転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



昨日は、総合福祉センターに行った帰りに、頼山陽史跡資料館に寄り、
企画展『すっぽらぽんと生きる~頼 静子の生涯と日々の記録~』
見ることができた。……間に合った。12月10日までだったのだ。

私の頼山陽趣味も既に十数年目に入ったので、
山陽の母・頼静子についても、その人生の概略は前提としてわかっている。
見延典子氏の『すっぽらぽんのぽん』(南々社)も幾度も読んだ。
しかしそれでも、彼女の残した和歌や書簡、日記などを
こうして折々に眺める機会が得られるのは有り難いことで、
昨日も、頼静子という人を、自分なりにリアルに感じることができたと思う。

頼静子本人は84歳まで生き、寡婦になってからも、
息子の山陽とともに幾度も京都旅行を楽しむなど、
現代の我々にもありそうな晩年の過ごし方をしているのだが、
当時として考えれば、これはそうそう無いほど幸運なことだった。
展示の書簡を読んだだけでも、ほかの家族は次々と死亡したことがわかる。
静子の生んだ4人の子供達のうち、2人は乳幼児のうちに亡くなり、
成人できた長男の山陽でさえも50代で、長女の十子は30代で、
そして養子に迎えた景譲も20代で亡くなっている。

今時ならば、このように家族が何人も病死する家は普通ではないが、
当時は、これが致し方のないことだったのだ。
生活水準が決して低くない藩士の家でさえ、この状態だったのだから。
江戸時代が、どれほど過酷な時代であったか、
その中で生き残るのがいかに運に恵まれたことであったかが、忍ばれる。
たまたま長寿であったがゆえに静子は、多くの家族親族との別れを経験し、
その都度、見送る側として残されることにもなった。
まさに、生きるとは、他者の死を見続けることである。

静子は天賦の才があり、幼い頃から書に優れ、和歌の名手であった。
嫁ぎ先の頼家の人達もそれぞれ能書家として知られるが、
静子本人の筆跡もまた実に美しいものだった。
教養ある母親であった静子は、夜に針仕事をする傍ら、
息子の山陽に『論語』や『孟子』を読ませた。
父の頼春水もまた、『保平物語』『義貞記』などを買い与えている。
歴史家であり漢詩人であった頼山陽は、こういう両親のもとで育まれたのだ。
幼い久太郎(山陽)の利発さや成長ぶりを、静子の実家の父の飯岡義斎は
「(親の)手柄、手柄、手柄」と手放しで褒めている。

静子の生涯を語るとき、この飯岡義斎の大らかさや情の篤さもまた、
いつも私の胸に迫るものだ。
この展示の表題にある『すっぽらぽん』も、この人の言葉だ。
実家の大坂を離れて、広島藩士・頼春水の妻となる静子に、この父は、
「よの中に道より外ハ何事もすつほらほんのほんにしておけ」
という言葉を贈る。
いちばん大切な道さえ踏み誤らなければ良いのだ、
あとはあまり思い煩うな、なるようになるから、それでいいから、と。

いつも変わることのない父の大きさが静子を根底から支えたからこそ、
慣れない土地での育児に奮闘したり、放蕩息子に悩まされたりしつつも、
彼女は挫けず、むしろ貪欲に人生を楽しむことができたのではないだろうか。
おばあさんになってからの、文化人たちとの交流の在り方や、
長期の京都滞在と買い物三昧、それに芝居見物の楽しみ方は、
現代の私も、これから大いに手本としたいところだと思った(笑)。

自身の老いや病いから逃れることができなくなっても、
静子は日記を書き続け、和歌を詠み、最後の日々まで心豊かに過ごしている。
私の愛する頼聿庵(いつあん)先生(=山陽の長男、静子の養子)が江戸在勤中、
視力の衰えた母上さま(=静子)宛てにメガネを贈り、
「これで書状をよく読み、妻の皐(さわ)にも読み聞かせてやってください。
上等のメガネですよ」等々と書き送っているのが微笑ましかった。
この皐もまた若くして亡くなり、やがて静子の妹の直子も先に逝った。
最晩年、半身不随となった静子の最後の二ヶ月間の日記は、
聿庵の代筆によるものである。

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昨日は、広島城天守閣で頼聿庵(らい いつあん)の書の展示を、
今日は、頼山陽史跡資料館で特集展『花鳥風月な書画』を、
それぞれ見て来た。

広島城のほうは、頼山陽の長男・頼聿庵の書のみを鑑賞する企画で、
『頼聿庵――躍動する運筆』と題し、掛け軸や屏風、画賛、遺品など
合計で40点ほどが、天守閣第二・第四層展示室で見られるようになっていた。

若いときの聿庵の書は、父親の山陽に似た美意識を発揮していて、
特に漢詩や画賛などは、もし解説がなかったならば、
私程度の鑑賞眼では聿庵の筆とはわからないものも多かったが、
彼の魅力はやはり大字書にあり、特に晩年の激しさのある書体は
白熱したような、力の満ちあふれたものだと感じた。
聿庵の書を語るとき必ず登場する『登瀛(とうえい)』二大字や、
『本源』『三省』など、まさに本領発揮の名作であると改めて思った。

   

ときに、広島城は復元であり、内部は博物館になっているのだが、
鑑賞目的で中に入ったのは、私はもしかしたら40年ぶり(汗)だったかもしれない。
日頃、行き慣れていないので勝手がわからず、第二層から見始めてしまったが、
先に第四層まであがって見ながら降りて来るのが、どうやら順路になっていたようだ。
常設展示に混じって、いきなり七言絶句六首の屏風から始まったので、
「前フリ無しに突然、聿庵先生なんですね(^_^;?」と最初は戸惑った。
登ってみてわかったが、紹介文等は上(第四層)のほうにあったのだった。

そして今日は、頼山陽史跡資料館の、
今月からの特集展『花鳥風月な書~風雅の世界に遊ぶ~』
開始直後のこの時期に、首尾良く見ることができた。
これまで、いつも会期が終わる頃に滑り込みで見ることが多かったのだ。
頼山陽史跡資料館のほうは、もう以前から慣れているので、
見る順番で迷うこともなく、効率よく鑑賞することができた。
頼山陽、頼杏坪、平田玉蘊、江馬細香、菅茶山、浦上春琴、
など、頼家の物語の中心人物となるお馴染みの人達の書や画が並び、
特に『風を探して』の一角では、頼山陽の書が年代順に並べ慣れ、
様々な書体の『風』の字の変遷の中に、そのときどきの彼の感性や境遇が
しのばれるようになっており、興味深いものがあった。

ちなみに『諸名流画巻』の後半には頼聿庵の画もあると解説にはあったが、
展示で開かれていたのは平田玉蘊の鶴亀の画の箇所で、
聿庵ファンの私としては、うしろのほうまで見せて戴きたい、
と、ついつい、思ってしまった。
聿庵の書は昨日堪能したばかりだが、画は一体どんなのだろう(^_^;、と。
広島城のほうの展示にもあった『富士自画賛』の富士山くらいしか、
聿庵の描いた絵、……じゃない、「画」は、私は思い出せない。
ほかに、もしかしたら以前の展示で、水墨画があったかもしれないが…。

今回の展示は、頼山陽関係限定ではなかったので、
少し時代が下ってからの作者達の手になる孔雀図の数点からは、
技法の進歩や現代的な感覚が感じられて、圧巻ではあった。
それらは一目で、江戸時代にはなかった筆致であることがわかった。
しかし、展示の最後はやはり頼山陽の、軸装『看月湖上作』で、
結局のところ山陽の書はそれだけで、一幅の絵画に匹敵する、
豊かな美を内包しているのだよなと、心足りた思いになった。
この二日間は、仕事から離れて、頼家の人々の作品を中心に、
数々の書や画に癒やされ、良いひとときを過ごすことができたと思う。
感謝感謝(^^)。

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頼山陽史跡資料館 令和4年度企画展示「青年 頼山陽」を
昼から見に行ってきた。ようやく見られた!

頼山陽の誕生から30歳までの、本人や家族や周辺の人々による、
書、書簡、日記など様々な記録が展示されており、
頼山陽の、書家として・学者としての非凡さもさることながら、
彼をとりまく人々の温かい思いや、普遍的な家族の情なども感じられ、
眺めていてとても和やかな気持ちになった。

特に、頼山陽の母方祖父の飯岡義斎は
実に情の篤い人であったことが伺われ、
小さい久太郎(頼山陽)に宛てて「飯岡じじ」として書いた手紙は、
優しく、思いやりに溢れており、この人はまたそれを実に大らかに、
表現する人だったのだなということが感じられた。
同様のことを、娘の静子(頼山陽の母)に送った手紙の中にも
以前、感じたことがあった。

一方、頼家の祖父の頼惟清(ただすが)もまた、
幼い久太郎にとって大きな存在であり、
この祖父が書いた「忠孝」の書を、頼山陽は生涯、肌身離さず、
護符として持ち続け、最後には相当傷んで劣化してしまったということで、
その文字の輪郭だけを複製したものが、今回、展示されていた。
これ自体は、頼山陽関連では必ずと言ってよいほど出て来る有名な一点だが、
今回は山陽の幼少期に焦点を当てた展示の一角であったので、
その流れの中で眺めるとまた、感慨も一入(ひとしお)だった。

少年期から青年期へと成長する頼山陽の書体や思想には、
父の頼春水や、叔父の頼春風、頼杏坪らの影響が、
そのときどきに見て取れるが、
いずれも若々しい勢いのある書ばかりで、見応えがあった。
珍しいところでは、妹の十子(とおこ)が
兄の山陽が寝坊している等と書き記したものが出ていた。
若い頼山陽が深酒をする放蕩息子であった頃、
妹の彼女は、ちょっとしたお目付役であったとのことだった。

周辺の女性といえば、もうひとり、平田玉蘊(ひらたぎょくうん)による
「王昭君図」に、頼山陽が賛を書いたもの、というのも印象に残った。
馬上に琵琶を抱いた姿の、典型的な王昭君の絵姿だが、
平田玉蘊の筆は繊細で優美で、そこに頼山陽が七言律詩を書いている。
これは以前、ふくやま草戸千軒ミュージアムでの「平田玉蘊展」でも
出ていたのではないかと思うのだが、あまり記憶が定かでない。
玉蘊の、かなり初期の作であると思う。
この段階で玉蘊と山陽は、まだ実際には出会っていなかった。
ちなみに、王昭君に関しては、漢詩をやる者にとっては
李白の五言絶句と古詩が有名だ。
若かった平田玉蘊と頼山陽は、王昭君にそれぞれ何を感じていただろうか。
それは勿論、各々の画と書(詩)に託され、表現されている筈ではあるが、
二人が何かを語るとしたら、……といろいろ想像してしまった。

――ということで、ひととき、頼山陽の青年時代に思いを馳せることができた。
きょうは割と時間をかけて、落ち着いて見ることができたのだが、
すべての展示をじっくりと味わうところまでは行かなかったので、
またこれからも折に触れて、違う角度から、
これらの書に再会したいものだと思った。

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頼山陽史跡資料館 特集展『頼家ゆかりの絵図』を
ほとんど滑り込みで見てきた。
16日(日)までで終わりなので、今日行かないと
もう私には自由になる日が無かったのだ。
しかし今日もキツキツのスケジュールの合間に
ふとした隙を突いて行って来たに等しかった。
あまり落ち着いて見られず。

全体として、頼春水の関係の絵図面が主体だった。
私はついつい、春水を山陽の父としてのみ捉えがちなのだが、
春水自身、その父である惟清によって様々な機会を与えられ、
二人の優秀な弟たち(春風、杏坪)とともに、恵まれた環境の中、
勉学に励み、高い教養を身につけて、若い日々を過ごした人だった。
今回は、春水が旅先で手に入れたと思われる絵図や、
交友関係の中で触れた様々な出来事の記録など、
春水の青年時代をいろいろと想像させられる展示が多かった。

同時に、「頼家旧宅図」「頼家屋敷間取り図」などは、
春水が成人し家庭を持ったあとに、自ら築き上げた頼邸の図で、
儒教に即した暮らしぶりが窺われ、
また「広島古図」や頼家に伝わる「日本地図」では、
それまでより旅の楽しみが広がった江戸後期にあって、
頼家や世の中の人々の、地理的な関心の広がりが感じられ、
それぞれに興味深いものがあった。

本当に、かなうことなら時計など気にせず、ゆったりと過ごしたかった。
しかし今の私は残念ながら、予定ががっつりと入っている毎日なので、
きょうも制限時間つきの、20分一本勝負(泣)であった。
行けただけでもヨシとせねばなるまいよ。
来て門に着いた瞬間と、見終わって出てきて5分歩いたところで、
電話が入ったのも、まあ、鑑賞真っ最中で無かっただけ良かったよ(涙)。

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ふくやま草戸千軒ミュージアム第23回特集展示「菅茶山と廉塾」を、
そのあと隣のふくやま美術館特別展「アーツ・アンド・クラフツとデザイン
ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで」
を観て来た。
入院中の父がどうしているか不安はあったのだが、
このところ、県内のコロナ感染者数も減少傾向が続いているので、
動くなら今かな、と思い(^_^;……。

草戸千軒ミュージアムのほうは、館内の客は私ひとりか!?という静けさで、
展示をすべて見たが、途中で誰にも会わず、素晴らしく集中でき、快適であった。
菅茶山(かん ちゃざん)は、江戸後期に福山で私塾を開き、
幅広い階層の人々の間に学問を広めることに尽力した儒学者・漢詩人で、
彼のもとでは頼山陽が講師を務めたこともあるので、
漢詩から頼山陽つながりで私は以前からこの人に関心を持っている。
今回はその廉塾関連の展示で、教育への菅茶山の思いを綴った書状や、
そこで使用された教材、講師や弟子の活躍の記録など、
地元福山ならではの、貴重な資料が出ていた。

教科書には孟浩然や杜牧など、私たちが漢詩講座で学ぶような詩が
多数取り上げられており、どんな講義だったのだろうと想像が広がった。
いつかは廉塾・菅茶山旧宅菅茶山記念館にも行ってみたいと思いつつ、
まだ果たせていない。
また、きょうの展示にあった菅茶山墓碑銘拓本を見ていたら、
碑文が頼山陽の叔父・頼杏坪の撰ならびに書、とあり、
これまた実物を見てみたいものだと思った。
菅茶山は80歳で没し、当時としては大変長生きであったことになるが、
残されている肖像は、がっしりした体躯に赤ら顔で、
「酒やけ?それとも酒さ(^_^;?」と、ついつい、思った。
メトロニダゾール軟膏がなかった時代……(汗)。

 

一方、ふくやま美術館のアーツ・アンド・クラフツは、
前売りを買ってまで楽しみにしていたのだが、
モリスのタペストリーは私の好みのデザインのものは出ていなくて、
そのうえ、途中で止まって結構な声量で喋るお客さんが何組かあり、
私語禁止でないことはわかってはいたが、落ち着かなかった。
ウイリアム・モリスから始まったアーツ・アンド・クラフツ運動が
大きく実り、米国にまで及んだのはなかなか興味深いことではあったが、
20世紀に入るとデザインの傾向が私の趣味とは違って来るので、
展示全体としては、主観的には期待したほどではなかった。
しかし、菅茶山と併せて両方楽しめたので、ヨシとする(^^)。

帰りの新幹線のA席側の窓から、マツダスタジアムが見えて、
3年ぶりに360度真っ赤に染まった客席スタンドを見ることが出来た。
やはり、マツダスタジアムは、こうでなくてはね!
試合は結局は負けたようで残念だったが、まあ、また明日明日!
久しぶりの自由な土曜日、しかも明日も休日の予定で、
私にとって素晴らしく解放された午後を過ごすことが出来た(^^)。

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頼山陽史跡資料館で、昨日から特集展の
『頼聿庵の書~大字書の魅力~』が始まっていたので、
きょうは皮膚科の帰りに行ってきた。
展示モノは来月も再来月もあるなどと思っていると、
瞬く間に期間が終わってしまうものなのだ!

 

私は書の素養など全くないのだが、
以前から頼聿庵(らい・いつあん)の書は好きだ
これまでに、頼山陽史跡資料館や頼山陽記念文化財団では、
頼聿庵に関する講座や講演など幾度か行われていたようだが、
私は全く聴きに行けてなかったので、このたびほとんど10年ぶりに、
彼の書だけを堪能する機会が得られた。

頼聿庵は頼山陽の長男だが、山陽が脱藩騒動を起こして幽閉の身となり、
妻・淳子と離縁したため、聿庵は山陽の両親(=聿庵には祖父母)の、
頼春水・静子の子として育てられ、春水の死後16歳で家督を相続した。
実父の頼山陽を凌ぐ能書家として知られるが、残された逸話からは、
彼が決して人格円満な人物ではなかったことが偲ばれる。
酒に溺れることも多かったようだ。

私が聿庵を気に入っているのは、彼の書いた文字の中に、
しばしば、ぎょっとするほど強い力を放つものが見受けられるからだ。
今回の展示の中でも、屏風の中の「叡」の一文字が強烈で、
私はしばし、それに魅入られて、その場を動けなかった。
一方で、父の山陽ならば一点一画と空白とのバランスが乱れることなど、
全くないほど美しい筆致と墨跡で書を仕上げていたのに対し、
聿庵の書は、特に晩年のものなど、尋常でない多量の墨を筆に含ませ、
文字の空白が大半つぶれてしまっても構わず書き放っており、
美意識のあり方が全く異なっていたことがわかる。

聿庵先生が、もしも同時代に生きてお会いできるような境遇だったら、
私はさぞかし彼を畏れ、敬遠し、しかし書や講義だけは、
遠くから拝見・拝聴できないものかと、悶々としたことだろう。
ときに頼聿庵は、科学的・進歩的な考え方の人物でもあったようで、
種痘に関心を持ち、自分の長男に種痘を受けさせた。
これは広島では初の事例であり、
長崎・佐賀についで日本で三番目の成功例となった、
とのことだ。
当時は多くの子供が 痘瘡(とうそう=天然痘)で亡くなっていた時代だった。
……サル痘で種痘が再び注目されかけている今、
ちょっとばかりタイムリー?なエピソードであった(^_^;。

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隣村の神社の春祭の手伝いに行った。
朝から行って、山道を登らされてクタクタだ。
実家父が80歳を過ぎてもこういうことをやっていた、
と考えると頭が下がるけどもよ。
私はそんなトシになるまで続けたりしない!と今日は改めて心に誓った。
私はもっと手前で、きちんと引退&隠居することを目標としているのだっ。
何もかも とっちらかったまま年寄りになるのだけは、ゼッタイに避けたい。

さて、それで夕方帰宅してじきに夕食、
以後の短い自由時間(涙)で検索していたら、
頼山陽史跡資料館の新年度の展示予定が更新されていた。
4月5日(火)~5月22日(日):特集展「新収蔵品展」
5月26日(木)~7月10日(日):特集展「頼聿庵~大字書の魅力~」
どちらも見逃せないが、特に頼聿庵(らい・いつあん)の書が見られるのが嬉しい。
私は何の素養もないが、彼の書がかなり気に入っている
頼山陽の絵画的・曲線的な書体も面白いとは思うのだが、
その長男の頼聿庵の書には、激しい情念が込められているようで、
眺めているだけで、こちらに強く迫って来るものがある。
ポゴレリチの演奏もそうだが、私は見とれるような美しい作品よりも、
むしろ心えぐられる強烈な芸術のほうに、より惹かれる、
ということなのだろうなと思っている(^_^;。

これを楽しみに、夏まで頑張る!


追記:これ↓もあった。ふくやま美術館にて、4月9日(土)~ 6月5日(日)、
アーツ・アンド・クラフツとデザイン ウィリアム・モリスからフランク・ロイド・ライトまで
コロナ禍で、昨年秋からこのかた、ほとんど出かけていなかったが、
今年度上半期は、こうした展示ものを楽しむことにしよう。

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午前中は、久しぶりに「漢詩の会」に出席した。
年末から節分までは、忙しくてなかなか行けなかったのだが、
ようやく私も時間が自由になり、漢詩の世界に戻ることができた(笑)。
まだまだ新型コロナ感染拡大中ということで、
欠席されている会員さんもあり、今回は私を入れて生徒は四名だった。

80代後半になられる先生は、きょうも明るくお元気であった(^^)。
先生は博学多識でいらっしゃるがゆえに、
一時期、漢詩本体より周辺の話題に熱中し過ぎ(汗)、
作者と関連のある同時代の詩人の逸話を次々と紹介されたり、
詩の背景にある土地の特色に触れるために地図を開いて
説明が延々と続いたりして、2時間で律詩ひとつしか読めない、
みたいな事態がしばしば起こっていたのだが、
最近はご自身でも講義の構成を変えられたようで、
2時間できっちりと2作品ずつ進むようになった。
たまに、お耳が遠い御様子もあるが、
全体として大変わかりやすい講義で、声量も適度で滑舌も良く、
板書される文字も美しく、しかも旧字体など自由自在で、
なんと心身ともに健康な方なのかと畏れ入るばかりだ。

ちなみに、講義前に雑談していたら、80代になられる会員さん二名が、
既にワクチン3回目を終えられたという話になった。
お一方は集団接種会場で、あとのお一方はかかりつけ内科で受けられたそうだ。
一方のかたが、今回初めて副反応の発熱が少しあった、と仰っていた。
寝て起きたら自然に下がっていた、とのことで、
特に困ったことはなかった、とも言われていたが、
「3回目はモデルナでしたか?」
とお尋ねしたら、
「いや、3回とも全部ファイザーですよ~」
ということで、本当に副反応は人それぞれだなと思ったことだった。

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二日続いた雨がようやくあがったので、頼山陽史跡資料館に行った。
これまでにも興味深い展示は幾度かあったのだが、
コロナ禍と自分の仕事の状況との絡みでなかなか行けず、ほぼ1年ぶりだった。

行ってみると、先客も誰も居らず、静まりかえっていて、
「良い展示なのですが、お天気も悪く、なかなかおいで戴けなくて」
と職員さんも残念に思っていらっしゃる様子だった。

ちなみに頼山陽史跡資料館では旧暦で七夕をしていらっしゃるとのことで、
短冊を書かせて下さった。
この御時世なので、願うことは皆ひとつな訳だが……(^_^;。
本当に、早く落ち着いて、以前の日常を取り戻したいものだ。


今回は「頼山陽遺墨選」で、山陽の書が年代順に展示されていた。
何年ぶりかで、頼山陽の『泊天草洋』の直筆と再会したが、
山陽の書というのは、美的に隙が無いのは勿論、
折々の心持ちを、年代に応じて生き生きと変化する描線で表現してあって、
書であると同時に画的な要素も持っていると改めて思った。
誰しも一生を通じて字形がそれなりに変化して行くものだとは思うが、
山陽は、中年期から意識的に右肩上がりの書体を取り入れており、
能書家としての彼の審美眼の変遷も、とても面白く感じられた。

ときに私は以前から、山陽の長男の頼聿庵(いつあん)の書が好きなのだが
きょう貰ったチラシで、9月には聿庵の大字書の展示があると知り、
俄然、期待が高まった。
同じく9月の『連続講座』第二回は「頼聿庵の書(仮)」となっており、
こういう講義も聴きたいものだと思ったが、
さて、神社の祭と重ならないかどうかが(汗)。
『頼山陽文化講座』のほうも「漢詩入門」「頼山陽と唐詩」「頼山陽詩を読む(1)(2)」
と秋まで大変面白そうな……、と思ったがこちらはとっくに満席なのね(^_^;。

また、今回久々に頼山陽史跡資料館に行ってみると、
以前は無かったような来館者向けの資料集が新しく出ていて、
『幽居中の陳情(山陽脱藩始末)』の口語訳や、
山陽の父・頼春水による『縮景園記』など、
私にとってかなり興味深いものがあったので、有り難く頂いて来た。
今後の私の目標は、比治山の多聞院を訪ねて頼一家の墓参りをすることと、
『縮景園記』を熟読したうえで実際に縮景園に行って、
春水の解説に従って歩いてみること、のふたつだ。
福山に行って菅茶山の旧居を見学するとか、
尾道の平田玉蘊ゆかりの場所を歩くとか、
江馬細香の足跡を辿って岐阜の大垣を旅するとか、
いろいろと夢はあるのだが、何しろコロナ禍なので遠出が難しい。
当面は地元から攻めようかと。

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朝9時から胡町の歯医者さんへ行って、その帰りに、
曇りがちで暑くないのを幸いに、頼山陽史跡資料館まで出かけた。
その前に、近くの白神社に寄って、お参りもした。

2010年の夏に、漢詩の会で頼山陽の詩を読んだのが出会いで、
なんだかんだとあれから十年。
機会あるごとに、山陽そのほかの頼家の人々の漢詩を味わい、
山陽の長男・頼聿庵の書を見に行ったり、
母・頼静子の日記を読んだり、
頼家発祥の地を訪ねて竹原まで出かけたり
頼山陽の恋人だったという理由で平田玉蘊の展示を見に行ったり、
江馬細香の本を買ったりと、
私の頼山陽・趣味は時間をかけて広がり深まり、今日に至る。
今や私は、「頼家の系図」を眺めるだけで、どの人がどういう生涯を送ったか、
どのような作品を残したか、山陽との関わりはどうだったか等々を思い出せる。
気付いてみれば、頼家の人々は「知らない人たち」ではなくなっていたのだ。

というわけで、きょうは久しぶりに頼山陽史跡資料館を訪ね、
広島頼家 ことはじめ」ということで山陽の父・春水を中心とする展示を
時間をかけて一点一点、じっくりと楽しませて貰った。
朝早い上に天気がもうひとつということで、私以外に誰も来ていなかったから、
3密の心配など皆無で、展示室独り占め状態で心ゆくまで資料を眺め、
時間を気にせず解説をじっくりと読み、妄想にふけった。

書では私は聿庵の激しさに抜群に惹かれているのだが、
聿庵の祖父(山陽の父)春水は、広島頼家を興した人としてやはり偉大であり、
彼の志の高さ、教養の深さ、人間的な大きさや統率力ゆえに、
頼家は学者の一家に相応しい繁栄を実現させたのだなと、
その残された記録の緻密さや、能書家ぶりに、改めて感じ入った。
書簡や日記から読み取れる、春水の弟・春風の尽力や、
春水・静子夫婦と頼家親戚との信頼関係なども印象的で、
当時の人々は「家」を守り立てるために、
家長を中心に一致団結していたのだなということも、強く感じた。
一方、母・静子の父 飯岡義斎が孫の山陽に宛てた書簡は、幼い孫息子に、
「元気に、いい子にして過ごすように」と温かく言って聞かせる内容で、
外祖父という立場からの、大らかで情の篤い人柄が偲ばれ、胸が熱くなった。

何年か前、学芸員さんの直々の解説と案内で展示を見たときに、確か、
「頼家の建物の復元ができたらと思っている」というお話があった筈なのだが、
時間がかかってもそれは是非、いつの日か、実現させて戴きたいと思った。
実物大が難しければ、何分の一かの模型になっても良いから、
春水が倹約に努めながら、精魂込めて充実させて行った屋敷や祠堂の再現を
立体で実際に見てみたいと、今回の展示を見ながらいろいろと夢想してしまった。
この杉ノ木小路に拝領した屋敷は、春水の夢の結晶であったと思う。
山陽が脱藩事件のあと暮らした仁室だけは、史跡資料館の庭に復元があるが、
私は、杉ノ木屋敷全体がどうなっていたかを、可能な限り、この目で見たい。
私はそうでなくても、インテリアが好きだし(汗)。

頼山陽史跡資料館に行くと、いつも、
ああ本当に頼家の人々はここにいたのだな、と実感することができ、
彼らの行動や表情、暮らしぶりなどが様々に想像され、
親戚でもなんでもないのに(汗)、とても身近な人たちのように思われる。
漢詩が始まりだったのだが、ここまで繋がろうとは。
ちなみに私が長年、思い描きながらまだ果たせていないのが、
福山の神辺町に残る菅茶山(山陽の師)の旧宅を訪ねることと、
江馬細香の足跡を辿って岐阜の大垣を旅することである。
コロナの騒動が落ち着く日が来たら、是非に、と思っている。

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