マタイの福音書 17章14−27節
長旅を終える頃に、富士山を眺めると「日本に戻って来た」という実感が湧いてきます。以前にも書きましたが、地図のとおりに景色が拡がっている(実際は逆なのですが)のです。重力ゆえに地にへばりつくようにして歩む私たち、時々は高い所から眺めることが必要だと思いました。
山から下って来た主イエスと三人の弟子たちを待ち構えていたのは、地の厳しい現実。イエスの評判を聞いたこの父親は、悪霊によって大きく苦しめれているわが子を弟子たちのところに連れて来たのです。父親の苦しみ、いや何よりも子どもの苦しみは想像さえできないほどのものでした。
この父親がイエスの弟子たちのところに子どもを連れて来たのは、彼らにも息子を悪しき霊から解放することができると信じていたからです。ところが、弟子たちにはできなかったのです。なぜ彼らはできなかったのだろうかと、考えさせる箇所です。以前にはできたので、今度もできるだろうと彼らは考えていたのかもしれません。もしかしたら、これまでの成功がイエスへの信頼を奪ってしまったかもしれません。
20節の「信仰が薄い」と「からし種ほどの信仰」に目が留まります。この二つが示す意味は全く違います。「信仰が薄い」ということばは新約聖書で5回用いられ、そのうちの4回はマタイの福音書で使われています。「信仰が薄い」とは「薄くとも信仰がある」と考えるかもしれませんが、そうではありません。「不信仰」「信仰がない」という意味でイエスはこのことばを用いておられます。しかも、相手は弟子たちなのです。
一方で「からし種ほどの信仰」とは、信仰がある、イエスに信頼しているのです。それはか細い声かもしれません。弱々しい人が神に信頼しているのかもしれません。子どもかもしれません。しかし、この人々には信仰がある、イエスを信頼しているのです。
「ある」と「ない」とでは大違いです。