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日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

復刻料理で語る

2025年04月05日 | 回想
 

 現役最後の職場、製造部スッタフから人事課への異動内示に驚いたことは、退職から今秋で25年になるが今もはっきり記憶している。それは40歳になる前だった。それから20年余、60歳の定年まで勤めた。最後の職場での仕事はやりがいもあったし、やったと思っている。定年のとき、「君が思いっきり仕事ができたのは内助の功があったことを忘れるな」と色紙に書いてあったことも忘れてはいない。

 その間に期間の長短はあるが7人の課長と4人の係長に仕えた。後半は組織改正で係制は消えた。そんな4人の係長の一人とは別れて30年余になるがいまも交流が続く。10年前には、私の75歳の節目にと、在京しているかつての同僚との懇親会をアレンジ、10年ぶりの上京で楽しい思い出の一日を作ってもらった。

 それ以降も所用でこちらに来られる時は事前に声がかかり、一杯やりながらあれこれ語りあう。今日は3月初旬に昼食をと連絡があって待ち合わせた。昼食をとりながら懐旧談やかつての同僚の今などを語り合った。入社間もなくで若手だった同僚の活躍を喜んだ。昼食はかつては何度も利用したことのある店の「25年目に復刻した」という定食と、地酒の数種類を味わった。

 会社・工場はすっかり様子が変わり、いくつかの話題には驚きと、現役の時もそうであったように、時代や社会の変革にあわせて企業も変化し進化していくことを改めて思った。退職をした工場は日本初の石化工場として稼働から67年になる。安定安全運転の続くことを祈っている。

 (今日の575) 懐旧談苦い話しもふっと出る
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私の欠点

2025年03月28日 | 回想

 お寺の山門横の掲示に「人の欠点がよく見えることが 私の欠点なのです」とある。それを見つめながら、遠い遠い記憶がよみがえった。小学校6年の時だった。ある悪戯(現在の虐めに似ている)に注意したら、私にいじめられたと担任に告げたらしい。私を呼んだ担任は「出しゃばりが君の欠点だ」と私から何も聞かぬまま告げた。なぜ抗弁しなかったのか、できなかったのかは思い出せない。

 欠点てなんだろう。「不完全な所。非難すべき所。短所」と広辞苑には載ってる。そのほか、「やりそこないや失敗、合格点に達しない」などとある。欠点の無いのが完全、今日から始まったプロ野球公式戦、「完全試合」を達成すると、特に投手については報道の扱いも広いスペースが与えられ大絶賛の声で埋まる。世間は欠点は叩くが完全はほめちぎる。

 自分で分かっている、あるいは思っている欠点を列挙しても始まらないが、あの人の欠点を書き出せと言われれば出来ると言える。しかし、それは己の欠点と思う内容と似たり寄ったりで、わが身の反省材料にほかならない。短気を起こすな、立腹したら一息ついてから言え、相手を誹謗するな、そんな事を思いながら欠点を探す。

 「良いとことだが欠点だ」と言われたことがある。それは「困った」と相談を受けたとき、すぐに対応して解決した。その結果についてある先輩から「ひといき考えさせてから助けを出すべきだった」と一言あった。独りよがりは欠点にもなる、注意がいるんだ。

 (今日の575) 欠点を補う術は我にあり
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山火事の怖さ

2025年03月26日 | 回想

 岩手県大船渡市で大規模な山林火災が発生して今日で1ヵ月になる。昼のニュースでは、完全な鎮火に向けて残り火や熱源の確認や取り除き作業が続いていると報道された。避難生活を余儀なくされている人も多く、始まった仮設住宅建設の完成を待たれているという。

 しかし、大船渡から岡山市、今治市、宮崎市と立て続けに山林火災が発生しどこの市でも避難指示が出ている。乾燥と風の強さが火災を大きくし鎮火作業を難しくしているという。夜間や強風下ではヘリでの消火は出来ず、地上での消火作業は危険を伴い満足には出来ない。早期の鎮火は、災害を伴わない降雨を期待するしかないのだろうか。被災された皆様にお見舞い申し上げます。

 いつ頃だったか思い出せないが山火事の記憶がある。夕方近くだったが火災のサイレン、見ると隣町の方角で煙が見える。特に気にもしていなかったが、床についたころ親戚から「山火事で避難するので手伝って」と緊急要請。外に出て見ると直線で2㌔くらい離れた山が燃えている。そこには親戚がある。急いで出かけた。規制線が張られていたが、応援に来た旨を伝えて親戚に向かった。すでに自衛隊の姿も見えた。

 夕刻に見た煙の火がふた山越えて迫っていた。火のついた燃えカスが斜面を転がり新たな火源となり燃え広がる様が今も目に残っている。山火事の危険と消火の困難を思い出す。親戚は近くに勤務先の独身寮があり、入寮者の応援で素早い対応で事なきを得た。

 (今日の575) 乾燥と風の強さが火勢ます
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米を量った桝

2025年03月21日 | 回想

 物置の隅っこに珍しい物が残っていた。子どものころというか、昭和39年にガス炊飯器を常用し始めたころまで重宝に使っていたもので、ご飯を炊くときに炊く米の量を量っていた物で「ます」と言っていた。写真の大が1升、小が2合5勺の計量に使っていた。子どものころから見ており祖母の代からすると100年を超える代物と思う。

 桝を見て、母が留守の時は、言われた通りに米を量り釜に入れ、水洗いし仕掛けてかまどに掛けておく、という手伝いをしていたことを思い出す。ガスや電気炊飯器で炊くようになってからは、樹脂製の計量カップがついており桝を使うことはなくなった。それでも2回の引越しでも処分しなかったのは父も私も何か思いがあっただろう。

 1升桝内側の底に「財守 黒本尊」という印で押したような文字、それは黒塗りされたような感じもするが明瞭ではない。枡の外側にも文字らしき跡があるが読み取れない。ネットで見ると「黒本尊(くろほんぞん)」について、 「黒本尊の名は、永い年月の間の香煙で黒ずんでいること、また、人々の悪事災難を一身に受けとめて御躰が黒くなったことなどによります。 やはり家康公の命名といわれています」。私には理解できない。
 
 計量器として桝が使われることはほぼ消えたのではなかろうか。ただ、日本酒の世界では残っている。まずは桝酒、木の香りとともに飲む冷酒は美味い。また熱燗2合なども使う。「ます」という音から、「幸福が増す」「益々繁盛」「益々めでたい」といった縁起物としても活躍しています、と載っている。

 (今日の575) 日本酒にゃ合が似合いで味もある
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JRのダイヤ改正

2025年03月15日 | 回想

 春恒例のJRのダイヤ改正は今日から実施される。今回の特徴は4月13日から開催される日本国際博覧会(大阪・関西万博)に出かけるに合わせた列車の増発や、山陽新幹線の臨時列車増設や在来線の有料座席サービスの拡大など、利便性と快適性の向上を図ったとされる。

 また近郊では3月24日にグランドオープンする新しい広島駅ビル(ミナモア)に合わせた増発や有料座席御サービスの設定など、広島近郊エリアへ出かけることが便利になる。また、土休日に広島~岩国間で快速「シティライナー」の増発もあり岩国からの利用が便利になる、などと公報されている。さて万博の入場者はどのくらいになるか、前評判がいまいちだがどうだろう。

 現役のころ、ダイヤ改正に合わせ新幹線は勿論のこと、関西以西のJR全線全列車のダイヤが、名刺を縦2枚合わせたサイズで新聞に折り込みで入っていた。それはそれは便利で、出張時には準備する資料のひとつにしていた。訪問先での予定時間が狂ったときなどには重宝していたことを思い出す。

 現役のころの東京出張。朝6時台に山陽新幹線新岩国駅発、 広島駅乗り換え、 東京駅着、 昼食、 午後から会議、 19時東京駅発新幹線 駅弁と缶ビール購入、 23時過ぎ広島駅着 山陽線普通列車乗り換え、 零時過ぎ岩国駅着、 タクシーで自宅。これが一番楽な出張パターンだった。

 (今日の575) 出張にゃ超勤手当つきません
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テレビ放送開始記念日

2025年02月01日 | 回想

 「2月1日はテレビ放送記念日」という案内を聞いた。日本のテレビは戦争による中断を経て1948(昭和23)年に戦後初の公開実験が行われた。そして1953(昭和28)年の今日、いよいよ本放送が始まった。これまで70年歴史を築いた。この間の進歩は目を見張るものがあり、残っている技術課題は料理番組の匂いと味をどう伝えるかという。民放では8月に日テレが本放送を始めた。

 70年前に住んでいた所ではテレビ電波は届かないと信じられていた。1960年の秋、電気店を営む父の知人が我が家は「高台にあるから映るかもしれない」と受信テストをしたら映った。それは瀬戸内海を超えたNHKの電波だった。だから近所では初めてのこと、次第に広まっていった。

 テレビを見始めて「もう少し早ければ」と母はこぼしていた。それはその年の5月に同居していた母の義父、私の祖父が亡くなっていたので、祖父に見せたかった、よくこぼしていた。テレビは東芝製、当時のテレビを検索したら写真の物があった。確かに右側のダイヤルを回してチャンネルを合わせた。1から12まであった。
 
 テレビを初めて見たのは中学3年の修学旅行で1955年、京都で泊まった旅館だったような記憶が残っている。この時ダイヤル式固定電話も初めて見たように思う。こうした見聞が修学旅行の価値の一つかもしれないが、時代錯誤と言われそうだ。最近TVをあまり見なくなったのは関心を引く番組が少なくなったからだろうか。

 (今日の575) チャンネルを手回しするため立ち上がる
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掘りコタツ

2025年01月27日 | 回想

 今夜から冷え込むという。明日朝には市街地でも2㌢の積雪が予想されている。夏には熱中症予防、冬は凍死予防でエアコンの使用が勧められる。諸物価高騰にあわせ国の補助も途絶え光熱料も高くなっているが簡便なエアコンは欠かせない。室内暖房のストーブ時代が懐かしい。

 日曜日夜のTVの「ポツンと一軒家」をよく観る。一軒家で自然と共生される生活への工夫や人生観に家族関係など毎回有意義な番組と思っている。そんな一軒家でよく登場するのが五右衛門風呂、薪ストーブ、掘りこたつ、いろりなどどれも寒い時期には欠かせないものが残っており、現実に利用されている様子が映像紹介される。その中で掘りコタツは懐かしい。

 父は60年前に建てた家に掘りコタツを設けた。冬になると丸い練炭一つで一日中足を入れれば暖かく過ごせた。3交替の夜勤を終え帰宅した冬場、睡眠には欠かせない暖房だった。ストーブ用燃料の高騰対策としては掘りコタツは1番と思うが、練炭があるだろうか。練炭には怖さがある、それは一酸化炭素中毒、これは死に至るので注意は欠かせない。

 練炭の代わりに風呂を沸かした残り火を使ったこともあった。暖房に使用しない時期は、掛蒲団などを除いて台はテーブル代わりになった。足が下ろせ、畳の部屋しかない我が家でくつろげる場所だった。30年前に自分で建てるときに掘りコタツのイメージは全く起きなかったのに、今になって懐かしいのは歳のせいかも。

 (今日の575) 掘りコタツ蜜柑をおいて冬ごもり
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常備薬

2025年01月26日 | 回想

  我が家には定期的に医師が処方し薬局で受け取った薬がある。ほかに常備薬として切り傷や手荒れなどつける「生活常備薬」と銘打つ薬を置いている。使い切ったので新しく補充したら、容器が小さくなっていることにおどろいたが、勘違いで、大中小各種の容器があり、使う側のことを考えてあるようで嬉しい。 

 母が存命中は越中富山から定期的にやって来る薬売りの置き薬が常備薬だった。置き換えに来ると1年くらい過ぎた薬は持ち帰り、持参した薬と入れ替える。そして、使用した分の薬代を清算する。記憶にあるのは、その時には必ず紙風船を何個か土産のように置いて行った。持ち帰った薬はどうなるのかは知らない。

 そのころは、薬の入った行李を何段も重ね、それを大きな大きな黒い風呂のような布に包み、自転車の荷台に乗せて家々を回っていた。旅先の話をしながら、いや聞かせながら薬を入れ替えるのを見ていた。近所で時々見かけるが今もそんな置き薬の姿が残っているようだ。ただ、時代は変わり自転車は軽自動車に変わっている。

 富山の薬売りについてこんな記述がある。富山藩2代目藩主前田正甫が江戸城に参勤した折、腹痛になった大名に「反魂丹(はんごんたん)」を服用させたところ驚異的に回復したとされ、この事件がきっかけとなり「越中富山のくすり」の名が日本全国に広る。当地吉川藩は和紙を財源として重要ししたが、富山藩は薬を藩財政の重要な位置づけとした。国債漬けの日本、財政の好転策は何だろう。

 (今日の575) 薬草を洗って干して常備薬
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山上り

2025年01月21日 | 回想

 2階のベランダに出ると、街並みの向こうの見慣れた山、その山の端にかかる雲の上部が、その昔、出張の新幹線からちらっと見えた記憶にあるような、遠く離れた雪をいただくアルプスの峰のように見え、なんだか懐かしくスマホで撮った。

 写真には家の屋根や電線、TVアンテナなどが写っており記憶の景色とはかけ離れている。あんな山頂から見渡せる風景はどんなだろうと空想したことを思い出す。今は高感度のTV映像が各地の高山からの映像を映し出して見せてくれる。特に最近はドローンの進化で目線とは異なる位置からの山岳風景が撮られており、見る者を楽しませる。

 同級の知人夫婦は今も全国の山歩きを楽しんでいる。アルプスは年齢的に卒業したというが、年賀状にはいつも山の風景が刷られている。今年は九重山の秋の様子だった。登山という経験は私にはない。子どものころ父について薪用の雑木とりで、道のない急な斜面を上り下りした。今は散歩で200㍍ほどの城山にゆっくりと登るというより坂道を上るが、回数は大幅に減った。

 これまで上った最も高い山は厳島神社のある宮島の弥山、それは標高535㍍で「初代内閣総理大臣伊藤博文は、日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり、と絶賛した」と言われる。そこに職場の仲間と弁当を持って原始林の中を麓から歩いて往復した。今はロープウェイもあり便利らしい。定かな記憶はうすれているが、晴れた日で眺めの良かったことは覚えている。

 (今日の575) 人生の高い山越えいつになる
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切手シート1枚当たる

2025年01月20日 | 回想

 今年の年賀はがきの当選番号が決まった。今年は年賀の出状を昨年の半数近くに減らしたことで当選は期待していなかったが、3等下2ケタ当選番号のうちの1枚が当たった。商品はお年玉切手シート(写真、これは見本でネットから)で組み合わせは例年通りだが、値上げに伴い110円と85円各1枚となった。

 お年玉付き年賀状はがきの発行はSNSの普及拡大や値上げの影響などから大幅な減少で、25年用は10億7千万枚といわれる。元日の配達枚数はこれまでの中で最も少なかったと報道されていた。発行枚数が減れば当選確率はどう変わるのだろう。昨年は切手シート3枚の当選だった。

 年賀状の歴史は古く、普及したのは郵便制度が軌道にのった明治中期と言われる。お年玉付き年賀はがきが発行されたのは昭和24(1949)年からだ。郵政職員だった父は、夕食を終えたからご近所や知り合いの家庭を回り販促活動をしていたということを母から聞いた記憶がある。

 今年は大阪・関西万博が開催されることから、1から3等以外に万博のペアチケットが当たる特別賞も設けられた。番号は下5桁で3本ある。1等は現金30万円など、2等はふるさと小包など、が当たる。1度下4桁の2等が当たったことはある。

 (今日の575) 賀状からあんなこんなが蘇る
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