マルコの福音書 4章21−34節
当地でも、木曜日は冷蔵庫の中にいるような寒さでした。隣市に向かう途中、目の前には山が迫って来るのですが、上半分には積雪が…。写真に収めたい景色でしたが、運転中なのであきらめました。
イエスはさらにたとえを語ります。「灯を燭台の上に置く」、「秤(はかり)」、「芽を出し実を結ぶ種」、そして「からし種」と続くのですが、「聞く耳をもって聞く」ということを教えるためのたとえだとするなら、何をイエスは教えようとしているのかと、興味が湧きます。
聞く耳をもって神のことばを聞くなら、いつか必ずわかる時が来るというのは、これらのたとえによって届けられる教えであり、励ましです。
このようなことを書きながら、若い頃に牧師になるために学んだ時、「神のことばはわからなくても、それを読み続けるなら聞き続けるなら、わかる時が来る」とある教師が機会あるごとに言っていたのを思い出しました。
その時は、心の中で「わからないことはきちんと調べなければならない。学び調べればわかるようになる」と反論していました。その反論はある意味でもっともなのですが、知的に理解したからといって神のことばがわかるということでもありません。
また、牧師だから教師だからよくわかっているということでもありません。いっしょに聖書を読み分かち合う中で、「そうなんだ!」と教えられるのは度々のこと。
「聞く耳」はキリスト者に必要なものなのです。