コリント人への手紙第一 15章12−19節
「ドイツ語でおしゃべり」の帰り道、落ち穂拾いならぬ「落ち胡桃拾い」をしました。多くの実はなくなっていましたが、15個程度を「収穫」しました。「ドイツ語でおしゃべり」には、私たちの他、イランの方が出席していましたので、ドイツ語のほかにペルシャ語が飛び交ってとてもおもしろい時間でした。導いてくださる方が私たちに、「二人は家での会話をドイツ語でするように」と命令(?)されたのですが、どうしましょう?
ここでパウロは、コリント教会の中に死者の復活がないという者たちがいることを踏まえて、もしもそのように主張するのなら、キリストの復活されなかったことになり、それは自分たちの宣教が空しいものとなり、あなたがたの信仰も空しいものとなると論を進めていきます。
パウロは、キリストの復活が歴史に起こった事実であることを踏まえて語ります。ですから、コリント教会のある者たちが語っているように死者の復活はないのだとしたら、その行き着くところはキリストも復活されなかったことになり、歴史的な事実を否定することになります。それが、「死者の復活がないとしたら、キリストのよみがえらなかったでしょう」ということばが表す意味です。さらにその行き着く先は、福音を宣教してきたパウロたちの働きが空しいということになり、それを信じたコリントの教会の人々の信仰も空しいということになります。
19節に「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中でいちばん哀れな者です」ということばを心に留めます。私たちのすべてが、キリストの復活の上に成り立っているからです。私は哀れではないのだと、心を新たにしました。