転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



今日と明日は、出勤しなくて良いので2連休だ。
しかも今夜は主人が宴会で、家での夕食が要らなかった。
私は「食事の支度をする」という、最も苦痛を伴う作業のための
心身の余力を保つ必要が無かった。
滅多にない幸運であった。

それで、きょうは遠慮なく集中して片付け&掃除をした。
今の私の目標は、娘が帰省した折などに我が家を眺めて、
「この程度の家なら、残ってもなんとかなるだろう」
と思えるくらいには片付けておくことだ。
例えば、キッチンの引き出しを開けたとき・押し入れの襖を開けたとき、
中身の量が限られており、捨てて良いかどうかの判断が娘に容易にできる、
という状態にしておきたいのだ。

「いつかトシを取ったら、実行しよう」
と思っていることは、実際にはトシを取る手前から着手しないと駄目だ。
私は実家両親を反面教師として、近年、本当にそう思うようになった。
そもそも、誰しも自分の余生が長いが短いかなど知る由もないので、
何事も早め早めに手を打つに越したことはない訳だが、
運良く長生きしたとして、名実ともに後期高齢者などになってしまうと、
引退だの終活断捨離だの運転免許返納だのは、
自分の人生の終了がいよいよ目前に迫った気分になって認めたくなく、
「いや、とりあえず、きょうは、まだ!!」
と傍迷惑な先送りをしてしまうものだ。
思い出の品物の数々、衣類・家具・自家用車の処分……、
すべてが自分の壮年期に自ら別れを告げる作業になってしまい、
いちいち無念で、はかどらない。
そういう心理になってからでは遅い、と私は思うのだ。
更に、その段階を超えて年齢を重ねて行けば、
今度はもう、「いよいよ終わりだ、さあ片付けなくては…」
と思っても気力体力がなく、自力では何もできなくなってしまう。

また、仮に自分の健康寿命の長さに絶大なる自信を持っている場合でも、
このご時世、災害などで自宅がいきなり半壊にならないとも限らない。
近所じゅう跡形もなく全壊、となったらそれどころではないが、
うちとその界隈だけ、クローゼットの中などが丸見えの、中途半端な壊れ方、
道行く人は眺め放題、になったらいたたまれない、……と思いませんか(^_^;。
地震、火事、洪水、原因となりそうな天災は今時いくらでも想定できる。
私は見栄っ張りなので、そういうのは想像しただけでかなり苦痛だ。

というわけで、私は、自分の理想に叶う終活断捨離を
自分の好きなように、目下、実行中である。
私は家を飾りたい熱意はあるので、
ミニマリストになりたい訳ではないし、狭義の「断捨離」はしないが、
基本的に「モノの少ない家」を目指していることには変わりない。
部屋にモノが溢れるから新しい収納を考える、のではなく、
むしろ、努力して収納スペースを減らして行くべきだと思っている。
棚は外して捨て、衣装ケース類も処分して数を減らし、
クローゼットや押し入れの中も「空洞」部分が十分できるように、
過去数年使ったことのないものは、ほぼすべて捨てるようにする。
そうやって処分を励行すれば、どの部屋もスッキリと広く使えるし、
自分が何をいくつ持っているかも、常時、楽に把握できるようになる。
探し物をする必要がなくなるし、大ざっぱに仕舞っても見苦しくならない。

現マンションに来て12年、転勤族でなくなって10年、
気がつけばあちこちに、澱のようにいろいろなものがたまっている。
舅姑が亡くなったときの役所関係の書類の残りとか、
保険の、証書本体でない、ただの案内パンフや内容確認の紙、
いずれ見ようと思って残していたカタログ類、
使うつもりで買って、そのまま古くなってしまった洗剤類、
一時期ハマったジャンルの書籍や関連商品、VHSビデオ、
参考にしなさい、と実家母がくれた新聞の切り抜き、……。
いずれも、当座は要ると思ったり、捨てるにしのびなかったりして、
今に至るも生き残ってしまったモノ達なのだが、
私はこれからはもう、どんどん捨てて行くことに決めた。
「いつか使うかも」は「二度と使うことはない」とほぼ同義だ。
当時費やした金額を思い、「傷んでいないのに勿体ない」と
感じる品々も無いではないが、そうかと言って、
不要品であることを認めず、それらを積み上げたまま、
鬱陶しい暮らしに耐え続ければ供養になる、
というものでもないだろう。

その「捨てる」作業のためには、品目ごとに分別したり、
個人情報を黒塗りorシュレッダーにかけたりして、手間がかかる。
内容によってはリサイクルに出したり、
大型ゴミとしての処分が適切だったりもして、それらには手続が要る。
そういうことが、連休でないとなかなかしづらいのだ。
今日と明日、私はとりあえず思う存分、片付けに時間を費やす予定だ。
そして今年の目標は、毎月とにかく一度は、
「家で2連休(以上)を過ごせるように休暇を取る」ことなので、
頑張ってそれを継続して実現させ、私流の終活断捨離を実行して行きたい。

つくづく、クローンが欲しい(^_^;。
「このへん、適当に捨てて、減しといて」
と言いつけて仕事に行って帰って来たら、スッキリしている、
というふうになったらどんなに良いだろう。
或いは逆に、私が捨てたり掃除したりして一日を過ごす間に、
かわりに会社に行ってくれるクローンがいれば、それでも良い。
ミーティングだけなら、コピーロボット程度の機能でも足りるだろう(爆)。
このマンションくらいの片付けなら、二馬力でやれば、
結構早くカタがつく筈なんだよなぁ。
私はここをサッサと終わらせて、隅々まで綺麗になった我が家を眺めたいのだ。
何しろ「親の家」という難物が、まだ、あとに控えているので(涙)。

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24日(日)の夕方再度、東京に行き、歌舞伎座の夜の部を1階2等席で観て、
25日(月)は朝から歌舞伎座に居座り、昼夜を通しで観た。
特に夜の部は前楽(千秋楽前日)ということで、
最後に一度はと思い、1階1等席花道側を奮発した。
私のような3階常連さんには、1階「1扉」から出入りするなんて、
実に晴れがましい、久しぶりの感激だった!

いがみの権太、縮屋新助、どちらもこの一ヶ月の進化が素晴らしく、
今回は幸運にも、初日の翌々日と千秋楽前日を観劇できたことにより、
なるほど同じ舞台はふたつと無いのだな、
同じ役の人生を生きているようでいて、そこには日々の蓄積が
ひとつずつ少しずつ、現れて来るものなのだなと、実感することができた。

そして、左近!
あの舞台姿、………いいわ(爆)。
観れば観るほど忘れられなくなり、今回はついに写真を買ってしまった。
ちょっとこれから夢に見そうだ。陥ちたかもしれない(^_^;。
今月の左近の成果には、いつもは手厳しい親の松緑も感心したようで、
珍しく日記の中で、はっきりと褒めている
さすがは辰之助の孫、紀尾井町のおじさまの曾孫!
えらく大きな楽しみが、できてしまった(^^ゞ。
梅玉のおじさま、よくぞ追善の月に左近を出して下さいました<(_ _)>!

  

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休日だったので、昼前に縮景園に行った。
2月の下旬まで梅の見頃が続いていることを知っていたのだが、
日頃は忙しくて、なかなかゆっくりと庭園を愛でる機会が無かったのだ。
入って左側一帯はこんな見事な梅林になっていたのか、と初めて知った。
紅梅と緋梅は赤でもかなり色合いが違うのだな、とか、
白梅、……そういえば母校の大学の白梅寮というのがあったな、とか(^_^;、
とりとめもなく考えながら、時間に急かれず、思いのままに歩いた。
自然の中で心身ともに解放され、最高だった。

    

    

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2月5日には、久しぶりに東京宝塚劇場に行った。
雪組公演『ファントム』。
私はこの演目は今までに、2004年の初演の宙組と
2011年のほうの花組を観ていて、
特に初演は、たかこ(和央ようか)さんの主演だったこともあり、
私にとっては忘れられない作品のひとつとなっている。
たかこさんの、私好みのマザコン芸(!)があまりにも秀逸なので、
あれは私の中で、今でもエリックとして別格と言って良いと思うのだが、
その点を別として公演トータルで観るのであれば、
私は今回の雪組版ファントムが、これまでの中では一番気に入った。

何より、主演コンビの歌唱が群を抜いて素晴らしかった。
『ファントム』のメインの曲は、半音を多用した独特の旋律を持っており、
そこにこそ妙味があったのだということが、
望海風斗と真彩希帆の歌が極めて正確だった御蔭で、よくわかった。
だいもん(望海風斗)は昔のルコさん(朝香じゅん)に似た硬質の美貌で、
ファントムの特異な感性と才能、いびつな幼さを、実に巧く表現していたし、
真彩クリスティーヌの清楚な美しさ・健気さ、
それに文字通りの「天使の声」も、作品世界にぴたりと合っていたと思う。

ファントムの従者のダンスが秀逸だったことにも、とても驚かされた。
特に、中のひとりが胸のすくほど切れ味の良い踊りを披露してくれていて
二階から観ていても惹きつけられた。
いつも思うことだが、際だって「巧い人」が出てくると、
ソロが無くても、スポットが当たっていなくても、
一瞬でこちらの目が吸い寄せられ、
その人の、次の登場を心待ちにするようになる。
誰がその「従者」だったのか、名前を確認したくて、
最後の大階段のパレードのときに、従者の正面顔をひとりひとり、
目を皿のようにしてチェックしたのだが、
かなりの上級生らしくてなかなか降りて来ず、
ほとんど最後までかかって、とうとう判明した。
沙月愛奈だった。道理で!!
あゆみ姐さん、男前っっ!!

**************

ときに、この雪組公演は13時30分開演だったので、
この日は朝、歌舞伎座に寄って幕見で『すし屋』だけ再度、観た。
ほぼ1年前に見つけた、私的ベストポジションから、
あらしちゃんの権太を、余すところなく見尽くしてやる!と、
勢い込んで四階に上がったら、な、なんと!!
男性がひとり、先にそこを占領していた。
う、嘘、と焦って、反対サイドの通路真後ろ「お立ち台」も見たが、
そこにもやはり、別の男性が………!!
席はあらかた埋まってはいたが、少なくともまだ数席は残っており、
座ろうと思えば座れたのに、彼らは最初から、
お立ち台を、しかも「あの場所」を、選んでいたのだった。
そこがどんだけ良いか、知ってやがったな(笑)!
ただ者ではないと見た(笑)!

私は仕方が無いので後列の真ん中あたりの席で観た。
お立ち台ほどの目覚ましい視界は得られなかったが、
それでも、前日に下で観たときより遙かに動きの美しさがよくわかった。
松緑は勿論だが、菊之助の足の運びの優美さにも見とれた。
やはり舞台は、天井付近から床面まで見下ろしてこそ、だな……。

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2月4日、二月大歌舞伎を昼夜、観て来た。
昼の部も夜の部も、初代辰之助の追善狂言が出る二月公演は、
私にとって特別な一ヶ月になると前々からわかっていたので、
初日が開いてすぐの時期と、可能であれば千秋楽近くに再度、
という具合に、今月は二度遠征をする計画にしてある。
今週のは、そのうちの第一回、のつもりで出かけた。

歌舞伎座に行ってみると、事前にわかっていたことだが、
正面玄関を入って左側前方に、亡き辰之助の写真が置かれていて、
香炉からは、ほのかな香りが立ち上っていた。
なんだってこんなところで「遺影」になんかなっているのか!と、
改めて、どうにも納得できない思いになったが、もはや三十三回忌なのだった。
86年秋の『テレフォン・ショッキング』出演が、私の、辰之助の最後の記憶だ。
その半年後に辰之助は再度倒れて助からず、父・二代目松緑も間無しに亡くなり、
遺児あらしちゃんが89年に14歳で藤間流六世家元藤間勘右衞門を襲名、
91年に16歳で二代目尾上辰之助を襲名……、
歌舞伎座で観た、花道を渡って来る燃えるような曽我五郎の姿を
私は今も、思い出すことができる。
あの日から数えても、早28年の歳月が流れたのだ。
あらしちゃんは健気にも立派に精進し、今や四代目尾上松緑、
父・辰之助の亡くなった年齢を既に越えた。

追善狂言は、昼が『義経千本桜 すし屋』『暗闇の丑松』、夜が『名月八幡祭』。
イヤホンガイドでは幕間に、81年の二代目尾上左近・初舞台の際に収録された、
松緑・辰之助・左近の三世代インタビューの、貴重な録音が流された。
  

昼の部『すし屋』の「いがみの権太」は、当代松緑には今回が初役だったが、
ニンに合った、小気味よいテンポの芝居で、なかなか良かった。
前半のやんちゃなところは若い頃のあらしちゃんを彷彿とさせ、
後半の「もどり」からは父を慕う真情と相まって、熱い舞台となった。
要所・要所をきちんと決め、緩急が見事で、
観客に印象づけるべき場面のかたちが大変に美しく、
演技的な要素のみならず、舞踊家としての松緑の長所も
ふんだんに発揮されていたと思う。

菊五郎による『暗闇の丑松』は圧倒的なスケールだった。
この役に賭ける菊五郎の思いを、私は丑松の周囲の暗闇の中に感じた。
辰之助が存命だった頃、若き菊五郎は相手役の「お米」を演じたものだった。
辰之助と菊五郎の組んだ舞台は数え切れないほどあり、
二人は生涯の相手役同士と、私は当時、信じ込んでいた。
その辰之助の訃報に、『一生分の涙を流した』との菊五郎の言葉が、
今月の筋書に掲載されている。
辰之助の早すぎる逝去が、菊五郎を公私ともに、
根底から揺るがすほどの出来事であったことは、想像に難くない。
そしてそれは、菊五郎にとって結果的に大きな転機となった。
あのときから菊五郎は、辰之助が生きていれば務める筈だった役を
二代目松緑らに教えを請い、無二の相手役になりかわるように、
ひとつひとつかたちにして、今日まで演じてきたのだ。
『暗闇の丑松』もまた、そうした役のひとつだった。
終盤に向かうほど、丑松の闇は深みと凄みを増した。
かつて菊五郎の目に映っていた、若き日の辰之助の丑松、
今の菊五郎が全身で造型した、亡き辰之助とともに演じる丑松。
このようなかたちで、舞台に辰之助を蘇らせることができるのは、
菊五郎の磨き上げた芸があればこそだった。

夜の部の追善狂言は『名月八幡祭』。
松緑にとっては二度目の「縮屋 新助」だが、
今回は盟友・辰之助のためにと、玉三郎が「美代吉」、仁左衛門が「三次」を務め、
まさにかつての辰之助の名舞台の再現となった。
酷薄さをたたえた、この世のものとは思えぬ美貌の美代吉と、
その彼女に指先までぴったりと添わせるような色男の三次が並ぶと、
そこには新助の入る余地など全くなく、彼の純朴さ・哀れさが際立った。
美代吉への、叶わぬ思いが場を追うごとに高まりを見せ、
頂点を極めたあと、終盤で狂気を爆発させるという劇的な見せ方に、
当代松緑の持ち味が実に良く出ていたが、
それはそのまま、亡き辰之助が得意としたところでもあった。
美代吉に騙され(玉三郎の美代吉は確かに「騙した」と思われる)、
花道でくずおれ、何もかも取り返しがつかぬと慟哭したあと、
一瞬「しん」と静かになって、次に顔を上げたときの新助の目は凄まじかった。
当代・尾上松緑の面目躍如!

松緑の後ろに、いつも辰之助が居ることを、端々に感じた追善狂言だった。
不肖の自分の命を、できるものなら父に差し出したいと、
松緑は今もしばしば言っているのだが、
松緑が舞台に立ち、役に命を吹き込むことにより、
父・辰之助もまたこうして、再び命を得るのだと私は思った。
それは、辰之助の血を受けた松緑でなければ出来ないことだ。
そして、追善狂言ではなかったが『當年祝春駒』の、左近。
辰之助がこの世で見ることの叶わなかった、彼の孫は、
まことに真っ直ぐな、正しく筋の良い芸風の少年へと成長している。
彼の踊った曽我五郎は、墨跡も鮮やかに匂い立つ楷書の如き出来映えであった。
ひとり息子をここまで育てて来たあらしちゃんを、どうか褒めてやって欲しい。
辰之助がいたら、この才気ほとばしる孫息子を、どれほど愛したことだろうか!

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