みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

権威

2024年02月23日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章23−32節

 帰国の折にと、人間ドックを体験しました。苦手なのはバリウムを飲んでの胃のレントゲン。げっぷが出そうなものを飲んだのにもかかわらず、げっぷを出さないようにするなどという「わざ」をしなければなりませんし、さらには台の上で体を二回り回転させるなどの難易度の高い「離れわざ」も…。無事終了しました。

 ここにあるのは宮での出来事です。そこで教えていたイエスのところに、「何の権威によって……」と祭司長や長老たちが迫りました。そうすることで、イエスがひるむのではないかと、彼らは考えたのかもしれません。けれども、イエスの答えは彼らが想定していないことでした。彼らは、イエスの問いかけに答えることができなかったのです。

 しかし、イエスはそれで終わりとはしません。28節は「ところで」から始まります。天からの権威に基づいて教え、わざを行っているイエスに、パリサイ人や祭司長たちが心を頑なにしていることが、どんなに愚かで危険なのかを、二つのたとえによって気づかせようとしておられます。

 31節に、「取税人や遊女たちが、あなたがたより先に神の国に入ります」とあります。これを聞いた「権威者たち」がどんな反応をしたのか、興味が尽きません。彼らにとってイエスが言われたことは全くありえません。どうして自分たちではなく取税人や遊女たちなのだと彼らは驚き、そして怒りを露にしました。

 権威を振りかざすと、本当の権威に気づくことなく、受け入れることもできないのです。


わたしの家

2024年02月22日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章12−22節

 「みことばの光」2月号に載っている「とあるグループの、ある日の分かち合い」という、その「とあるグループ」に参加しました。普段私が出席している祈祷会も「みことばの光」を用いているのですが、集う人によって個性が現われるのですね。良い時間を過ごしました。

 旧約聖書に預言されていたメシアとして、ろばの子に載ってエルサレムに入城したイエスが向かったのは宮でした。当時エルサレムには、ヘロデ大王が紀元前20年に大改修した神殿が建っていて、大勢の参拝者で賑わっていたのです。

 ここには、いわゆる「宮きよめ事件」「目の見えない人や足の不自由な人々の癒やし」、祭司長、律法学者たちとのやりとり、さらに翌日朝の「いちじくの木が枯れる出来事」が記されています。

 エルサレム入城後の出来事について、マルコの福音書11章11-25節も記していますが、読み比べてみると出来事の順序が違ったり、いちじくが枯れる時間的な経過が違ったりしています。どちらかが間違えているということでなく、焦点の当て方が異なっているからなのでしょう。

 13節の「わたしの家」ということばに目が留まりました。イエスは、ヘロデ大王が政治的野心ゆえに建てた神殿を「わたしの家」と呼びます。誰それが建てたからこれは本物ではない、だからやりたいようにさせておけばよいと、イエスは考えてはおられません。神殿の目的を明らかにしておられるのです。

 18節の「都に帰る途中」ということばも心に留まります。「わたしの家」があるからです。しかしそこは、イエスにとっては緊張の場です。ベタニアの滞在先はマルタ、マリア、そしてラザロの家でした。ご自分を心から慕う人々と共に過ごすのは、イエスにとっては安心できることでした。しかし、イエスは翌朝エルサレムに「帰る」のです。

 私はどこに帰るのだろうか……。


この人はだれなのか

2024年02月21日 | マタイの福音書

マタイの福音書 21章1−11節

 隣町のショッピングモール内の理髪店で散髪。帰りに洋服売り場に立ち寄ると、冬物一掃半額セール中。さらに30分限定でその半額となるということでたくさんの人がワゴンに群がっていました。「半額のさらに半額」は人を引き寄せます。

 マタイの福音書21章は主イエスのエルサレム入城の記事から始まります。先週の水曜日に受難節が始まり、今年は3月31日がイースターです。「みことばの光」は3月31日にマタイの福音書28章を読みますので、マタイはイエスの復活前の一週間ほどの出来事にかなりのスペースを割いていることがわかります。

 ここで主イエスがご自分が乗るための子ろばを用意されたのは、旧約聖書ゼカリヤ書9章9節に「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。 義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」とあるからです。イエスは、ご自分が預言どおりのメシアだと明らかにしておられるのです。

 しかし、上着やなつめやしの枝を敷いて歓呼のうちにイエスを迎えた大勢の人々のうちだれが、数日後にイエスが十字架に架けられ殺されることを知っていたでしょうか。

 10-11節に目が留まります。「この人はだれなのか」と言ったのは、おそらくエルサレムに住む人々でしょう。彼らは、群衆(イエスにずっとついて来たののかもしれません)の熱狂に戸惑い、どちらかというとイエスに対して冷めた見方をしたのでしょう。

 けれども「この人はだれなのか」はイエスについて、だれもが自分自身にしなければならない問いかけでもあるのです。


同じように

2024年02月20日 | マタイの福音書

マタイの福音書 20章17−34節

 月曜日に先輩牧師ご夫妻を訪ねました。久しぶりでしたので、あっという間に時間が経ってしまいました。その足で病院へ。たくさんの荷物を預かって戻って来ました。治療の効果が出ているという、嬉しい知らせもお土産に……。

 イエスはガリラヤから都エルサレムへの道をたどります。都でイエスを待つのは逮捕、そして十字架、そのあとの復活だと、イエスは十二弟子たちだけに話されました。最初にご自分の受難を予告したイエスを諌めたペテロが、「下がれ、サタン」ということばとともに、イエスから叱責を受けたことはよく知られています。→16章21−23節

 20節以降にあるのは、イエスの受難予告とどう繋がるのだろうかと、考えてしまうような出来事です。ゼベダイの子とはヤコブとヨハネ兄弟のことです。その母親が、二人の息子を御国でイエスの右と左に座れるようことばがほしいと、イエスに大胆に願います。

 マルコの福音書は、母親ではなく、ヤコブとヨハネが願ったと書いています。どちらが本当なのでしょうか。きっとどちらも起こったことなのでしょう。

 イエスは彼らに答えます。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と。二人はそれが何を意味しているのかおそらくは分からないままに「できます」と答えました。

 イエスがそこことばに「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」とお答えになったように、やがてヤコブはヘロデ・アグリッパによって殺され(使徒12章1−5節)、弟のヨハネは後に皇帝ドミティアヌスの手によってパトモス島に流されます(黙示録1章9節)。

 この二人に限らず、イエスの弟子たちを待ち受けているのは「杯」でした。しかし「杯」が何を意味しているのかについて、彼らはわかりませんでした。

 24節に目が留まります。「上昇」をめざしていたのは、二人だけではありませんでした。こんな彼らに、イエスは低くなるように、仕える者になるように、ご自分と同じように……と勧めるのです。


与えたいのです

2024年02月19日 | マタイの福音書

マタイの福音書 20章1−16節

 日曜日に出席した礼拝、子どもたちの賛美が生き生きとして、未来に希望を抱かせる教会だと嬉しくなりました。

 ここでの「天の御国のたとえ」は、ペテロの心の内側を照らすようなものだったのでしょう。彼はイエスに胸を張って言いました。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」

 最初からあなたの弟子として歩んで来たのだから、私こそ、あなたから良いものをいただくことができるという思いが、このことばに隠されているように思います。

 イエスの「五時から男?」のたとえは、そんなペテロの、いやペテロたちの考えを打ち砕くものでした。確かに、社会の常識で考えるならば朝早くから雇われた労働者と、仕事が終わろうとする5時に雇われた労働者とが雇用者からもらえるお金が同じというのは受け入れられません。

 ですから、12節のいっしょうけんめい働いた人々の話には説得力があります。働く時間が違うのですから、給料に格差があって当然だと思います。

 イエスは、この話にはそんな抗議が起こるのをもちろん知っておられました。ですから、13ー14節のことばに目が留まります。主人は「友よ」と言っています。この呼びかけからは、主人の労働者たちへのこころが伝わってきます。

 14節の「与えたいのです」にも目が留まります。神の恵みを感じさせる覚えさせることばです。神は私にも「与えたいのです」と考えておられるのです。


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