マタイの福音書 21章33−46節
数日前とは打って変わって、気温の低い日が続きます。そのようななかで病院へ。今回は入院しているお姉ちゃんの弟と妹との久しぶりの再会です。面会は許されていませんが、届けものを渡すというタイミングでちょっとだけ、廊下で会うことができるのです。毎日画面越しに会ってはいるのですが、実際に手を握ったりするのは格別だったと思います。
権威をめぐって迫ってきた当時の権威者たちに、イエスは二つ目のたとえを話されました。このたとえは、これから祭司長たちがイエスに何をするのかの予告でもあります。このたとえでは、登場人物の特定を間違えずにする必要があります。本日の「みことばの光」には、主人は神を、ぶどう園はイスラエルを、しもべたちは預言者たち、息子は主イエスを、そして悪い農夫たちとは祭司長たちやパリサイ人をたとえています。
主人が今度こそとの思いを込めて送ったにもかかわらず、息子は悪い農夫たちに殺されてしまう……、これは祭司長たちがイエスを殺すということです。
40−41節に目を留めます。イエスがぶどう園の主人はその農夫たちをどうするかと訪ねた時、この時点で自分たちが悪い農夫にたとえられているとは気づかない祭司長たちは、もっともな答えを示しています。
しかし、そのあとのイエスのことばを聞いて、彼らは憤ります。「神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます」とイエスが言われたからです。自分たちこそ神の国にもっとも近いと考えていたのに、イエスはそうではないと断言されたからです。
最後の45節は、祭司長たちが本当は何を恐れていたのかを明らかにしています。彼らは神への恐れをどこかに追いやっていたのです。
*マタイ21章23−32節について、読者のお一人から、イエスがたとえた「兄」と「弟」についてお問い合わせをいただきました。「みことばの光」では兄を取税人や遊女たちであり、祭司長たちは弟だとあったが、逆だと考えていた…とのことでした。お問い合わせありがとうございます。「みことばの光」そして本ブログをお用いいただきありがとうございます。
31節で、「兄です」と祭司長や長老たちが答えたとき、イエスは取税人や遊女たちが先に神の国に入っていると言っておられます。一方でイエスは、行くと言って結局行かなかった弟の姿に祭司長たちを重ねているのだと考えることができます。ですから、ここでは取税人や遊女たちが兄にたとえられ、祭司長たちが弟にたとえられていると理解することができます。