転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



(前の、『悲しきワルツ』の文章を書いてから既に一週間経っていた。
本当に驚いた。体感では2日くらいだと思っていた。
以下、とりあえず、その後の報告事項として。)

1月27日(土)のポゴレリチの東京公演には、私は行っていない。
チケットは実は持っていたのだが、前後の土日が神社行事でいっぱいで、
とてもじゃないが出られない状況になり、
サントリーホールの前に予定していた歌舞伎座・新国立劇場の切符とともに、
一切合切、都内在住の友人に譲った。
ポゴ氏のリサイタルだけでもなんとかならないかと、随分考えたが、
前も書いた通り、広島―東京の移動時間がどうしても捻出できなかったのだ
首都圏に住んでいないために、私は実に多くのものを逃し、
失っていることを改めて痛感した。
残念だが致し方ない。ほかに選択の余地が無かった。

そのポゴレリチが、東京の前の北京公演のときから、
下肢をどうかしたらしく、杖を使って歩くようになった、
……と心配する書き込みが、複数のSNSに出ていたのだが、
その真相が、サントリーホールの開演前リハーサルのときにわかった。
私がチケットを譲った友人が、開演直前に、
「ポゴさん、北京で滑って転んで膝を傷めたんだって」
と知らせてくれたのだ。
最初、私は彼女が誰か情報通の人から聞いてきたのかと思ったのだが、
なんと、これはポゴ氏本人の説明により、わかったことだった。

ほかの会場でもそうなのだが、ポゴ氏は開場してお客さんが入って来ても
ステージ上でリハーサルを続けていることが多い。
客席が埋まって行く途上での響きの変化を、彼は弾きながら聴いている。
この日は、そのリハーサルの終わり頃、夫人が彼の旧知の人を案内してきた。
それでポゴレリチは、おもむろに弾くのをやめて立ち上がり、
挨拶をし、舞台上から、脚の件を自分で説明し始めたのであった。
「北京に着いたら気温マイナス7度で、空港の前の道が凍っていて、
そこで滑って転んでしまった(と彼はジェスチャーをした)。
それで両膝を傷めて、手は片方だけ手首に近い部分がちょっと腫れているが、
ダメージは大きくなかった、ラッキーだった、云々」。
ポゴ氏は主に、そのステージ下にいる御友人に向かって話していたのだが、
既に開演時間が迫っていて、着席している人達が大勢いたので、
期せずして、皆にむかって舞台で発表するような格好になり(^_^;、
私の友人もそれで事態を知って、知らせてくれたのだった。

ポゴ氏は東京でも杖を使っていたそうだが、
杖にすがっている状態でもなく、要るとなったら使う感じで、
カーテンコールの動画でも、杖は楽譜と一緒に手に持っているだけだった。
通常、ポゴ氏は演奏するとき、予定曲目の譜面をまとめて持って出てきて、
今すぐ要らない楽譜は「ぺし」と無造作に床に放り出すのだが、
今回は杖も一緒に捨てていたとのことであった(^_^;。
次回から王笏を持って来ればいい、と別の友人がSNSで書いていた(笑)。
気を付けていても転倒するときはどうしようもないものではあるが、
ポゴ氏も65歳、いろいろ関節にクる年齢だろうから、
このあとは暖かくして、よく養生して貰いたいものだと思った。
御本人の言じゃないが、今回は実に幸運であったと言うべきだろう。
あれだけの長身で、相応に体重もあるのだから、
手や指の怪我も怖いし、万が一打ちどころが悪かったりしたら、
演奏会キャンセルどころか、おおごとになりかねなかった(大汗)。

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ポゴレリチの1月20日の大阪と21日の豊田のリサイタルを聴いて、
私にとって最も強烈だったのはシベリウスの『悲しきワルツ』だったのだが、
今回、大阪に一緒に行った友人が、
「シベリウス、凄かったね!ポゴのは初めて聴いた!!」
と終わってから言っていたのがまた、なかなか印象的だった。
というのは、この友人とは2010年の福岡公演も並んで聴いたので、
『悲しきワルツ』は本当は初めてではなかったのだ。
この友人は、概して記憶力の良いヒトなのだが、
あの福岡公演が別の意味で凄すぎたのと、
この10数年の間に、彼の演奏があまりにも大きく変わったのとで、
同じ曲として繋がらなかったのだろう。

ポゴレリチは1996年から2016年までの20年間、CDを出していないので、
2010年当時どのような演奏をしていたかは、記憶を辿るほかないのだが、
私の中に残っている印象としては、2010年の彼の『悲しきワルツ』は、
拍感がフリーダム過ぎて三拍子に聞こえず、
どうかすると葬送行進曲みたいだった、ということだ。
また、ディナーミクの感覚も尋常ではなかったので、
(聴き手にとって)思いがけない音を唐突に強打するような弾き方がよくあり、
「……!?今、どっから音がした!?」
と驚くような瞬間が、しばしばあった。

それでも、私は筋金入りのファンだから、あの来日公演のときは、
東京公演でも、そのあとの福岡公演でも(←2回も行ったのだ。命知らずだった)、
どうにかして何かを聴き取りたいと願い、
「途中のあの、高めの音で旋律が出てくるところが来たら、
きっと、きっと、なんとかなるはず……!」
などと、解決を信じて待っていたのだが、
とにかく遅いうえにテンポが一定しないので、
どこをやっているのか、しょっちゅう見失い(聴き失い)、
挙げ句、いよいよ音楽が最高潮に差し掛かったときには、
「音でかっっ!!」「ふ、不協和音の束……!!」
となってしまい、心の中は大汗で、早く終わらないかなと思いつつ、
一方で、正体を見極めるまでは、まだ終わっては困るという思いもあり、
聴いているだけなのに、勝手に大混乱を来していたのだった。

あれから更に10数年が過ぎた今、あの演奏をもう一度聴くことができたら、
私は何を感じるのだろう。
残念なことに、時間は巻き戻せない、そもそも演奏会は一期一会だ、

……が、
……そうだった、「ようつべ」という有り難いものが、あったではないか(汗)。

私はそれに思い至り、さきほど、pogorelich valse tristeで検索してみた。

すると、果たして、あった。
福岡公演そのものではないが、時期的に結構近い音源が。
リンクを貼るのは差し控えるが、どなたでもご覧に(お聴きに)なれる筈だ。

怖いもの聴きたさで、私はそれを、再生した。
ら。

なんと。
意外と綺麗だ、と感じた、のである(爆)。
勿論、遅くて、拍感も普通ではないし、フォルテは突然の爆音で、
私の記憶は概ね正しかった。
にも関わらず、正直に言おう、それは音楽として美しい、と私は思った。
2004年から2011年頃まで、ポゴレリチの演奏は崩壊していたとか、
暗中模索の時期であったとか、皆も言うし私もそういう感じがしていたのだが、
現在の感覚で聴くと、――つまり、この演奏がこのあとどのように変化して
どう完成されて行くかを、既に知っている2024年1月現在の私が聴いてみると、
このとき彼が何を追求し、どの音を聴いていたかが、
私なりにだが、感じ取れ、理解できる感触があった。

そのまま聴き終えて、最終的に、純粋に、
「なんとも、これはこれで、実に、いい音楽だったんだな……」
と思うことができたのは、驚きであった。
あの頃のポゴレリチはinsaneであった。
こういう演奏に付き合わされる聴衆側の苦痛も、決して小さくはなかった。
それは今も否定しない。
今でさえ、生でこのテのものを3時間ぶっ通しで聴くのは厳しいかもしれない。
しかし同時に、彼の試みは、根拠のある、首尾一貫したものであったことも、
年月を経て初めて確認できたのだ。


いや、これはいよいよ私が骨の髄まで毒されて、
手の施しようがないところまで行っている、
ということかもしれないんですが(逃)。

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(資料のアウトラインだけ置いておくので、できたらいつか誰か
補足取材をして、ポゴ氏本人にもアイディアの変遷やその契機について
聞いてくれたらいいな~~~、的な(^_^;)

・1981年9月5~7日、ポゴレリチ22歳当時、
シューマン:交響的練習曲作品13をミュンヘン、ヘルクレスザールにて録音。
日本での発売は1983年7月。

・1981年11月25日~、来日公演Aプロの一曲目として交響的練習曲作品13を演奏

・この時期の演奏は、全体の構成としてはシューマンの初版に倣いつつ、
楽譜は主として第2版を用い、第2版に無い第3変奏と第9変奏、
及び第1変奏も初版を使っている。つまり、主題+12の変奏。
また、私自身は譜面をきちんと追って弾いた・聴いたことがないので定かでないが、
この最初の形式では、各変奏曲内での反復は施していないと思われる。
80年代初頭は、ポゴレリチが全体的にタイトで切れ味の良い演奏を選択していたようで、
同時期の録音であるショパンのソナタ2番においても、
90年代に見られるような反復は一切行われておらず、
当時は「演奏時間が長い」ことがポゴレリチの特徴であるという前提は
誰にも・どこにも、無かった(^_^;。

・1983年6月2日3日、来日公演Cプロの一曲目として交響的練習曲作品13を演奏。
遺作変奏は無し。
当初、アリス・ケゼラーゼとのジョイントリサイタルの予定であったものが、
ケゼラーゼが病気で来日を取りやめたため、
急遽、ポゴレリチのソロ・リサイタルに変更されたもの。
83年来日公演時の、彼の本来のソロ・リサイタルの曲目には
交響的練習曲は入っていなかった。

・1984年出版のReflections from the Keyboard(David Dubal)の中で、
I'm not going to play the Schumann Symphonic Etudes any longer,
although I've recorded it, and it was one of my best stage works.
I just don't have anything to say about it anymore. It's dry for me.
Maybe I'll come back to it in some years.
と発言。

・1994年12月4日東京でBプロの後半として交響的練習曲作品13を演奏、
来日公演としてはこのとき「遺作変奏付き」初出し。
ただし、来日前の曲目発表では、遺作変奏1~5は、
主題から変奏11まで弾いたあと、変奏12(=フィナーレ)の
直前に5曲とも挿入されることになっていた。
このあと演奏順序が変更されることになり、実際のリサイタルでは、
主題のあと遺作変奏1~5、それから第1変奏から終曲まで、
(つまり2024年1月来日公演のかたち)となった。
来日公演プログラム冊子の中に変奏順の変更に関する紙片が挟まれており、
ポゴレリチからの意思表示は演奏会の直前であったと思われる。

・1995年11月13日の三鷹公演において(私自身は行っていない。友人からの伝聞)、
再三のプログラム変更ののち、最終的に演奏会の当日、
しかも前半まで終わって休憩のあとのアナウンスにより、
突然、プログラム後半として、交響的練習曲が演奏されると発表された
(直前までの予定ではラヴェル『高雅で感傷的なワルツ』とショパンのソナタ2番)。
このとき遺作変奏があったか、あったとしたらどの位置であったかは資料なく不明。
なお、この三鷹のプログラム変更の理由は、「体調が大変悪いため」。
コンディション不良のとき弾く曲として唐突に交響的練習曲が出て来る、
というあたり、83年に続き、この曲が彼の急場を救う一曲となった訳で、
確かに"one of my best stage works"(Dubal 1984)であったと思われる。

・2018年12月1~8日の来日公演において、
交響的練習曲「遺作変奏付き」がプログラム後半として演奏された。
このときの曲順は、遺作変奏1~5から開始し、そのあと主題と12の変奏。

・2024年1月20~27日(予定)の来日公演において、
交響的練習曲「遺作変奏付き」がプログラム前半2曲目として演奏された。
曲順は、主題のあと遺作変奏1~5、そのあと12の変奏、
つまり94年の来日公演時のアイディアに戻ったかたち。
2018年以後に、何か考えがあった・考えが変わった等の事情があり、
それゆえにこそ今回改めてこの曲を取り上げ、
この順序・このプログラムで演奏したのだろうと思われる。

また、私の記憶では、少なくとも2018年以降は12の変奏の箇所にも
それぞれ適宜反復が施されて、全体に長大になったという印象。
少なくとも、聴いていて「ここにリピートがあったのか」と
意識した箇所がいくつかあった。
しかしこれについてはCD等この時期の記録となる音源がないので、
今となっては詳細な検証は不可能。
現在の彼の使用楽譜のエディションなども興味深いものがあるので、
いつかどなたか盗み見て、…じゃない、取材してくださったら嬉しいです(逃)。


以上、ポゴ・ヲタとしては、この話だけでリサーチ・ペーパー1本書けそう(^_^;。

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・1月のこの時期、私は何しろ神社の正月の奉仕でヨタっているので、
新型コロナやインフルが各地で広がっている最中に、
わざわざ大阪や名古屋に旅をしたくはなかったのだが、
ポゴ氏の演奏会があるので、さすがにそちらが優先であった。
KF94をがっつり着用して出かけたが、行ってみると、
ポゴ氏本人も終始マスク姿で、なかなかの警戒ぶりであった。
演奏会本番もマスク着用のままステージに登場し、
ピアノの前に座ってからマスクを外して胸元に仕舞う、
という段取りで、弾き終わったらまた即座にマスク着用、
カーテンコールもすべてマスク姿であった。
このマスクがまた、不織布らしかったが暗めの柿色みたいな色合いで、
本番の蝶ネクタイや、演奏会後の私服の外套の色などと、
なんとなくコーディネートされていて、不思議な味わいであった(^_^;。

・大阪公演では、開演の1時間前に開場され、入ってみると、
予想どおりポゴ氏が、十年一日のごとき普段着姿で舞台上にいて、
リハーサルというか、楽器の確認みたいな演奏を、していた。
靴を脱いで、ソックスでペダルを踏んでいた。
足裏でペダルを掴むみたいな感触は、おそらく繊細なコントロールができて
良いものだろうなと想像した。
リハーサルのときは、上記のように完全にマスク姿で、
弾いていたのは、シューマンやショパンの部分的なパッセージとか、
同じ音型で上下するような指慣らし的なものであったが、
やはり、なかなかに美しい響きで、客席も概ね静かに聴き入っていた。
マネジャーの方なのか、スタッフさんが時間を告げに現れ、
ポゴ氏は弾くのをやめて、楽譜を揃えて布製トートバッグに入れ、
靴をはき、床においていたペットボトルを持って、退場した。

・このリハーサルも、本番も、休憩中も、照明は全然変化しなかった。
一般的な音楽会では、時間が来ると客席の灯りがしぼられ、
入れ替わりに舞台上がカっと明るくなって、
いよいよ始まるのだ、と感じられるものだが、今回のポゴ氏に関しては、
大阪・豊田ともそういう区切り的なものは一切なかった。
昔のポゴレリチは「コンタクトレンズが乾く」という理由で、
かなり舞台上を暗くして演奏していたと思うのだが、
今、明るいまま弾いているのは老眼だからだろうか(殴)。
なお、さすがに本番では彼は演奏用の靴をはいているので、
舞台袖のほうから靴音が聞こえて来ると、我々は
「ああ、来たな」とわかり、拍手を始めるのであった。

・大阪はサイン会が楽屋口で行われた。
私はたまたま並んだのが後ろのほうだったので、
自分の番が終わると、間なしにサイン会自体が終了し、
期せずして、ポゴ氏の楽屋出を見送るかたちになった。
出口付近にいた大勢のファンが拍手する中で、
ポゴ氏はマスクを外すと、細い葉巻(シガリロというのか?)を
胸元から取り出し、早速火をつけた。
厳格なマスク着用については、私は、
「ヨーロッパの人なのに、これほどマスク着用の習慣を取り入れるとは」
と感銘を受けていたのだが、この歩き煙草に関しては、
「そこはちょっと違うわ(^_^;」
と思った。

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ポゴレリチの20日(土)大阪公演と21日(日)豊田公演に行って来た。
両日、同じリサイタル・プログラム。

一曲目ショパン『前奏曲 作品45』、これが文字通り「前奏曲」として
――つまりリサイタルの最初に、ほかの大曲の前に演奏されるのを聴いたのは、
ポゴレリチに関する限り、私には初めての経験だった。
ポゴレリチと言えば、世の中ではまずはテンポが激遅という前提があるが、
今回の前奏曲に関しては、存外、速くて、しかも余韻があまり長くなく、
ここから本日のポゴ・ワールドが開かれるという、明確な開始の一曲になっていた。
音が実に多彩でこのうえなく美しく、マチネなのに夜のとばりが降りてきて、
一気に夜想曲のような雰囲気に包まれた。

そこから、続けてシューマン『交響的練習曲』へ。
今回は、主題のあと遺作変奏5曲が入って、第一変奏に戻る構成。
例によって譜面を置いての演奏なのだが、
”主題が終わったら、後半に掲載されている遺作変奏に先に行くから”、
……等々とポゴ氏が譜めくり担当の方に指示している様子が見えて、
遺作変奏のあとには即座に第一変奏のページに戻って来なければならず、
譜面の扱いが大変そうだった。

この、『交響的練習曲』はポゴレリチの最初期からの
レパートリーのひとつで、81年にグラモフォンで録音し、
同年の初来日でも次の83年の来日でもリサイタルプログラムに入れており、
若い頃にかなり長く手がけた曲だったのだが、
84年のDavid Dubalによるインタビューの中で、
「あれについては、もうこれ以上表現するものがなくなった」
「私にとっては、枯れてしまった曲」
「ひょっとしたら、何年か後に、またあの曲に戻るかもしれないが」
等々と言っていたものだった。

そのときの言葉どおり、一旦別れた曲にまた戻るときが94年に巡って来て、
それ以来彼は、かつては取り上げなかった遺作変奏をつけて弾くようになった。
どうしてそうなったか、また遺作変奏5曲をどの位置に挿入するかについても
彼がどのように思考してきたのか、試行錯誤の跡も見える
ので、
YuanPuか、どなたか(逃)、いずれ取材して下さいませんかと願っている。
おそらく現在のほうが、タイトル通りシンフォニックな演奏になっているのでは
と想像しているのだが、80年代初期の実演には私は接しておらず、
この曲に彼が「帰って来た」経緯、及びその後の考えについて詳述した記事等も
私の知る限り出ていないと思うので、諸々、推測の域を出ないのだ。

ときに、今回の『交響的練習曲』では、
遺作変奏の5番の美しさが、特に強く切なく心に残った。
まさに珠玉の煌めき、という一曲であった。
二十代で弾いていたときとは違う、現在のポゴレリチならではの境地は、
もしかしたらこの一曲の、音の綾の中にこそ集約されていたかもしれない。

プログラム前半2曲はどちらも最初期からのレパートリーで、
彼のデビューアルバムとセカンドアルバムからの選曲になっており、
聴きながら、あの出発の日から早40年余が過ぎたことに改めて思い至り、
彼が現在到達した場所を感じて、深く感動はしたけれども、
同時に、救われない哀しさのようなものも、心のどこかで強く感じた。
こうやって、様々な出来事をのみこんで、どんな人生もいずれ終わるのだなと
思わずにいられなかったからだ。
そしてその日は、既に、そう遠い未来のことではない……。

後半の一曲目はシベリウス『悲しきワルツ』。これが強烈だった。
いつぞやポゴレリチの演奏を強いブランデーにたとえた文章を読んだことがあって、
それで行くなら私などは、既に味わい尽くしてアル中の域ではないかと思うのだが、
それでも尚、今回のシベリウスにはクラクラきた。
ほのかな灯りの揺らめきが見え、このままあの世に行ってもいいくらいの
甘美な目眩が、穏やかな潮の満ち引きのように深いところに押し寄せ、
動悸が強くなってきて、
「これはヤバい……!」
と正気を保とうとしながら幾度も思った。
聴き手が狂う、というのがポゴレリチの真骨頂ではあるけれども(汗)。

これを導入にしてシューベルト『楽興の時』を聴くと、
1年前の浜離宮では、穏やかな木漏れ日や、そよ風の渡る音だと思ったものが、
今回は「黄泉路を照らすほの白い陽のもとで眺めている何か」のように感じられた。
音数が少なく音域も広くないのに、途方もない異世界が静かに立ち上がり、
「これは、これは…変なところへ、持って行かれる…!!」
と意識の片隅で思いつつも、聴き手として引き返せず……。
シューベルトは、一体どういう音楽を書いていたのだろうか。

このまま終わっていたら帰る方法がなくなるところだったが、
ポゴ氏は確信犯なのか、アンコールのショパン『夜想曲 作品62-2』が用意されていて、
これでどうにか最初に戻ることができた、と思った。
つまり、ショパン『前奏曲作品45』を始める前の時点に。
2010年のリサイタルでは、何の曲かわからないほど解体されていた作品62-2が、
今や、私をあるべき場所に連れ戻してくれる曲になっていたことにも、
彼の経てきた道程を実感して、感慨深いものがあった。

ポゴレリチは私にとって実に特別な演奏家で、彼に関してのみ、
88年以降、ほとんどの来日公演に可能な限り行って、
ここまで35年以上に渡り、生演奏を中心に聴いてきた。
様々な時期があり、その変遷も、根底に揺るぎなくあるものも聴き続けてきて、
もう大概、彼の「あの手・この手」はわかったと、厚かましくも思っていたのだが、
やはり聴くたびにこの人は強烈で、得体が知れず、こうして燃料を投下されては、
どうしてもまた聴きたいと思わずにいられなくなるのだった。
これはもう、どっちかが死ぬまで聴くのだなとつくづく思った、今回の来日公演だった。

それにしても、あの楽譜はどうにかならないのだろうか。
19世紀的な感覚を維持したがっている(と思われる)ポゴ氏なので、
タブレットなど論外、コピー譜で編集するのも嫌なのだろうかなと思うが、
行ったり・来たりの譜めくりになるシューマンもさることながら、
ショパンの2曲など最早ばらばらで、楽譜の体を為していない感じだった。
おさえていないと、ふとした空気の動きで1枚1枚が飛んで行きそうだったし、
何かの機会にあの楽譜が損傷されたら演奏はどうなるのだろうか
という不安も、聴き手として感じた。
譜めくりを担当された方々のご苦労がしのばれる。
彼の演奏会を成立させている陰の功労者は、
間違いなく、譜めくり担当者の方々である。


追記:21日の豊田公演から27日の東京公演まで空いていて、
どうしてだろうかと思っていたが、25日に北京公演が組まれていた。
本州の西半分だけでうろうろしている私などには、
思いつきもしない公演日程であった。
尤も、81年晩秋の初来日のとき、途中で国連で演奏するスケジュールがあって、
日本ツアー最終の仙台公演の前にニューヨークまで一往復した、
……という一件よりは、極東公演として遙かにマトモな話ではあるが(^_^;。

追記2:上の文章で私は、大阪と豊田のどちらで感じたことであるかを、
敢えて明確にしないで書いたのだが、それは、
ふたつの公演の印象が基本的に大きくは違わなかったことと、
聴く側の私のコンディションの問題として、豊田のほうが状態が良く、
「昨日のはそういうことだったのか」と豊田でわかった部分もあった、
というのがその理由だ。
豊田のほうが、心身の状態が良好になった私にとって解像度が高かったし、
同じプログラムを2日続けて聴いた甲斐があったとも思った。

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友人某氏が、2025年1月の予定と思われる、
ポゴ氏の演奏会情報を見つけて教えてくださった。
ありがとうございます!

所沢市民文化センター ミューズ 2024年度事業計画(PDF)
上記のPDFファイルを開くと、途中の〈ピアノ・シリーズ〉の四番目に、
『(4)イーヴォ・ポゴレリッチ[ピアノ/クロアチア](アークホール/1月)
*1980 年代以降高い人気を誇る名手。世界で最も強烈な個性を放つピアニスト。ミューズ初登場。』
とある。日時詳細は不明だ。

来年1月に関しては、既に読響への客演が発表されているので、
2025年1月21日(火)19:00 読響定期演奏会 ショパンP協奏曲2番@サントリーホール
その前後でリサイタル等も何かあるだろうと予想はしていたのだが、
私自身としては、所沢はノーマークであった(^_^;。
これを発見し得た某氏に感服している。


それにしても、所沢か……。
西武新宿線そのものは、学生時代に一応、馴染みではあったのだが、
私が住んでいたのは大昔で、航空公園駅の開業は、
私が卒業した年の5月にあたっており、当時は全く縁が無かった。
所沢に行くのであれば、かつて暮らした下宿界隈を散策したり、
高尾まで足を伸ばして、清志郎の墓参りに行ったりなどもしたいけど、
……1月って、毎年、私が極限までヨタってるのでねぇ。

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その後、第二地方銀行Bと信用金庫C(イニシャルにする意味なし)は
どちらも郵送によるやりとりのみで、相続手続が完了した。
JAバンクは神社社務所のほうに担当者のかたが足繁く来てくださったので、
こちらは大変スムーズに終わった。
かんぽ生命は、最初、
「受取人御本人さま(=母)に窓口においで戴きませんと…」
とややこしいことを言っていたが、
94歳の母が車椅子で長時間外出するのは負担になるので、
私が以前、娘のかんぽ契約の件でお世話になった担当者の方に相談したら、
母の署名など事前に必要書類を揃えることにより、
我が家で手続して戴けることになった。

一昨日には、税理士さんからメールが来て、
そろそろ準確定申告の準備に入るので、
源泉徴収票や保険関係の書類など、揃えておいて欲しいと連絡があった。
揃っているかどうかはともかく(殴)、どれもこれも捨ててはいないので、
父死後関係の書類が入っている「だいじなもん箱」を掘り返せば出て来る筈だ。
当面、源泉徴収票が届いていないことだけが問題だが、
死後4ヶ月以内だから2月21日までまだあるし、多分なんとかなるだろう。
……あ~~、そろそろ私は自分の確定申告も用意しないといけないんだよな。
面倒だな~~~。

実家の光熱費関係は私の口座から落ちるように手続しなおし、
父の携帯電話と、母用に私名義で契約していたガラケーも解約したが、
実家の固定電話の承継の件だけ、まだ何も言ってこない。
12月4日に、0800-2000-116に連絡して手続の仕方を教えて貰い、
死亡診断書のコピーや私の身分証明書などの必要書類を、
口座振替申込用紙とともに鹿児島の加入センターに送る、
という段取りを教えて貰ったのだが、
未だに、記入用の口座振替申込用紙が送られてこないし、
鹿児島の加入センターがどこなのか、住所等も不明だ。
これって、もしかして自分で最寄りのNTTに用紙を貰いに行ったり、
送付先を調べたりして動かないと、始まらないのだったっけ?
この件は、再度電話して確認しないといけないかもしれない。

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12月31日から、年越しも正月もなく働き続けるワタクシを
ついに神さまが憐れと思し召しになったのか、
きょうは、出勤したら午前中の祈願がキャンセルされていて、
平日のため初詣客もほぼ無く、社務所がとてもとても暇だった。
御蔭で、あり得ないほど穏やかで静かな午前中になった。

私は本当に久しぶりに、時間を気にせずに社殿の掃除をし、
このあと節分まで断続的に予約の入っている厄祓のために、
必要な授与品を揃えて袋に入れ、
総代会の会計担当の方とちょっと打ち合わせをしたりなどして、
あとは数件の電話対応をしたのみで、帰って良いことになった。
午後にも団体の御参拝が予定されていたが、
それはほかの総代会執行部の方々で対応して頂けることになった。
更に素晴らしいことに、明日も来なくて良いと言われた。

なんと、なんと!これから1日半の、お休み(滂沱)!!!

それで、帰り道、自分への祝いに、花を買った。
チューリップとスイートピーの、ピンクの組み合わせの花束。
ああ、これから、いよいよ、初めて休むのだ、大晦日以来……!!!

帰宅して、花を飾り、超どうでもいい内容の昼食を済ませたのち、
おもむろに和室に布団を延べ、昼寝に入った。
リビング床やソファでうたた寝などというケチなものではなく、
六畳間に敷き布団&掛け布団の揃った、正式な午睡である(笑)!!
「ああ、とうとう、ここまで来た……!!」
と私は布団の中で幸福感に浸った。
休みたかった。寝たかった。昼間からごろごろ。最高だ。
ついに、ついに、正月行事も終盤を迎えたのだ。
あとは18日に再度、出勤すれば、多分、企業安全祈願祭も終わりだ。

過去イチ、長かった……(涙)!!!

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きょうは初めて、午後二時に自宅に帰り着くことができた。
初詣は徐々に落ち着きを見せ、次なる事態は、
神社に持ち込まれる(=文字通り「捨てに」来られる)、
正月飾り・門松・鏡餅、等々との対決、というフェーズになった。

毎年思うが、なぜ、中身を食べ終わった餅プラスチックパックとか、
土も鉢もついたままの門松まるごと、神社に放り出して帰るのかね(--#)。
賞味期限が3年くらい前に切れた個包装の餅も今朝あったし。
注連飾り等にしても、紙袋やビニール袋に入れたまま置いて行かれるので
総代会の皆で、全部分別して、ゴミ部分は地区の収集に出しているのだよ?
「お焚き上げ」とは、事前に届出をして消防署の許可を取ったうえで、
神社の庭の一角で、マッチで火をつけて地道に燃やす行為だ。
どういうイメージで一切合切を神社に出しに来られるのか不明だが、
境内のどこを見ても、大規模な焼却炉なんか無かろう?
古札、御守、ほか注連飾り等の可燃部分が精一杯だ。
自分の出したモノが、人の手作業で燃やされるというはどういうことか、
一度くらい、考えてみて欲しいものだ。

ときに、朝、社務所で顔を合わせた、新任の総代さんのひとりが、
この人は初詣期間中も居たり居なかったり程度の出席率だったので、
「お正月の疲れは取れましたか~(^^)?」
と長閑(のどか)なことを仰っていたが、
私は大晦日から続いたまま、まだ休んだことがありませんで。
アナタはもう、正月のいろいろが終わって、休息もされ、
すっかりリフレッシュされた段階なんですね(涙)。

社務所仕事は有り難いことに午前中だけだったので、
昼過ぎに一旦、実家に戻ると、
『中国電力ウニャムニャ』と名乗る会社から、
電気料金が安くなるとかどうとかいう電話がかかってきた。
そして、意味不明なプランについて滔々と(とうとうと)一人で喋り
今日これから訪問して点検したいとのことで、
「○○○さんはご在宅ですか?」
と父の名前を言うので、
「その人は死にました」
「ここでは電力も動力も一切使用していませんのでお断りします」
と塩対応してやった。

世帯主が死んだかどうかはともかくとして、
電話がこうして繋がっている以上は、
その家で電力を全く使用していない訳がなかろうと私は思うが、
先方は中国電力そのものではなく、電話もアルバイトらしくて、
丁重な言葉で謝罪して引き下がって行った。

よし。それでいい。
私は今、心身共に疲れ果てていて機嫌が最悪なんだ(--#)。
煩わすな(--#)


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16日(火)も出勤することが決まり、
私の初詣行事期間は、まだ終わらないことがわかった。
12月31日からこのかた、休日なく、ずっと私の年末年始が続いている。
相も変わらず授与所で毎日、破魔矢を売り、厄祓を受け付け、
会社お詣りの領収証を書き、祭典授与品を組み合わせて袋に入れ、
榊の枝を切りそろえて紙垂をつけて麻苧で結び、
電話が鳴るたびに(できる限り3コール以内で)取り、
……そろそろ半月なんだが、終わらない正月って凄いですね~~~

「12月30日に来たのに、閉まっとって、御守が買えんかった」
と今日、某参拝客の人から苦情を言われたが、なんぼなんでも無理ス。
翌日から不眠不休が始まるのだから、12月30日は全員休むワ。
我々は自販機ではない。


しかし、この状況がつくづくキツいと感じるとき、
その都度、元日の能登半島地震で被災された方々のことを思い、
こんなどうでもいいことで文句を言えるなんて、
とんでもなく贅沢なことだ、
と改めて思い直している。
文字通り「有り難い」ことなのだ、これは。
エンドレス正月だって、今、たまたま私たちの目の前にあるだけだ。
全然、あって当たり前ではない。
私は決して、断じて、これを積極的にやりたかったわけではないが(殴)
やれる境遇にあるならば、やはり真摯に務めるべきなのだ、
それが今の私の役目なのだから、と、
……思った。理性では。一応(殴&蹴)

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