みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

権威によって

2023年01月19日 | マルコの福音書

マルコの福音書 1章21−34節

 日本では3月ごろに咲くレンギョウが満開。早咲きの品種なのでしょうか。驚きです。

 この箇所は、安息日にカペナウムで起こったことを取り上げています。一つはイエスが会堂で教えられたこと。人々を驚かせたのはイエスが「権威ある者として教えられた」ことでした。以前の翻訳ですと「権威ある者のように教えられた」でした。私の感想ですが、「権威ある者のように」は、もともとは権威がないのに権威があるかのように教えたと取られかねません。

 人は背伸びしたがると、自分のことを含めて思います。実際の姿以上に人に良く見られようとしたり、力を持っているかのように振る舞いやすいのではないでしょうか。ですから、一生懸命取り組んでいることを批判されたりすると、ムッと来るのです。

 しかし、もともとの権威をお持ちのイエスは、そのまま会堂で教えます。それが人々を驚かせるのです。とってつけたような権威ではないからでしょう。

 さらにイエスは、汚れた霊につかれた人を癒やし、会堂を出るとペテロのしゅうとめの病を癒やされます。そのどれもが、イエスの権威がそのように物事を動かしたのです。権威があるからそれを振りかざして誰かを押さえつけたり、力を誇示して相手を打ちのめすのではありません。

 イエスは愛によって権威を用いられました。自分の置かれたところで自分に神が与えられたものを、どのように用いるのかを、イエスのお姿は教えているのだと思います。


時が満ちて

2023年01月18日 | マルコの福音書

マルコの福音書 1章12−20節

 わが家の窓からは、今の季節ですと日の出も日の入りも眺めることができます。写真は昨日の日の出、ほんの4−5分で色が変わってしまいますが、その変化が楽しみです。

 マルコの福音書は、比較的短い段落を少しずつ読み進めていきます。

 ここは、「ヨハネが捕らえられた後」ということばから始まります。ヘロデ王の手によるものでした。このような文章を読みますと、もっと活躍してくれたら…と思うのですが、聖書はあっけなく次のステップへと進みます。それはヨハネに冷ややかだということではありません。ヨハネの務めが終わったということを伝えているのだと思います。活躍している時に、人はもっと舞台に上がっていたいと思うものですが、神が与えられた役目と時とがあることを改めて考えます。

 そして、イエスが働きを始められます。マルコの福音書におけるイエスの最初のことばは、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」です。神が罪人をお救いになるための計画の中で、まさに「時が満ちて」イエスはお働きを始められたのです。これよりも早くでもなく、これよりも遅くでもなかったということです。

 「福音のはじめ」とマルコはこの福音書を始めました。そしてイエスは、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われます。これまでの方向から向きを変えて、福音を信ぜよと促しておられるのです。福音ということばを「わたし」(イエス)と言い換えても意味は変わりません。人間の作った言い伝えを努力して守ることによってではなくて、福音を、すなわちイエスを信じることが救いへの道だと宣言しておられるのです。

 あなたの向きは変わっているか、向きを変えたかとの問いかけがこの宣言にあります。


福音

2023年01月17日 | マルコの福音書

マルコの福音書 1章1−11節

 暖冬のためか、早くも早春の花々が咲き始めています。

 「みことばの光」は、きょうからマルコの福音書を読みます。途中、創世記や詩篇も読むのですが、イエス・キリストの復活の日を記念するイースターに16章を読むようにと、カリキュラムが組まれています。

 イエスの働きを書いた四つの福音書のうち、マルコの福音書は最も短いので、ここから聖書を読み始める人も少なくありません。

 マルコは、マタイやルカのようにイエスの降誕については書かずに、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と始めます。「福音」ということばに目が留まります。「ゴスペル」「グッドニュース」とも言われます。イエスは良い知らせを運んで来られたのです。

 「福音」は、ただの幸せとは異なります。夢がかなうとか、取り組んでいることがうまく行くとか、困ったことが解決するというようなことをはるかに超えた良い知らせを、イエスはもたらされるのです。いや、良い知らせとはイエス自身を指すと言えるのです。

 2節は旧約聖書マラキ書3章1節を、3節はイザヤ書40章3節を引用しているのですが、それをイザヤの書だとしています。まとめてイザヤの書としているのでしょう。

 これらはメシアが来ると、メシアの前に「荒野で叫ぶ者の声」があってメシアが通る道の備えをすると語っています。その実現者としてバプテスマのヨハネが、そしてイエスがいるのです。

 イエスのことば、イエスの行うことをいっしょに読み進めて行くのを、楽しみにしています。


名をあげよう

2023年01月16日 | 創世記

創世記 11章1−26節

 本来なら雪になる頃なのに、気温が平年より高いので雨が降り、河川は増水して洪水の被害が報じられています。

 11章の前半は「バベルの塔」の話、後半はセムの家系の続きが記されます。クシュの人ニムロデは「地上で最初の勇士」であり、「主の前に力ある狩人」だと書かれています。彼はシンアルに王国を確立し、さらに拡大していきました。バベルの塔は、シンアルの地に建てられようとしていました。

 創世記は、バベルの塔をニムロデが建てようとしたとは明記していません。しかし、ニムロデが確立した王国がこの塔をたてようとしたということは、ニムロデの姿勢、影響を反映したものだとは想像できます。

 4節の「名をあげよう」ということばに目が留まります。神は、人々の高慢さに危険を覚え、塔を建てようとする企てをことばを混乱させることによって止めさせようとされました。ニムロデについての紹介では「主の前に…」ということばがありました。それはニムロデの強さは主とのかかわりの中で、主が賜ったものだということを伝えているのでしょう。

 世界には何千という言語があります。言語は自分の考えを相手に伝えるために用いられますが、通じなければ伝えられません。現代は、さまざまな翻訳のツールがあり、大変便利になっています。もしかしたら、今以上に言語の違いを乗り越えるツールが便利になり、ほとんど境目がなくなるときが来るかもしれないという人もいます。

 それはそれでありがたいこと、便利なことなのですが、それが神に反逆するために用いられるのだとしたら、複雑な思いです。つながり合うことによって神をたたえるのではなくて、神に逆らうものだとしたら……。

*ペーテル・ブリューゲル「バベルの塔」(ウィーン・美術史美術館)


契約のしるし

2023年01月14日 | 創世記

創世記 9章

 青空が広がったので歩きに出かけました。しかし、買い物を済ませて出ようとすると暴風雨。仕方なくバスで帰ろうとしてチケットを購入。その途端、再び黒雲が払われて美しい青空が! ……バスで戻ったのですが、何となく損をした気分になりました。写真は豪雨前の空です。

 箱舟から出たノアと息子たちを神は祝福し、かつてアダムに言われたと同じ「生めよ。増えよ。地に満ちよ」と言われ、すべての生き物を彼らにゆだねられました。

 この章には、さらに神がノアたちと契約を立てられたことが記されているのですが、その契約にすべての生き物も対象とされていることに目が留まります。ここから私は、神は人間にすべての生き物を正しく治めるという責任を持たされたのだと考えます。環境が私たちの世界の大きな課題になっている現代、信仰者は創世記1−2章、そしてここでの契約をもとにして、考え生きることが求められていると思います。

 虹が神と地との契約のしるしであるとは、なんと分かりやすいことかと思います。雨が上がり太陽の反対側には大きな虹が上ることがあります。その時神とノアとの契約を思います。神への信仰を持つ多くの人が虹によって、神のこの地へのあわれみ深い契約を思うことができるのです。

 この章の後半に、父の醜態をさらすハムと、それを覆うセムとヤフェテとが対照されます。神の恵みを得、神の契約に置かれたものであっても、間違いは犯すのです。そのようなとき自分はそれをさらそうと思うのか、それとも…と振り返らされる出来事です。


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