マルコの福音書 1章21−34節
日本では3月ごろに咲くレンギョウが満開。早咲きの品種なのでしょうか。驚きです。
この箇所は、安息日にカペナウムで起こったことを取り上げています。一つはイエスが会堂で教えられたこと。人々を驚かせたのはイエスが「権威ある者として教えられた」ことでした。以前の翻訳ですと「権威ある者のように教えられた」でした。私の感想ですが、「権威ある者のように」は、もともとは権威がないのに権威があるかのように教えたと取られかねません。
人は背伸びしたがると、自分のことを含めて思います。実際の姿以上に人に良く見られようとしたり、力を持っているかのように振る舞いやすいのではないでしょうか。ですから、一生懸命取り組んでいることを批判されたりすると、ムッと来るのです。
しかし、もともとの権威をお持ちのイエスは、そのまま会堂で教えます。それが人々を驚かせるのです。とってつけたような権威ではないからでしょう。
さらにイエスは、汚れた霊につかれた人を癒やし、会堂を出るとペテロのしゅうとめの病を癒やされます。そのどれもが、イエスの権威がそのように物事を動かしたのです。権威があるからそれを振りかざして誰かを押さえつけたり、力を誇示して相手を打ちのめすのではありません。
イエスは愛によって権威を用いられました。自分の置かれたところで自分に神が与えられたものを、どのように用いるのかを、イエスのお姿は教えているのだと思います。