マタイの福音書 20章17−34節
月曜日に先輩牧師ご夫妻を訪ねました。久しぶりでしたので、あっという間に時間が経ってしまいました。その足で病院へ。たくさんの荷物を預かって戻って来ました。治療の効果が出ているという、嬉しい知らせもお土産に……。
イエスはガリラヤから都エルサレムへの道をたどります。都でイエスを待つのは逮捕、そして十字架、そのあとの復活だと、イエスは十二弟子たちだけに話されました。最初にご自分の受難を予告したイエスを諌めたペテロが、「下がれ、サタン」ということばとともに、イエスから叱責を受けたことはよく知られています。→16章21−23節
20節以降にあるのは、イエスの受難予告とどう繋がるのだろうかと、考えてしまうような出来事です。ゼベダイの子とはヤコブとヨハネ兄弟のことです。その母親が、二人の息子を御国でイエスの右と左に座れるようことばがほしいと、イエスに大胆に願います。
マルコの福音書は、母親ではなく、ヤコブとヨハネが願ったと書いています。どちらが本当なのでしょうか。きっとどちらも起こったことなのでしょう。
イエスは彼らに答えます。「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか」と。二人はそれが何を意味しているのかおそらくは分からないままに「できます」と答えました。
イエスがそこことばに「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります」とお答えになったように、やがてヤコブはヘロデ・アグリッパによって殺され(使徒12章1−5節)、弟のヨハネは後に皇帝ドミティアヌスの手によってパトモス島に流されます(黙示録1章9節)。
この二人に限らず、イエスの弟子たちを待ち受けているのは「杯」でした。しかし「杯」が何を意味しているのかについて、彼らはわかりませんでした。
24節に目が留まります。「上昇」をめざしていたのは、二人だけではありませんでした。こんな彼らに、イエスは低くなるように、仕える者になるように、ご自分と同じように……と勧めるのです。