エレミヤ書 51章1−19節
昨日は午後に、日本からドイツ旅行に来た方々を訪ねてほぼ一ヶ月ぶりにバート・リーベンツェラという場所に行きました。やはり数日前に雪が降ったようで、途中の峠道は雪景色。皆さんはきのうから来月初めまで、おもに旧東ドイツを回られるとのことです。
エレミヤ書51章は、前章に続きユダを崩壊させたバビロンが神によってさばかれ、崩壊するという預言が記されています。ここには、バビロンの繁栄の姿が描かれます。しかも、それは主によって与えられたというのです。「バビロンは主の御手による金の杯」(7節)。 「大水のほとりに住む財宝豊かな者」(13)。 けれども、バビロンはこれらの物を誇り、頼ったので、主にさばかれてしまいます。
一方ここには、バビロンによって国を失ったユダの回復の様子も描かれています。心にとどめたのは、「来たれ。私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう」という10節のことばです。自分たちの罪のために裁かれたにもかかわらず,主は回復してくださるというのです。その時には、主が何を自分たちにしてくださったのかを語り合わないではいられないのです。「ヤコブの分け前はこんなものではない」と19節にあるように、それは語っても語り尽くせないほどです。
今こそ、主にある者が互いの欠点をあげつらったりすることなくて、主のみわざを語り合うときなのではないか、との問いかけをいただきました。