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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

3週間遅れで始まる

2020年06月24日 | しっちょる岩国

 昨日の午後8時前、新型コロナウイルスの影響で1日から始まる予定が遅れていた錦帯橋鵜飼いの開幕を告げる数発の花火が上がった。この鵜飼は岩国の伝統ある夏の風物詩として知られている。報道では、この幻想的なショーを遊覧船で見れるのは、感染拡大を防ぐため予約した人だけという。9月10日まで遊覧船は運行される。

 寛永年間から400年続くといわれる伝統漁法、中断もあったが1952(昭和27)年に復興した。これはキジア台風で流失した錦帯橋が再建される前年に当たる。鵜飼いの開催は気象条件に左右される。台風や長雨で増水すると開催は出来ず、増水の流れに揺れる悔しそうな鵜飼い船や遊覧船を見ている。

 市民や多くの観光客でにぎわうが錦帯橋の鵜飼いは、岩国藩主(領主)の家族も楽しまれた風物詩だったという。それは延宝5(1677)年8月2日、萩から取り寄せた2羽の鵜を使って錦帯橋で鵜飼いが行われ、藩主吉川広嘉の夫人・姉妹・姪らが見物したという記録が残されている。吉川広嘉嘉は錦帯橋を創り出した藩主。

 ある上司の本店転勤の送別会。本人のたっての願いで、遊覧船を連結したお座敷船で、鵜飼いを見ながらの宴を開いた。その後、こちらに出張の機会に鵜飼い見物をしたいという所望で手配したが、2回とも増水で見送りになった。近くにいると気付かないが、鵜飼いはそのくらい人をひきつけるものがあるのだろう。陸から眺めるだけで乗船することはなくなったが、少し静かな観客の様子に鵜は何か感づいているかもしれない。繁盛と事故のないことを祈る。
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これが1部200円

2020年06月14日 | しっちょる岩国

 岩国徴古館は岩国でただ一つの博物館。ここは1945(昭和20)年に完成した洋式レンガ壁、木造瓦葺き、2階建でモダンな造り。戦時下で建築資材の鉄は入手困難で、竹筋コンクリート造りという珍しい存在という。12代吉川経幹(つねまさ)の次男重吉(ちょうきち)の郷土に博物館をという遺志により作られた。

 博物館だが入館料無料、郷土の歴史に興味ある人はもちろん、場所が吉香公園ということもある観光の人らの姿も多い。入館すると国の名勝・錦帯橋のありし日の姿があり興味を引く。隣接する吉川歴史史料館とあわせ岩国の歴史を学ぶことができる。そんな徴古館発行の「マンガ岩国人物伝」、これまでVol4までが発行されている。

 1は「幕末を駆けた一陣の風 赤禰武人伝」(岩国・柱島生誕・第三代奇兵隊総督)。2は、長州藩の危機を救った領主 吉川経幹伝」(十二代岩国領主)。3は「勤王の志士、実践の教育者 東沢瀉(ひがしたくしゃ)伝」(岩国・錦見生誕)。4は「岩国の悲願錦帯橋を創りし領主 吉川広嘉(ひろよし)伝」(三代岩国領主)。

 ほかに150年前の江戸時代末期の錦見(現在の岩国・錦見)と今津の街並みを紹介する絵地図がある。地図は横70㌢の大判で両面カラー印刷、武家屋敷、寺院、町人、農地、公的施設など色分けされており、当時の地域の特徴を知ることができる。こんな面白いものが1部200円、ソフトクリームよりも安く長持ちする。いつか中味を紹介します。
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町の発明研究会

2019年11月20日 | しっちょる岩国

 「驚きの発明品が次々登場!」、これは昨日の夕方、NHK山口で放映され新聞番組欄に載っていた番組紹介の内容。登場するのは知人のNさんがリーダーをしている「岩国発明研究会」。放映があるという情報を得たので予定を変更して視聴した。見終わってまず驚いたのは、放送時間が7分を超える長~い番組ということだった。

 若い女性レポーターを出迎えたNさんは写真のような姿。椅子がないのに椅子に座っている姿勢、これにレポーターは驚き、「浮いている、どうなっているんですか」としゃがんで探すが椅子は無し、昔の言い方にすれば「キツネにつままれた」様子だった。浮遊姿勢の仕掛けを明かされるとレポーターの疑問顔が柔和になり若さが戻った。 

 Nさんの発明への取り組みを聞いたことがある。不思議だなと思ったことを解決する。その時、みんなと楽しむことが大事、そのためにどうするかもう一工夫する、なんの難しさを感じさせない、普通の世間話をするようにすらりと話す。発明歴30年を感じる。

 紹介された竹トンボ練習機、シャボン玉発生器などは地域イベントで披露、子どもから高齢者まで笑顔で楽しめ、順番待ちになる。紹介は無かったがシャボン玉の連続発生器も人気、いつか紹介します。 放送終了と同時に県内各地から電話が掛かったという。やったねNさん。
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高齢者の買い物道に

2019年08月30日 | しっちょる岩国

 藩政時代から続く古いと言わず歴史ある町並み、子どものころのころからすれば随分変わったというか変化したというのか、記憶にある活気は遠のいた町になった。それは通り全体であったり、老舗の店舗であったりする。大きな変化のないのは昔のままの狭い道幅、舗装はされたが、通れば和を感じて懐かしい。

 ある専門店を閉店した同級生は「原因はいろいろあるが、通りの狭さが車社会に置いていかれたことも原因のひとつ」と、店じまいの準備をしながら話してくれた。 道の拡幅には大きな問題が生じることは分かっている。ましてや、通り全体や地域全体となるとおいそれと話は進まない。そして歴史ある通りともなればほかの要因も入ってくるだろう。

 そんな道沿いで解体される家も多い。多くは建て替えで、道の境界から引いて建つ。その引いたスペースは自家用車の駐車区画になっている。知人は、古い作りの家では、子どもの成長に合わせた今どきの学習環境が作れない、と新築の話してくれたのは随分古い話になる。町も家もその時代に遅れない対策が必要だと教えられた。

 「ローマは一日にして成らず」という。古くなったこの町だが、藩主は入府してから町を作ることに力を注いだと残されている。人影が復活する策はないだろうか。今、キャッシュレス化がはやされる一方で、高齢者は対応困難とされる。カタカナを使わない昭和時代の小売商店が軒を連ね、小銭で買い物が出来る通りにしたら、高齢者の散歩道にもなり人影が復活するかも。その時は車の通行の少ないことが大きな利点になる。そんなことを思いながらぶらぶら歩いている。
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74年前の岩国駅

2019年08月14日 | しっちょる岩国

 74年前の8月15日は太平洋戦争の終わりが告げられた日。その前日、岩国駅前は米軍の空爆で大きな被害を被った。手元にその時の状況を描いた1枚の絵がある。その絵にそえられた説明の一部を転載する。第1波の攻撃時刻は午前11時5分で第3波まで続き11時45分終わった。投下された爆弾は500ポンド弾1446個。あたかも夕立の如くであり、地上に直径15㍍ほどの大穴が空いた。

 さらに続く。この絵は12時30分頃の風景であるが、戦争は二度と繰り返してはならないことを如実にも物語っている。メモとし続く。B29爆撃機数60機。死者517人、負傷者859人、行方不明者30人、全壊家屋543戸、半壊家屋343戸、罹災者5911人。この絵は爆撃から45分後の岩国駅ということになる。今年もサイレン吹鳴に合わせ黙祷した。

 夕立のごとく降り注いだ爆弾の大穴は、昭和30年代半ばころまで、駅を少し離れた地域では見られた。フナが良く釣れる、そんな話も聞かれた。大穴は駅周辺を「ハチの巣」状に変え、岩国爆撃の説明では必ず紹介されている。

 この絵は、昭和61年から同62年にかけて郷土紙に掲載された「岩国今昔」の原画のコピー所持者のご好意で複写さて貰った30枚ほどの1枚。当時は今と違い事件事故直後の映像が容易に残せる時代ではなかった。それだけにこのカラーの1枚は貴重だと思う。広島原爆被爆者の話を忠実に描いて伝え残す高校生の活動が報じられた。モノクロでしかない語りが色彩化されることで、インパクトのある伝承になることを期待する。
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桑重儀一画伯 2

2019年05月24日 | しっちょる岩国

 昭和14(1939)年発行の「山口懸人物史」に岩国出身の一人の洋画家が紹介されている。その書き出しは、「本邦洋画界に名声の嘖々たる人に美術科出身にして現在太平洋美術学校教授、 自由学園女学校講師、洋画家桑重儀一氏あり」とし「山口県人として斯界に頭角を抜けるは頗る意を強くすることなり」と続く。

 これは4年前の夏にアップした「桑重儀一画伯」の1節。そのいきさつは、茅野 友さんの紹介で桑重儀一画伯の生家を訊ねる機会に恵まれ、絵画はもとより絵付けされた陶器、墨絵など多くの作品を拝見した日に載せたものです。そのなかで、次代に伝え残す施策が欲しいと短く書いていた。

 素晴らしい作品が生家で眠っていることを知った市内在住で、岩国の文化向上に熱い想いをいだいておられる篤志家の方の努力で「桑重儀一展」が錦帯橋畔の五橋文庫で開かれることを茅野さんおブログで知った。訪れた日、館長さんの案内で展示品についての解説と、収集での逸話など思いがけない貴重な時間を過ごせた。また、偶然だが篤志家の方にもお会いし話を伺った。

 館長さん、1枚の絵(写真)を指しながら「洋画家として雅号を記すとき漢字でなくアルファベットでサインする。そのために雅号を練習されたのではないでしょうか」と話された。そこには何種類もの「G.Kuwashige」が記されている。サインにも作品と同じ値打ちがある、そう思いながら鑑賞した。続きはこの次に。
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錦帯橋は国道だった

2019年03月09日 | しっちょる岩国

 「話はどこでどう転ぶか分からない」という。思わぬ展開があるということだろう。先日、車の自動運転車について実用化はいつだろうかという話が、我が町の狭く曲がりの多い道でも使えるのか、期待するが気がかりな話題になった。話の終わりに「錦帯橋はその昔は国道だったと聞いた」という話に誰もが驚くというより信用しなかった。

 錦帯橋は1673(延宝元)年に、洪水にも耐える恒久的な橋の建設を目指し、第3代岩国藩主・吉川広嘉の命によって架けられた。日本三名橋の筆頭、三奇矯のひとつとして知られる木造アーチ構造で世界的にも例がない。幾度か台風や洪水で被害を受けたが都度修復を行い観光のシンボルになっている(いわくに通になろう参照)。

 国道は国が政令で指定した道路の総称で、標識は丸みを帯びた逆三角形で知られる。国道が制定されたのは1876(明治9)年であるが、錦帯橋はその翌年に国道に指定されている。当時、錦川を渡る事が出来る橋は錦帯橋だけだった事が理由という。1914(大正3)年、錦帯橋下流に臥龍橋が架けられ、こちらが国道となり錦帯橋は市道になった。1966(昭和41)年に錦城橋の完成で同橋が市道となり錦帯橋は外れた。

 思いがけない経緯から知った錦帯橋の昔話。そういえば何年か前になにかの資料で見た記憶があり考えてみたが思い出せずにいた。それが思いがけないところから出た。ということで私が短時間で調べた資料と見比べたら大きな違いはなかったので自信をもって載せる事が出来た。その資料は市民活動支援センター編「岩国のへぇ~」(2011年6月)、有り難う。
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くるとん誌七町を紹介

2018年12月11日 | しっちょる岩国

市内北西部の盆地に「株式会社くるとん」という会社がある。会社の理念は「地域の物語を見つけて伝えて、人も自分も幸せになる」、使命は「“くるとん”のメッセージを伝え、心豊かで健やかな生活を支援する」と社のホームページに載っている。丁度5年前の12月、VOL.38号に、所属している「岩国エッセイサロン」が4頁に渡って紹介された。その時の取材と誌面から、理念と使命を実践している雑誌だと感じる。

 購入は5年前のその1冊だけだが、ある医院の待合室で読んでいる隠れ読者の一人となっている。その待合室で、くるとん最新号「岩国七町」(VOL.52、11月30日発行)を目にした。パラパラとめくり、購入と決め読まずに書架へ戻した。岩国七町は「玖珂、柳井、米屋(鍛冶屋)、塩、材木、魚、登冨(豆腐)」で、吉川藩を語るうえで欠かせない庶民の住む町、岩国検定でもしばしば登場した。

 七町の所在は錦帯橋の岩国側(錦見)で、その一つ玖珂町は錦帯橋袂から中土手を下流方向へ歩いて1分ほどにある。七町巡りのスタート地点になる。くるとん(税込み千円)持参で散策すると、武士と町人の生活と暮らしがありありと浮かび来るだろう。これまで数えられないほど歩いた七町、読んで歩けば新しい発見が出来るかも、その時はここに載せよう。

 トップ記事は「川を動かし、土地を造る」。錦川にはいくつか支流があり、それを一つにして今の流れに変え土地を造り七町に至った。岩国小学校付近には支流のひとつが流れていた。聞き覚えの話しが図入りで示されていてつかえがおりた。こんな記事を含む七町の今昔が100頁余で載っている。写真と記事、そして古地図を味わってみよう。
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浮世絵の錦帯橋

2018年11月29日 | しっちょる岩国

 浮世絵、4年前の夏、これほどの浮世絵展が観賞できる最後のチャンスというフレーズに誘われて県立美術館で開催された「大浮世絵展」を鑑賞した。写楽や北斎、広重といった教科書でしか知らない人らの作品に接した。作品は美女、遊女、役者絵も良かったが、北斎の三十六景矢広重の東海道五十三次などは強く印象に残っている。

 「浮世絵とは」、足を運んだ「錦帯橋絵画・浮世絵展」の資料にこう載っている。「浮世」は現代風矢当世風という意味を持つ。浮世絵とは現代の様子を描いた風俗画のことを指す。このため、人々の心が躍るような美人の遊女や歌舞伎役者、心に染みる風景などその時代の様々な風俗画描かれている。浮世絵は庶民性のある事をあることを知った。

 歌川広重の「六十余州名所図絵・周防岩国錦帯橋」、葛飾北斎の「すおうの国きんたいばし」、二代目歌川広重の諸国名所百景・周防岩国錦帯橋」、二代目歌川国定「周防国錦帯橋遠見図」などは時代を感じる。数十点の浮世絵や掛け軸のほかに現在の錦帯橋を描いた作品もある。解説に従えばこれも浮世絵であろうがその評価は次世代になってからではなかろうか。

 浮世絵に書き込まれている文字がある。錦川、横山、大内村、関戸村又は関戸宿、錦見の里、宇津嶺又は宇津山、岩国山、梶尾八幡、鳴子岩などなど、今も通じるこれらの書き込みに古い時代からの連続を想う。錦帯橋はひとつだが、描かれた絵は描く人それぞれ、みんな違っているが見ごたえがあった。
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神か仏か

2018年11月12日 | しっちょる岩国
 「神か仏か岩国様は、扇子(せんす)ひとつで槍(やり)の中」。これは錦帯橋近くの城下町の名残を残す通りで伝わる「小糠踊り」という盆踊り甚句のひとつ。太鼓に三味線そして笛の囃子に合わせて甚句が始めると「神か仏か」が最初にうたわれる。甚句の岩国様とは「吉川経幹(きっかわつねまさ)十二代岩国領主」で長州藩の危機を救った領主として誇れる人をさす。 

 禁門の変により朝敵となった長州藩へ西郷隆盛を大参謀とする15万の征長軍が結成された。長州藩に勝ち目は無いとした藩主の毛利敬親(たかちか)は経幹に幕府との交渉役を依頼した。経幹は西郷とも接触する中で「幕府へ禁門の変を謝罪する」で戦争回避を目指した。西郷も同意だった。このことが、後の薩長同盟の足掛かりとなった。謝罪は首謀とされる三家老の切腹で幕府への恭順を示した。

 経幹は征長軍総督府が置かれた広島の国泰寺にて禁門の変について厳しい詰問を受けた。経幹自身も毛利元徳の供として百艘の大船団で大阪に向かっていたこともあり長時間に及んだが、長州藩攻撃の延期が決まった。この時、経幹は征長軍が槍を構え警護する国泰寺に入場し芸州の人たちを驚かせ、それが甚句として伝わっている。それは元治元年(1864)で今から154年前の今月16日のことだった。経幹はその後の四境戦争でも長州を守った。

 横山の岩国徴古館では明治維維新における岩国領の動きを紹介する「明治150年記念 岩国の明治維新」展が開催中。古文書が読めないのは残念だが、柱島出身の奇兵隊第3代総督についた赤禰武人の晩年の行動や、長州藩が高杉晋作処刑を検討した資料もあるという。パネル説明は素人にもわかりやすい。激動期の岩国を知る企画展だと思う。
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