ちょっと必要があって、昔の日記を掘り出して読み返していたら、
『1996年2月28日(水)晴れ』の欄に、
「昼にU女史よりTEL。アリス・ケジュラッゼ女史が急死し、
ポゴレリチのミュンヘンでのリサイタルは中止になったとのこと。』
という記述があった。
当時は手書きで、日記と言っても毎日数行しか書いていなかったので、
この件について私がどう思ったかの記録は無かった。
転勤先の松江での育児中で、娘が1歳になる直前だった。
ケジュラッゼ女史は2月18日に亡くなっているので、
U女史は十日ほど後に、私にそれを知らせてくれたことになる。
私はシツコい人間なので、日記はこのあともずっと続いている。
翌97年11月13日のポゴレリチ大阪公演に私は行くことになるのだが、
このときは(日記にも同内容の記述が残っているのだが)U女史情報によれば、
「ポゴレリチもかなり体調が悪いという噂を聞いたわよ。
○○で(と、U女史は具体的な病名まで言った)、もう長くないらしいって。
……もしかしたら最後の来日になるかも」
ということで、私はヒエーと震え上がって
「お願いします!最後かもしれんて!!大阪だけでも行かせて下さい!!」
と、主人に頼み込んだ。
主人もさすがに顔色を変えてくれて(爆)、
リサイタルは平日夜だったというのに、子守のために晩の6時までに帰宅し
(このときは神戸在住)、お蔭で私は大阪に直行できた。
三宮から新快速に乗って、夕方で込んでいたから立ち通しだったが、
リサイタルのことしか考えられず、夢中で現地に向かったことを覚えている。
(結果としては、私は主人をひどく騙したことになる(汗)。
既に、あれから何回、来日公演に行っとるんだ私は(爆爆)。)
日記に残っているこの日の感想は、本プロの鮮やかさへの絶賛と、
アンコールのブラームス(「三つの間奏曲作品117」)に愕然としたこと、
の二点だった。
このときのブラームスは、あまりにも孤独な音楽で、
聴いているのがいたたまれないようなものがあり、
そのことは、拙サイト内の97年の感想文にも記録してある通りだ。
ちなみに拙サイト内の演奏会レビューの文章は、99年までのものはどれも、
U女史主宰の同人誌に投稿・掲載して貰ったものの再録だ。
私が自分のサイトのためだけに感想文を書くようになったのは、
2005年以降ということになる。
さてそのあとは、99年11月21日まで日記にポゴレリチの記述は出てこない。
今のように道楽日記ではなく、育児日記のほうが主体だったからだ。
そして今になってみると意外なことに、99年秋の大阪公演については、
私は、97年より安定感があるように思ったという意味の感想を書いている。
本当にそうだったのだろうか。
ポゴレリチはこのあと約一年ほどで、本当に弾けなくなってしまい、
全面的な療養生活に入ることになるのだが、当時の私の感触では、
97年より99年のほうが、安心して聴ける演奏会だったようなのだ。
それにしても、世間では、ポゴレリチの経歴を語るときに、
『夫人のケゼラーゼを亡くしてからは数年間、演奏活動を休止し……』
という書き方が多いが、実はこれはあまり正確ではない。
ポゴレリチは、96年2月に夫人を亡くしたあと、99年の前半まで、
少なくとも3年間ほどは、非常に精力的に演奏活動を行っていたのだ。
当初、彼が『喪に服した』ように見えたのは、ほんの2ヶ月前後のことで、
96年4月にはもう、N響創立70周年記念特別演奏会の客演で来日しているし、
この年は11月にも再度来日し、そのあとは北京・上海でも公演し、
現地の指導者や学生との交流会を持ったりもしている。
サラエボチャリティ財団を設立し熱心な活動を開始したのは、97年だった。
同じ97年には再度の来日もしているし、ロンドンでチャリティ公演も行った。
ボスニア・ヘルツェゴビナの復興のため、クウェート公演を実現させたことが、
イギリスの新聞記事になっていたのも、99年5月のことだった。
その他、99年後半から2000年初めまでの間はずっと、
ヨーロッパでも多数公演し、大規模な北米ツアーも行った。
私は毎年の、そうした彼の活動実績だけを見聞きしていたので、
当時は薄情にも、『案外、大丈夫なんじゃないか』とさえ思っていた。
ポゴレリチが本当に演奏活動を休止するのは、
2000年後半になって、ドクターストップがかかったときからだ。
当時のロンドンのマネジャーのデニス・カンターが、
『2002年秋まですべての演奏会をキャンセルし、全面的な療養生活に入る』
と公表したのは12月のことだった。
私はそれをインターネットで検索していて初めて知った。
ああ、やはりそうなのか、ついに来たか……、
という納得というか、私なりの絶望感があったことを覚えている。
ケジュラッゼ女史を失ったポゴレリチが、無事でいられる筈がなかったのだ。
四年間も尋常でなく頑張ったあとだけに、事態はかえって深刻に思われた。
復帰は、もう難しいかもしれないと、そのときは思ったものだった。
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