転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



某出会い系サイトから、主人宛にメールが来た。
ポイントをくれるとか、直接会いたいとか書いてあった。
私の見るメアド宛てにこんな大事なメールが来るように設定するなんて、
主人の頭は弱り過ぎではないかととても心配になった。


・・・じゃなくて、これはどう見ても悪徳出会い系サイトだ。

そのサイト名でググってみたら、
前々から評判の悪い出会い系だとのことだった。
よその懸賞に応募した際などに、そこでアドレスを拾われ、
このテのメールが来るようになるそうだ。
主人は懸賞のたぐいが大好きなので、
どこかで不用心な応募メールを送ってしまったのだろう。

その出会い系からのメールの末尾には、
退会手続きはこちらに、とURLが書かれてあったが、
勿論、アクセスなどしないで削除した。
一時間に7通くらい来て、あまりに鬱陶しいので、
もう来ないようにメールソフトの設定も変えた。

ウィルスはいなかったので、最初の一通だけ開いてみたのだが、
『○○様【○○ポイント追加】受取手続きを開始致します。』
と自分勝手に何か始めようとしているのは、
いつぞやの法的措置を開始するという稚拙な文面の葉書と同じだった。
そして、これは、
『≪【寄付point】配布係≫さん(99才)からメールです。』
ということだった。

なんだ、その年齢明記は。
何か狙っている気配が、そこはかとなく感じられるのだが、
どういうふうにウケてあげたらいいのか、判断に迷う。
とりあえず、80歳を過ぎただけなのに、
パソコンの設定もできないうちの両親は
どんだけ耄碌(もうろく)しとるのか。
と今度、実家に電話したとき言っといてやろうか。

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漢字検定
漢検が儲けすぎ、というニュースを見て、娘が
「これで問題ありとなったら、来年の漢検、受けんでええかね?」
とちょっと嬉しそうだった。
娘の学校では中1から毎年一回、漢検は全員が受けることになっており、
来年は準2級だったか?何かが必須となっているのだそうだ。
私はまだニュースを詳細に読んでいないので、よくわからないが、
このご時世に儲かりすぎるなんて、アッパレだなと思った。
さんざん税金面で優遇措置を受けながら赤字を出す、
という無能さよりは、ずっと良いのではないか、と思う(逃)。
言うまでもなく、そのお金の使い途のほうは問題なわけだが。

過熱する中学受験
漢検のニュースのあと、昨今の都内の中学受験が苛烈になっている、
という話題で、開成中学の入試風景とその地元塾を取材した映像があった。
打ち込むだけ打ち込んだあと、不合格で終わった子供たちを
手厚くフォローするのが最も大事な仕事だと改めて思った。
私自身は、勉強するのは基本的に良いことだと思っているので、
「小さい子が遊ぶ暇も惜しんで勉強ばかりするなんて間違っている」
とは、あまり、考えていない。まあ体を壊すほどやってはヤリ過ぎだけれども。
どんなことだって、人より抜きんでよう、一流になろうと望むなら、
人が休んだり遊んだりしている間にもトレーニングするのが普通だ。
スポーツだって囲碁将棋だって楽器練習だって同じことだ。
野球しかやらないのは爽やかで、受験勉強しかやらないのは不健康、
とは私は思っていない。
本人や周囲がそれを望み、継続可能な状況であるなら、やればいいのだ。
勿論、何をやっても普通かそれ以下の達成度、勉強も部活もまあまあ、
でもバランス良く安楽に過ごしている、というのも大いに結構だ。
皆それぞれ、どれほど望んでも、出来ることと出来ないことはあるのだ。
『思いがすべて叶うのは、美しいことではない』
という曾野綾子氏の言葉は、私はかなり好きだ。

ヲタ度を上げる
友人の某クリエイターD氏から、
イマドキの中学生の愛読書の傾向が知りたい、
という意味合いの、お仕事絡みのメールを頂戴したので、娘に振った。
どうせ、この子らが何を好み何を読み何で遊んでいるか、
私には、ろくにわかりはしないのだ。
娘はD氏に直接メールを送り、自分たちの趣味の生活について語り、
D氏からの質問にも答え、友人らの動向についても話をしたようだった。
娘は小さい頃からD氏には面識があり、いたく尊敬している。
昨日はなにがしかお役に立てて嬉しかったようだった。
その後、D氏から私宛にメールが来た。
現在進行形の中嬢の声が役立ったと喜んでくれたあと、
「みーちゃんのオタク度、更に増したみたいですね」。
オタクの神様・本職のヲタ様から、認定を頂いてしまった気分(逃)。

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某匿名掲示板を読んでいたら、
『友人の身内の葬儀に行こうとしたら、
友人本人から「香典は持って来ないでね」と言われたが、
本当に持っていかなくて良いと思いますか』
というカキコミがあった。レスとしてはごく常識的に、
『とりあえず普通に用意して出せる状態にしておき、
会場に行ってから受付で様子をみたらどうでしょうか。
出さないようになっているのなら、そのまま持って帰れば良い』
という意味合いのものがいくつか並んでいた。

質問者は納得し、礼を述べて終わったのだが、
雑談系のスレだったのでそこからしばらく葬儀や香典の話題になった。
『故人が生前「香典不要」と強く主張していたので我が家も辞退した』
『香典どころか一般的な葬儀も読経も不要との遺言があり遺族が従った』
『「○○市の条例に基づき、香典は辞退」としてる地域もある』等々と、
様々な体験談が投稿されていた。

私は人様に関しては、亡くなられたご本人やご遺族の意向に添う、
ということが最も大切だと考えているので、
盛大に見送って欲しいということであれば、そうしたいし、
香典や葬儀は必要ない、というのが、遠慮でなく本音であるのなら、
それを最大限に尊重したいと思っている。
最後のお別れが、貴重な時間であることはよく理解できるが、
一方で、遺族としてこれほどつらい時間もないだろうから、
大勢の他人がそこに介在することが、良いのか悪いのかは、
ひとりひとり、その場の気持ちや考えも違うことだろうと思う。

私自身は、もし自分の葬儀が行われる日が来たら、
その中身はどのようであってもいいと思っている。
そのときの遺族の顔ぶれにもよるだろうが、
皆にとって最も都合の良い、世間的にも一番問題のない、
多分、ごくごく「普通の」葬儀を、滞りなく行ってくれれば、
と想像しているのみだ。
香典というものが最も一般的な習慣ならそれでいいし、
香典辞退が常識になっているなら、貰わないのが良いだろう。
判断に迷うなら、葬儀屋さんの言うスタンダードの通りで、いい。

人様に関しては、もし、葬儀に関して故人の厳密な遺言があり、
それを忠実に実行することで遺族が報われた気持ちになるなら、
それはそれで良いことだと心から思っているが、
私にとっての自分の葬儀とは、私のためというより、
そのとき生き残っている遺族と、その周囲の人のためのものだ。
皆が、葬儀なり何なりが済んだという納得や満足が得られるなら、
やり方など私自身はどのようでも良い。
ハデでもジミでも、複雑でも粗略でも(爆)、私は問題にしないので、
遺族の気が済む、あるいは、その場で最も違和感のない段取りで
悶着が起きないように、終わってくれればいいと思うだけだ。

ポゴレリチのバッハで送ってくれ、などとは思っていない(苦笑)。
棺に「ポゴ氏関連第一級資料」を入れてくれ、とも考えていない。
これは何かのレトリックではなくて、文字通りだ。
私がいなくなったらディスク類も資料もすべてただのゴミだろうから、
遺族の良いように処分してくれたらいいと思っている。
その始末をするのが手間なんだよ(--#)、と苦情を言われそうな分量だが。

私より先にポゴ氏があの世の住人になっていれば、
彼岸でいよいよ演奏会を聴き放題、
ということで私は喜々として行くだろう。
彼が長生きだったなら、私が先に「涅槃で待つ」ということで。
…待っているのに、彼には公演予定をなんべんもドタキャンされたりして。

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マンションに入居して三年目が終わろうとしている今、
私はようやく、自分のための快適な寝室を手に入れた。
それは、六畳の和室だ。

モデルルームでは玄関横の十畳ほどの洋間が「主寝室」で
そこに大きなダブルベッドが置いてあったものだが、
我が家は、新婚の頃から、ダブルベッドで寝る趣味は無かった。
二人同時に寝て同時に起きるなどとは考えられないのだから、
片方が動いたり夜中に電気をつけたりしたら、
もう一方だって寝づらいに決まっている、
という点で我々は意見の一致を見たのだった。

そもそも、官舎の頃はそういう高級な話以前の生活だった。
ベッドを置くような部屋はなく、
狭い和室でひしめきあって暮らしていたのだ。
互いの生活パターンが食い違うと寝づらいことも多かった。
主人だけ、倉庫みたいな本棚の間のスペースに
無理矢理に布団を敷いて寝ていたこともあった。
夜中や早朝に起きて仕事をするので、
一緒の部屋ではお互いに不自由過ぎたのだ。

マンションに来て、主人が書斎として、その主寝室を取った。
官舎から見たらスラムからビバリーヒルズに移った、
というほど我々には革新的な出来事だったが、
長年染みついた布団生活からは結局離れられず、
主人は洋間に机とテレビを持ち込み、
あいたところ布団を敷いて寝ることになった。

それで、当初、娘と私が、六畳の和室で寝ていた。
だが、娘は次第に夜更かしになって寝る時間がずれてきて、また、
体の大きな娘が寝相が悪くて夜中に蹴りを入れて来るようにもなり、
私はあまりにも安眠できない夜が続き、とうとうキレた。
もう同居はできない、ワタクシ、出て行きます。
それである日のこと、私はピアノの部屋(もと納戸)へ逃げた。

ピアノ部屋は、もともとが五畳ちょっとだから、狭かった。
そこにピアノとパソコン机、本棚になっているキャビネット3つ、
などなどが押し込まれているので、
布団を敷くスペースはギリギリだった。
だが、私は当初、やっと独りになれたことに満足していた。
娘に蹴られないで寝られるって、なんて快適なのだろう、と。

ところが、ピアノ部屋は前にも書いた通り外の音が筒抜けだ。
ある晩のこと、私は、今にも死にそうな咳き込みの音で目覚めた。
それはまさに「発作」という感じの、とても辛そうな咳で、
私は、主人か娘が夜中にどうかなったのかと、
慌てて廊下に出てみたが、・・・我が家はシンとしていた。
咳の主は、ピアノ部屋の向こうのマンションにいたのだった。
注意していると、この大変そうな咳は昼間でも時々聞こえるので、
壁の向こうの住人は、喘息か何かなのかもしれなかった。

私は、大変に寝付きが良いが、目覚めも一瞬だ。
つまり何かあったらパっと起きてしまうのだ。
一方、娘は、寝付きは良くとも目覚めはとても悪い。
雷が鳴っても地震が来ても起きない。
ということで、私は娘と交渉した。
難点は近所の物音がすることだけだ、
私のかわりにピアノ部屋で寝てくれまいか、と。

娘はフタツ返事でOKしてくれた。
なんのことはない。最初からこうすれば良かったのだ。
私は一昨日から、ひとりで六畳の和室に寝ている。天国だ。
こんな快適な寝室を、中嬢に独占させていたなんて、
私は一体何をどこで間違えていたものやら。
娘は勿論、ピアノ部屋で、なんともないと言って安眠している。
やっと、双方丸く収まったのだ。

デメタシ。

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長原幸太氏がグァルネリ・デル・ジェスを弾く、
というので聴きに行った。
グァルネリと言えば私のイメージは五嶋みどり、
あるいはチョン・キョン・ファなのだが、
きょう、生でグァルネリ(1734年製)を堪能して
ますます良い楽器だなあと思い知った。
勿論、弾き手が素晴らしかったことは疑いもない。
本当ならこの演奏会はストラディヴァリウス・ドラゴネッティが
使用される予定だったのだそうだが、変更になったのは、
私にとっては、かえって良かったかもしれなかった。

数年前、諏訪内晶子を聴いたときに、演奏会の間じゅう、
『大昔、母に叱られたあとで聴いたレコードのハイフェッツ』
が思い出されてならず、客席に居ながらとてもシオたれてしまい、
帰路には石でも蹴りながら歩きたい気分になったものだったが、
これがなんと、後日、諏訪内晶子の使用楽器が、
まさにかつてのハイフェッツの愛器そのものだったと判明し、
自分の耳を一生自慢しようと思った
(殴)、というオチがついた。
弦楽器、特にヴァイオリンというのは、それほどに、
楽器自体の発揮する音色や自己主張というものが色濃くあり、
それを土台にして演奏者の技術や感性が付加されるのではないか、
と、あれ以来、私は思っている。
ピアノだと、私はここまで楽器そのものの特性を意識したことはない。

さて、そのグァルネリ使用の本日のリサイタル、曲目は
ドビュッシー:ヴァイオリン・ソナタ
ラヴェル:ヴァイオリン・ソナタ
クライスラー:愛の喜び、愛の悲しみ、ウィーン奇想曲
プーランク:ヴァイオリン・ソナタ
サン=サーンス:ヴァイオリン・ソナタ第1番作品75
(アンコール)ドビュッシー:亜麻色の髪の乙女
マスネ:タイスの瞑想曲

伴奏は國谷尊之氏。
途中、長原氏ご自身による解説があったのだが、それによると、
今回のプログラムは、サン=サーンスありきで、
このヴァイオリン・ソナタをやろうというのが最初に決まって、
あとはそれに合わせて、フランス音楽中心の選曲にした、
とのことだった。
艶やかな音色には聞き惚れながらも、
知らない曲ばかりでどうしようと思いながら座っていたのだが、
長原氏はそれも想定内とのことで、ゆえに途中にクライスラーの
小品が三曲選ばれていた。

グァルネリにはなんとも言えない「洗練された暗さ」があると
私は思っているのだが、きょうもそれはあちこちで感じた。
長原氏のヴァイオリンは勿論素晴らしかったが、
きょうはそれに加えて、國谷氏のピアノ伴奏がピタリと添っていて
アンサンブルとしても大変に聴き応えがあった。

なお、完全にどうでもいいことなのだが、
クライスラーというと私は、『愛の―』二曲が来るなら
最後は『美しきロスマリン』だろう、と思ったのだが違って、
更に、アンコールは「ドビュッシーの・・・」と言われたので
『美しい夕暮れ』!?と期待したら、『亜麻色の髪の乙女』だった。
どうも、微妙にカワされた感じの選曲だった(逃)。

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伯母(父の姉)が一昨日亡くなり、きょう、葬儀があった。
伯母はいろいろと持病はあったが、比較的元気な晩年だったし、
数年前に未亡人になり、近年は気ままな独り暮らしだった。
喪失感はたとえようもなかったが、
「歳に不足は無し、こういうものは、順番じゃから、ね」
と親戚の皆が言った。

伯母は少し前から入院中だったが、容態は安定していたので、
文字通り急変して亡くなったとのことだった。
突然にではあったが、考えようによっては苦痛もほとんどなく、
皆が、あやかりたいような最期でもあった。
朗らかで、サバサバした気性の伯母は、最後に至って、
『もう、いっか』とばかり、サッサと逝ってしまったみたいだった。

実家から連絡を貰い、時間通りに葬儀場に行ったら、
式場出入り口のところにうちの父がウロウロしていて、
「おかーさんが、トイレ入ったまま、まだ出て来ん」
と開口一番、言った。
うちの母はもともとあまり元気なほうではないので、
もしや、こんなところまで出てきて具合でも悪くなったのか?
と私は内心、焦ったが、
「やたらと着込んできて、中で着付けに手間取っとるんでないの」
と一応、あたりさわりのない返事をしながら式場に入ったら、
向こうのほうに母がいた(汗)。
母はニコヤカに、周囲の親戚の誰彼に挨拶をしていた。

私「おる」
父「あ。おった。いつの間に出てきたんかね」
私「・・・・(-_-)」

ったく、80過ぎのおじーさん・おばーさんなので、
うちの両親にも困ったものだった。
いや、考えてみると、うちの親だけではなかった。
集まった親戚の誰もが、十年以上会わないと変わり過ぎていて(爆)
お互いに一から名乗らないと、誰が誰だかわからない有様だった。
と思ったということは、私自身も変わり果てていたということだ。
「あら!あなたは、えーっと、よしこちゃん!?」
と見事アテてくれた高齢の婦人は、私の「父方の祖母の姉の長女」だった。
「ご無沙汰致しまして」「こちらこそ」「このたびは」「このたびは」
とワケのわからぬ口上を交わし合った背の高いオジさんは、
私の「父方の祖父の妹の娘の次男」だった。

いつの日か、この、親戚相関図がわからなくなったら、
私はボケたということなのだろう、と脈絡もなく思った。

読経を聴きながら、伯母とのいろいろなことを思い出してみたのだが、
記憶の中の伯母は、いつも笑っていて、楽しそうだった。
うちの田舎の秋祭りが大好きで、伯母は例大祭に合わせて里帰りし、
うちに何泊かして行ったことが、よく、あった。
あの現代の秘境のような実家は、伯母にとっても実家だったのだ。
そして、小学生だった私たち子供らと、伯母は、
一緒になって夜店を覗いて遊んだ。玩具も買ってくれた。
伯母が、鯛焼きを大人買いしていたのは、
幼かった私には強烈な記憶だった(苦笑)。

伯母は、八十代半ばまでそれなりに元気で、子や孫に恵まれ、
ご本人にしかわからない苦労はあったことだろうとは思うが、
少なくとも傍目には穏やかで温かい老後だった。
親族や関係者が皆、元気で、揃って伯母を見送れたことは、
幸せだったと言うべきだろう、と、思った。


おばちゃん、行ってらっしゃい。
この世の縁は、ひとまず終わってしまったけれど、
また会いましょう。

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・娘らは昨日、美術部で部会をし、来年度の部長を決めたそうだ。
高校入試がないので、中3の引退というのもなく、
部長の任期は4月から3月までだ。
要領の悪い娘が、じゃんけんで負けて引き受けることになったりして、
と心配していたが、そんなアホなことは起こらなかった。
ちゃんと、しかるべき人が部長になったそうだ。良かった。

・『ガラスの仮面』について、小野寺のアホが凄すぎる、
と私が言っていたら、主人もそれにはいたく同意してくれて、
「小野寺と組まされる亜弓さんが本当に可哀相だ」
という話になった。そうなのだ。彼女はいつも小野寺とセットだ。
それこそ小学生の頃から劇団オンディーヌ絡みで、
小野寺につきまとわれているのではなかろうか。
大昔、マヤと競った演劇コンクールで、亜弓さんの主演した芝居が、
一般投票第三位などに甘んじたのも、小野寺の演出のせいだろう。
紅天女だって、亜弓さん主演・黒沼が演出なら天下無敵だった筈だ。
ああ勿体ない。

・アブデル・ラーマン・エル=バシャの姫路公演に行きませんか、
と音楽仲間の某氏にメールしたら、来た返信が、凄かった。
『秋にイタリア旅行を計画してますので、今、お金が使えません。
もし良かったら一緒にイタリア行きませんか?』
姫路に誘ったら、返事でイタリアに誘われたという(爆)。
私こそ、お金も時間も使えなくて(涙目)。

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このところ、ジャパン・アーツの中藤泰雄会長の著書
音楽を仕事にして――日本の聴衆に、この感動を伝えたい
(ぴあ株式会社、2008年)を読んでいる。

80年代には、ソ連の芸術家を招聘することが、
どれほど特殊で困難な仕事であったかが、今になるとよくわかり、
私は当時、無知ゆえに恩恵にだけ与っていたのだと今更だが痛感した。
ジャパン・アーツはチェコのスメタナ・カルテットの招聘に始まり、
当初、共産圏のアーティストを日本に数多く紹介していたのだが、
83年の大韓航空機撃墜事件以降、日本国内でソ連に対する反感が高まり、
折しも『ソヴィエト芸術祭』開催を予定していたジャパン・アーツに対し、
「人殺しの国ソ連の芸術祭など、手がけるべきではない!」
という強い反発が、各種の抗議団体から寄せられたそうだ。

政治団体の連日の抗議、会社前での街宣車によるデモ、
事務所での押し問答や電話攻勢、テロ予告まがいの脅し、
など、当時のソ連への反発は凄まじかったということだ。また、
「不祥事を起こしたソ連の音楽祭を開催することを新聞等で詫びろ」
と要求されたり、会社に上がり込み机を蹴散らして暴れる人達がいたり、
その他、中藤会長の自宅への嫌がらせも数多くあったとのことだ。
それでも実現したソヴィエト芸術祭の各会場では、
警察にアーティストの警護を依頼し、入場の際には手荷物チェックをし、
突入しようとする抗議隊をやむなく逮捕して貰ったりもしたそうだ。

ジャパン・アーツは一歩も譲らなかった。
芸術祭開催を詫びることも一切しなかった。
「大韓航空機の事故の犠牲となった人達を悼む気持ちは、皆同じだ、
しかしソ連の芸術家たちには何の罪もない。
国同志の争いや民族間の反目が存在しても、互いの文化は尊重したい。
政治によって文化交流が妨げられることは、あってはならない」
という当時の中藤氏の主張に、今の私は全面的に同感だ。
あの国は嫌いだ、あの国のものは全部認めない、
などという硬直した思想は、文化交流や向上の芽をつみ取るだけで、
なんの益もないものだと思う。

まさにその83年の初秋、私は、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
初来日公演を観て
、そこで自分にとって革命的な経験をした。
ジャパン・アーツではなく、中央放送エージェンシーの招聘だったが、
同時期の中藤氏のご苦労を知った今になってみると、
あの公演もまた、よくぞ実現したものだと思う。
大韓航空機の事件が9月1日、東京公演初日が9月16日だったのだ。
どれほど多くの方々のご尽力があったことだろうか。

櫻井郁子氏『わが愛のロシア演劇』によると、
あのときの国立劇場は空席が目立っていたそうだが、
もしあの当時、「憎むべきソ連の芝居なんか観るものか!」と考え、
抗議活動としてあの舞台を無視した人達がいたとしたら、
私は今、その人達を心からお気の毒だと思う。
一面的な価値判断から自由になれなかったために、
あれほど偉大な宝をみすみす逃したのだから。

19歳だった私は、中藤氏のような高い次元の見地など全く持たず、
ただただ浮世離れした女子大生だったために、
幸か不幸か、ソ連に対して、ほとんど政治面での知識が無かった。
だから、真っ新な状態で、ソビエト演劇に出会うことが出来た。
世間が、それまで以上にソ連への反感と警戒を強めていた時代に、
私はそれと知らず、ただ興味のおもむくままに、
ソビエト演劇に耽溺し、ロシア語を学び、ソ連研究の講義を覗き、
ソ連大使館広報部から『今日のソ連邦』を取り寄せて読んでいたのだ。
そのような私に、何かを横合いから教え込む人が全く居なかったのは
本当に幸福なことだった。独り暮らしで良かった。

私は昔から「教養とお金はあればあるほど良い」という考えだが、
あのときばかりは、自分の無教養の御陰で助かったと思っている。
何かを知ったために一方向に凝り固まるくらいなら、
知らずに柔軟な嗅覚だけで行動できた私は、よほど幸せだったのだ、
ということを、四半世紀を過ぎた今になって、思っている。

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少し前に、ブログ仲間のYou様の日記に、
受験日まで欠席』という記事があり、
You様ご自身が、御嬢様がたの中学受験の際に、
いろいろと悩まれ、ご心配になったことが綴られていて、
なるほどなあと、考えさせられた。

それで調べてみたら、首都圏や阪神間などでは、中学受験に備えて、
三学期になってからはずっと学校を休んで、塾だけ行く子が多いとか、
合格後は家族でお祝い旅行に行くために続けて学校を休ませるとか、
6年生だけでなく来年受験予定の5年生までもが、
統一日や解禁日には学校を休んで、受験予定の中学を下見したり、
当日の雰囲気を味わってシミュレーションする(??)、
などの話も、新聞記事やネットの記述に書いてあった。
また、入試が始まると、多くの進学塾では通常授業がなくなるので、
5年生は通塾がなく、6年生の直前対策だけになるそうだ。

広島に限っては、学校数が少なく受験はシンプルな仕組みなので、
首都圏や阪神間のような過熱までは、していないように思う。
娘は5年生からの通塾だったが、6年生たちが入試のときも、
5年生向けの塾はいつもと変わりなくあった。
また、娘本人が受験生だった二年前にしても、
別にインフルエンザも流行っていなかったし、
小学校を休むという発想は、あまり、なかった。
塾のほうでも、「入試の週を休むくらいは、まあ良いと思うが、
長く学校を欠席するのは、賛成しない」と父母教室で言われていた。

午前中の入試が終わってから給食を食べに学校に来た、
という猛者も、娘の学校には、いたくらいだ(爆)。
受験する子のほうが少数派だったが、別に隠していなかったし、
受験組とそうでない子たちの間に、わだかまりなどは無かった。
まあ、私は付き合いの悪い人間で、塾のママ仲間も皆無だったので、
私が知らないところでいろいろ起きていた、
という可能性はあったかもしれないと、一応、思っているけれど(汗)。

でも、あのときだって、今年みたいにインフルエンザが流行していたら、
早めに休ませる親御さんもきっと多かっただろうと思う。
勉強のために休むのは1月にもなっては遅いのでは、という気がするが、
体調管理や感染予防のためにやむなく、というのは良く理解できる。
娘に関しては、前日まで学校に行ったのが、良かったと思っている。
「学校に行く~♪」
という本人の意志に私は任せていたのだが、
もし家にいたらひどい寝坊になって朝型は維持できなかったと思うし、
娘は小学校が大好きだったから、気分転換の意味でもかえって助けられた。

思えば、なんとも気楽で、恵まれた受験生活だったわけだ。

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サイトBBSのほうでJohnClark様が教えて下さった、
仏語記事について、急ぎ、レスを書こうと思ったのだが、
なぜか、自分ちのBBSに今入れない状態なので、
とりあえず、こちらに。

Ivo Pogorelich et la Polnische Kammerphilharmonie

1月29日のバーデン・バーデンの公演は、ちゃんと、あった。
ドイツの保養地バーデン・バーデンの、
ウィンター・フェスティバルの一環で、
ハイライトとして注目された演奏会であったようだ。

演奏会評としては、ポゴレリチの解釈について、
これまで聞いたことのないような演奏だった、
ピアニシモからフォルティシモまでの幅が極端に広かった、
打ち付ける鐘のように、ひとつひとつ区切られた音だった、
等々について書かれていることはだいたいわかったのだが、
・・・・・・・・・・(^_^;。

辞書引いて、出直して来ます。
それで解読できるかどうかは不明ですが。


ご紹介頂いた、もうひとつの記事
Du 29 mai au 14 juin, le 36e festival de Sully fera « chanter les pierres »
は弟のロヴロ・ポゴレリチに関してで、
5月29日から6月14日までフランスのロワールにある、スリーという村で、
音楽祭が行われる予定で、そこでロヴロがリサイタルをする、
ということが書かれている。
兄イーヴォとの共演だったら面白いのに、と思うが、
この兄弟はせっかくどちらもピアニストなのに、全く接点がない。
まあ、演奏の質を考えると、合っているとも思えないけれども。


ということで、BBSが復旧しましたら、また改めまして。
・・・と言って、スペイン語記事については無かったことにする、わたし。

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