ローマ人への手紙 11章11−24節
注意して歩いてはいるのですが、時折犬の糞を踏んでしまうことがあります。こちらの人はきちんと始末すると言い切ることはできないということに気づくのは、そんなときです。人によるのです。
11章の中盤でパウロは、イスラエル人はつまずいた、それで救いは異邦人に及んだ、そのことでイスラエル人にねたみが起こったと書いています。それならばと、パウロは続けるのです。私は何とかして同胞にねたみを起こさせて彼らの何人かでも救いたい…と。そして、やがて同胞を神が救われる日が来ることを彼は信じて疑うことがありません。
この手紙を読んでいるのは、ローマの教会の人々。ローマ帝国の首都にありました。13節でパウロが書いているように、その教会を構成していた主要な人々は異邦人でした。もしかしたら、異邦人である彼らの中にはイスラエル人がイエスを、福音を拒み、自分たちが神の救いを得たことを誇り、拒んだイスラエル人を見下していた人々もいたのでしょう。彼は、このことを接ぎ木になぞらえています。たとえ枝が折られたとしても、幹があるからこそ接ぎ木はできるのです。
このたとえは、異邦人の高ぶりを諌(いさ)めるためでした。異邦人が神の救いを賜ったのは、神のいつくしみによるものであり、異邦人が神の基準にかなった生き方をしていたということでは決してありません。だから、彼らは神のいつくしみにとどまり続けるべきなのです。