みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

頑なな心

2023年01月25日 | マルコの福音書

マルコの福音書 3章20−35節

 「みことばの光」4月号の編集作業も追い込みになりました。表紙デザイナーさんからのメールを開いて、4月号はどんな色調なのだろう……、なるほどこう来たか! と感動。楽しみは12月号まで続きます。

 ここでは二つのグループがイエスについて「評価」を下しています。

 一つ目は「イエスの身内の者たち」です。「イエスがおかしくなった」と人々が言っているのを聞いて連れ戻しに来たのです。「連れ戻しに来た」を、他の日本語訳聖書は「取り押さえに来た」訳します。かなり強制的な行動だったことを思わせる訳です。

 二つ目のグループは、エルサレムから下って来た律法学者たちでした。ガリラヤでの評判はエルサレムにまで伝わったことがわかります。その彼らにもイエスが汚れた霊を追い出したり、人々の病を癒やしておられることを「うそ」と否定することはできません。事実人々は癒やされ、大勢がイエスについて歩いていたのですから…。

 彼らはイエスについて、もっともな判断、評価をしなければならない立場にあったのでしょう。そして「ベルゼブルにつかれている」、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している」、また「」汚れた霊につかれていると決めつけました。なぜ素直に…と思うのですが、中央の権威筋がナザレのラビ(教師)のような者の正当性を認めるわけにはいかないと、心を頑なにしたのです。

 この時、イエスは「勝手に言わせておけばいい」というような行動はしませんでした。はっきり、そして厳しく彼らが軽率に判断していることが決定的な誤りであると指摘されました。人は、自分が何ものかであると自覚していればいるほど、心を頑なにするのだということをここから知らされます。心を素直に…が今日の目当てではないでしょうか。


イエスのそばに置かれる

2023年01月24日 | マルコの福音書

マルコの福音書 3章13−19節

 春を予感させるような晴天の月曜でした。

 この箇所には、イエスが十二弟子を選ばれたことが記されています。すでに多くの人々がイエスに従っていた中から、イエスは十二人を選ばれたのです。

 何かの目的のために人を選ぶのには、基準があります。昨年サッカーワールドカップがあり、日本がドイツやスペインを破って決勝リーグに進んだことは多くの人々を湧かせました。誰を代表選手として選ぶのかについては、いろいろな要素が考慮されたことでしょう。

 十二弟子の選考基準は何か、13節に「ご自分が望む者たちを…」とあります。「望む」というのは好きとか嫌いとかということではないと思います。イエスはいわゆる「お気に入り」を選ばれたのではありません。しかし、具体的な基準は明らかにされていません。おそらく、その後にある、何のためにこの十二人なのかということと関係があるのでしょう。

 十二人は使徒と呼ばれました。ここから、十二人がイエスによって遣わされて福音の宣べ伝えるという務めがあったことがわかります。そのために彼らは、まずイエスのそばに置かれました。「イエスのそば」とは、十二人ばかりでなくイエスを信じるすべての人が生きるため、イエスのために何かをする時の前にあるべきところです。

 私たちは毎日、いろいろな人と出会います。またいろいろな人とともに生活をします。誰かといっしょに生きることは、良くも悪くも互いに影響を与え合います。

 自分がキリストのそばに置かれている、という事実を忘れないようにという問いを、ここから受けました。


怒りと嘆きと悲しみと

2023年01月23日 | マルコの福音書

マルコの福音書 3章1−12節

 教会の礼拝にはオンラインでも参加できるようになっているのですが、このところ音声の具合が悪く、昨日は全く音が聞こえなかったとのこと。それでも、礼拝後の「オンライン分かち合い」には4人の方が出てくださいました。よくぞ忍耐して、と感動しました。でも、何とかしなくては…。

 「人の子は安息日にも主です」と 言われたイエスが会堂に入ると、片手の萎(な)えた人がいました。2節に、人々がイエスをじっと見ていたとあります。イエスがこの人を癒やすなら訴えようと、パリサイ人たちは目論んでいたのです。け落とすことを願って相手の行動をじっと見つめるというのは、陰険な視線です。もしかしたら、彼らが片手の萎えた人を置いたのかもしれないと考えるほどです。

 彼らのまっとうであるかのように聞こえることばを、イエスは怒りをもって聞かれました。それとともに彼らを嘆き悲しんだとあります。さらに、イエスは片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」といっておられます。5節を繰り返し読むと、この時のイエスの御思いをほんのわずかでも教えていただくように思います。

 怒りと嘆きと悲しみと、癒やしのみわざ、イエスの愛はこのように表れるのです。


引っかかる心

2023年01月21日 | マルコの福音書

マルコの福音書 2章1−17節

 同労の人々との祈りの時間を、オンラインで持ちました。日本、イギリス、ベルギー、そしてドイツからと、この時代ならではの集まりだと改めて思います。

 イエスの「人気」は高まり、大勢の人々がイエスがいる家に押し寄せました。その中に四人の人に担がれた中風の人がいたのです。彼が頼んだのか、あるいは親しい人々が彼を説得したのかはわかりませんが、自分ではイエスのところに来ることができないので、担がれたのです。しかも、イエスの前に出るためにあっと驚くような手段を用いました。この、乱暴にも見える行動から、この人たちの熱心を見ることができます。大勢の人々に阻まれても、あきらめなかったのです。

 5節に「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。この方のところに行けば…、この方に頼るしかない…という思い、そこから出てくる大胆な行動に、イエスは彼らの信仰を見たのです。自分の(自分たちの)力ではどうにもならないから、彼らはイエスの前に出たのです。

 「あなたの罪は赦された」とのイエスのことばは、そこに居合わせた人々に衝撃を与えました。なぜイエスは、この人に「あなたの罪は赦された」と言われたのだろうかと、読んでいる私たちも立ち止まることです。この時のこの人に最も必要なことばだったのではないでしょうか。

 しかし、このイエスのことばに引っかかりを覚える人々もいました。律法学者です。確かに、彼らが心で思うように、罪を赦すことができるのは神お一人だけで、イエスにはそのような権威はないと決めつけたのです。しかし、彼らはイエスについて大切なことを見逃していました。

 けれども、イエスのことばに心が引っかかる時こそが、自分の本当の姿を見せられる機会でもあるのです。


イエスが望むこと

2023年01月20日 | マルコの福音書

マルコの福音書 1章35−45節

 しばらくぶりで「寒い!」と感じるような一日でした。それで、木曜日夜はこの冬二度目のおでん! 寒い時はこれですね。

 大きなことを成し遂げた後が危ないということばを聞いたことがあります。安息日にカペナウムの会堂で権威ある者として教え、汚れた霊につかれた人を癒やし、さらに弟子の一人シモン(ペテロ)のしゅうとめを癒やしたイエス。評判はあっという間に広がり、安息日が明けると大勢の人々がイエスに押し寄せてきました。34節に書かれてあるのは受け止め方によれば、イエスの大活躍ということかもしれません。人々のざわめきや驚嘆の声が聞こえてきそうです。

 そのような出来事の翌朝、イエスは一人で寂しいところで祈られました。ここからは静けさが伝わってきます。そして、このイエスの姿は、私たちのあるべき姿勢を教えています。成功し、称賛され、有頂天になってわれを忘れてしまいやすい私たち。大きな誘惑の機会です。それから自分を守るために何が必要なのかについて、35節は教えます。

 38節は、その静まりを経てのイエスのことば。福音を伝えるということがどのようなことなのかを、その後の出来事が示します。

 41節の「わたしの心だ。きよくなれ」というイエスのことばに目が留まります。ほかの訳では「私は望む。清くなれ」とあります。イエスの心、イエスが望まれることは、神が望まれること。神がどのような方なのかを、この一言が十分に伝えているように思いながら、読みました。


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