ガラテヤ人への手紙 5章13−26節
週末から火曜日にかけて出かけますので、木曜日にはいくつかの用件を済ませました。日本への報告、近隣に配っている教会を案内するフライヤー、それぞれを作成しました。教会の案内はA3の大きさに印刷して、隣町の食料品店の入り口に貼っていただいています。
ガラテヤ人への手紙5章後半には、肉がもたらす行いと御霊がもたらす実とが対比されています。「肉のわざは明らかです」ということばに続き、パウロはさまざまな罪のリストを並べていきます。一方で、御霊の実のリストも並びます。ここを読むと、ある人は「私はだいじょうぶ」と心の中で思うのですが、そうではありません。
ガラテヤ人への手紙をここまで読んできますと、これらのリストに現われてくる人のわざは、どれもが結果なのだということに気づきます。この手紙でパウロは、肉と御霊とをずっと対比させてきました。
「肉のわざ」というと、多くの人が顔をしかめるような行動だと考えやすいのですが、ガラテヤの人たちが割礼を受けたり律法を守り行ったするのは、どれもが肉のわざなのだと、パウロは書いてきました。すでにパウロは、3章3節で「御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか」と問いかけています。
13−14節に目が留まります。神の約束を、福音を信じて自由を与えられた人々は、その自由を「愛をもって互いに仕え合うこと」によって、じつは律法を全うすることになるという、驚くようなことが書かれているのです。
肝要なのは、愛するためにキリストは私たちを自由にされたという目的から目をそらさないこと、なのです。