、卒寿、今年2月に数えの90歳になられたことを記念しての作品展会場。国内だけでなく海外でもその書道活躍は高く評価され国際文字文化芸術賞、パリ芸術院展名誉賞、国際芸術大賞など国内外で多くの賞に輝かれている。会場ではその一端を伺うことができる。緻密に描かれた日本画にも驚いた。

 太い字細い字優しい字、小さな木片から手では持てそうにない大きな扇など100点の作品が並ぶ。作品には判読できない字句が多い、なのに作品に引き寄せられる。最初に感じた波動はそんなところから出ているのだと思う。会場で立ち会っている門下生の知人が色々説明してくれた。初めての内容で驚くことばかりだった。今も毎日筆を持たれ作品は中腰で書かれる。大筆で書き上げた作品へしたためる小さな文字の雅号でも筆を変えないという。そばにいてもただ驚くばかりらしい。

 若いころ、石田さんとは同じ課で優しく声をかけてもらっていた。職場異動され出合う機会は少なくなっていたが、私も異動し再び出合う機会が増えた。子どものころから始められた書道、退職されるころ書道界で名を知られた人だと初めて知った。退職記念に「一期一会」の書を残された。教育施設に同僚と掲げたことを誇らしく思った、30年あまり前のことを思い出す。会場出るとき交わした握手の感触は道を極めた人の温もりだった。

(写真とお名前の掲載は了解をいただいております)
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紅梅の下

2015年02月26日 | しっちょる岩国


 関ヶ原の戦いは東軍が勝利し徳川家康が権力を握った。対した西軍の総大将は毛利輝元、輝元の有力武将である吉川広家は参謀として参じた。西軍の敗戦、その後の領地没収などの曰くは長編小説になるので別の機会にしよう。家康は輝元に周防・長門の2国を与えるとし、広家は岩国に居城することを申し渡された。以後、岩国は吉川家が治める城下町として発展していく。その吉川家墓所が吉香公園の紅葉谷入り口にある。

 墓所は常に静寂な雰囲気を保っている。ここには、藩主吉川家の12代まで(6代経永)を除く当主及び一族の51基が並んでいる。ここは、3代広嘉、4代広紀の眠る「寺谷のお塔」、そこを少し登ると初代広家、12代経幹画」眠る「山のお塔」に」別れている。ここには「みみずくの手水鉢」や「誰が袖の手水鉢」など芸術品としても高い評価の彫刻がひっそりと佇んでいる。墓、石灯籠、手水鉢などは史跡に指定されている。

 その墓所近く、ロープウエイ山麓駅から歩いて2分のところに杉木立に囲まれた臨時駐車場ある。その入り口に1本の大きな紅梅が生えている。咲き誇ったときの姿は何年も見続けているがちょっと誇れる1本と思っている。咲き始めるとカメラ愛好家の咲き始めた、2分開いた、3分咲き、など腕を振るわれた写真とともに発信される。出不精者にも香りはしないが様子だけは知ることができる。見ごろですし、お出かけください。

 花もいいが、この紅梅を引き立てているのが根元にある崩れ落ちている土壁の姿。女性カメラマンが「この壁があるので毎年来ます」と言わせるほどの存在感がある。古くて、崩れていて、それが好かれる、世の中にそれほどは無いだろう。土壁、補修するが良いのか否か、撮る人の姿を見ながら悩む。
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岩検の資料

2015年01月30日 | しっちょる岩国


 「岩検(いわけん)」とは「岩国検定実行委員会」の略称で、市民有志で立ち上げたご当地検定を実行する会。有志の力だけで5年間で3回の検定を実施した。受験申し込みは合計228名、うち受験者は205名で合格率は平均で63.8%。受験者は市内居住者はもとより、遠くは石川県や熊本県、県内からは宇部、周南、下松、柳井など各地から「岩国を知っちゃろう」と思われる人に挑戦をいただいた。

 素人の集まりで始めた検定、自慢話で恐縮だが「これまでに無いくらい真剣にかつ真面目」に新たな挑戦に頑張った。すると、故郷の姿を知っているようでほとんど知らない。知っていてもその表の薄い表皮だけ、それで知っていると思い込んでいたことに気づく。先人の知恵に学び教えられるうち、生まれ育った地への誇りを感じ始めた。

 この間、多くの資料を会員で共有した。「検定テキスト」が必要という受験者の声を受け「いわくに通になろう」という120頁ほどのテキスト本を発行した。市内万遍なく取り入れた内容な約260項目、地元紙で市内を知るための「宝石のような1冊」と評され会員で喜んだ時の気持ちの高ぶりは今も記憶している。希望はあるがテキスト本の再発行は有志の会では困難。そこで考えテキストをCD出版したことで、希望者にはいつでも対応できる体制になった。この間のいきさつは先日、岩検代表により「岩国検定物語」として1冊にまとめられた。

 検定で作成した問題は3回合計で150問。問題作成方針は初回から、「少し長文になるが、問題を読むことによって回答の周辺事情も解る」と工夫を凝らした。150問を自己流で小冊子にしてみた。B6版の小型だが80頁あまりになった。通して読み頁を繰ると「セカンドテキスト」になっている。問題作成の意図が貫かれている。問題集を持つだけでもいわくに通になれそう。CDを含むこれらを「資料4部作」として大事に残す。
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役に立つ人

2015年01月21日 | しっちょる岩国


 年が明け小さな記事だが立志式の3文字が載り始めた。これは「元服にちなんで数え年の15歳を祝う行事で中学2年生が参加する。参加者は自分の将来の夢や決意、目標などを明らかにして、おとなになることの自覚を深める」。二分の一成人もあるから四分の三成人ということになる。私らの時代にはなかった。残念だがその式を見たこともないので感想が書けない。

 市内の公園に「立志の碑」がいたるところに建っている。そんな一つに、吉川家歴世の産土神として敬った白山比め神社の一の鳥居をくぐった左奥、よく見ないと見落としそうな場所に「藤岡市助博士のことば」の碑がある。日本のエジソン、電気界の父と紹介されている。偶然か否か、その場所は、城山ロープウエイ山麓駅そばに建つ市助像の背の方角に当たる。

 碑には、藤岡市助博士10歳の書「至善」が刻まれている。この2字は「博士が常々口にしていた「『僕は人に役立つことをしたい』と対をなす生涯の生活信条」と説明がある。「至善」とは「この上もない善」で「最高善」に同じとある(広辞苑)。

 阪神淡路大震災から20年、その日生まれた子どもらは成人式を迎えた。今まだ学んでいる人も多いがしっかりした考えと行動を持った頼もしい姿が多く紹介されことを心強く思った。それらは「人のために役立つ」ものと感ずるので今後の活動に期待する。新しく立志式を迎える数えの15歳皆が、今年も多くの自然災害に出合った経験を活かし、次世代を担う「役立つ人」になることを期待する。
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岩国検定物語

2015年01月12日 | しっちょる岩国


 手元にB6版の一冊がある。よく「世に一つ」とその存在を例示する言葉はいろいろある。希少品、逸品、珍物、名品、貴重品など対象によって使い分けはあるがいづれも「何だろう」と思わせる言葉だ。TV鑑定番組の「いい仕事してますね」、この表現は手元の一冊にまさにピタリと当てはまる。

 ブログを冊子様式に変換された「岩国検定物語」の全文が「お暇な時に読んでみて下さい」とOさんからメールで届いた。その「まえがき」を借りると「この本は、私の書いているブログ『写真エッセイ&工房木馬』の内で、2009年12月15日にから2014年12月末までの内、計3回実施した『岩国検定』にかかるものを抜粋して古いものから順にならべてみたものです」とある。早速、印刷、表紙は保存を考えて少し厚い用紙で自己流にデザインし製本した。

 県内のご当地検定は自治体や公的機関が主体になって実施されているが、当市ではそれらに取り組む姿勢がない。そこで、報道でも全国的に珍しいと記事にされた「民間人有志の会によるご当地検定」を立ち上げた。その立ち上げから5年、この間に3回の検定実施、テキスト本の発行とそれのCD化、さらに問題作成の苦心談などこの間の貴重な記録になっていて、活動の様子が凝縮して伝わる57編を一気に読み終えた。

 検定委員会の代表はブロガーのOさん。問題作りで、納得するまで文言一字一句を正確に表現する姿勢は、観光客誘致を図る自治体職員に学ばせたいと何度も思った。同時に、検定の位置づけの重さを強く自覚することにも連なった。掲載のたびに読んだブログも本として纏まり読み返すと、昨日のことのように思いだす。我が活動の一つとして書架に残す1冊とする。Oさんに感謝。 


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