みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

心に希望を抱いて

2015年11月27日 | エレミヤ書

エレミヤ書 51章45−64節

 きのうは午後、ドレスデンの中心街にある十字架教会のクリスマスを迎える礼拝に参加することができました。ここは、宗教改革後に起こった三十年戦争という暗い時代に多くの賛美歌を作ったシュッツに関わりの深い教会。この教会での礼拝が終わると、鐘が鳴り響きすぐ近くの広場のクリスマスマーケットの幕開けです。写真は、礼拝開始前の教会の様子です。

 バビロンが主のさばきによって滅ぼされるとの預言はここまで。この箇所では、バビロンの崩壊はすなわちユダとイスラエルの回復だということが強調されているようにと読みました。

 特に、59節以降に記されている宿営の長セラヤの思いをあれこれと想像してみました。セラヤはユダ最後の王ゼデキヤとともにバビロンに捕囚されます。その時に彼は、バビロンがやがてさばきによって滅ぼされるとのことばが記された巻物を託されます。バビロンに行って、それを開き読んだセラヤはどのような思いだったのでしょうか。押しつぶされるような強大な力を持つバビロンに連れて行かれて、やがてそれが滅ぼされると記されることばを読み、声を出して祈り、その巻物をユーフラテス川に投げ入れよと命じられるのです。

 セラヤはおそらく預言の実現に立ち会うことはなかったでしょう。けれども彼は、神がやがて自分たちの民をユダとエルサレムとに戻すという確かな希望を心に抱くのです。だれにも語れない希望だったかもしれません。しかし、その希望を抱きつつそれから後の日々をセラヤは歩めたのだと思うと、安堵します。

 混沌としている今、自分が確かな希望を抱いて歩める幸いを、改めて覚えました。


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