転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



自分の子供を「ちび」という親(発言小町)という文章に偶然出会って、
いろいろな感覚があるのだなと、ちょっと感心したというか驚いたというか。
この「トピ主」氏は、自分の子供を「ちび」と表現する親がいることが不思議で、
どういう心境なのかと疑問に思っているのだそうで、
『わたしから見ると、自分の子供を「所有物」としてみているような、
支配欲が出ている言葉のように感じるのですが……』と書いている。

私自身は、うちの娘を「ちび」と表現したことはないが、
……というか娘は赤ん坊の頃から、月齢の割に身長のある子だったので、
「ちび」という呼び名がどうも、そぐわなかった、とも言えるのだが、
この呼び方そのものには、私は全く悪い印象は持っていない。
周囲で、自分の家の子をそう呼ぶ人がいても、不快なものを感じたことはない。
回答でも複数の方が書かれているように、
「うちの、可愛い、ちっちゃな子」という気持ちが根底にあって、
それを「愚息」的に、人様の手前、へりくだって言っている言葉だと思う。

しかし、他人が親として自分の子を「ちび」と呼ぶことを、
端で聞いていて不快に思う人がいる、
というのは私にとっては新しい発見だった。
場合によっては、将来的に、配慮せねばならない場面があるかもしれない。
とりあえず、このことは記憶しておこう(笑)。

「ちび」よりも私が多少ひっかかるのは、ネットでよくある、
息子さんを「王子」、娘さんを「姫」と呼んでいる親御さんのほうだ。
確かに、どの子だって親にとっては掛け替えのない大切な存在だし、
またそうでなくては不幸なのだから、心情的にはよくよくわかるのだが、
しかしそれは、親の心の中だけの、秘すべき次元の話に近いのではないのか。

よそのお宅では、その家の子こそ「王子」「姫」なのであって、
その家では、うちの子たちは「王子」や「姫」には、なり得ない。
なのにその部分をないがしろにして、無頓着に、
我が子を「王子」「姫」と呼ぶ「我が家の世界」を読者一般に共有させる、
というのは、どうなのかな、という感じが、正直なところ私にはある。
今風に言えば「イタいよな~」と思うわけだ。
うちの子も「王子」、相手の子も「王子」、お互い「王子」なのだからいいのよ!
という理屈なのだろうとは想像できるが、
やはり、「王子が」「姫が」という文章を読んでいると、
これがある種のノリで済むか済まないか、の境界線には、
もう少し繊細な配慮があっても良いのでは、と感じてしまう。

もうひとつ、私は、よく見かける「子どもをつくる」「子づくりをする」
などの言い方が、昔からかなり嫌いだ。
これにはハッキリと嫌悪感がある。
芸能ゴシップで「女優○○が子づくり解禁!」などと書いてあるのは、
もともと、そういう下品な勢いで読者を引きつける手法だから仕方がないが、
ごく普通の人が「もう○歳だし、早く子どもをつくらなくちゃ!」
などと言うのを聞くと、私は、なんともいたたまれない気分になる。

新しい人間の命を、自分達の意志ひとつで簡単に「つくる」ことができる、
と考えるなんて、あまりにも畏れを知らない、思い上がった言い方ではないだろうか。
子供は、ひとつの奇跡のように、「授かる」ものだと私は思っている。
それを、ぬいぐるみやお菓子と大差なく「つくる」と表現するなんて、
ひどく感覚の荒い言葉使いだと思えて、私はこの言い方が以前から非常に嫌いだ。
「授かった」は、日常生活で使うには、いささか文語的な言い回しかもしれないが、
「子供が生まれた」「子供ができた」ならまだしも、「子どもをつくった」だなんて、
仮にも「人間」に対して、そんな言葉は使って欲しくないのだ。
これこそ、『自分の子供を「所有物」としてみている』言い方ではないか。
ちょいと粗雑に「つくった」ものが、「王子」や「姫」になるのだとしたら、
あまりに安っぽくて、滑稽でしかないと思う。

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性懲りもなく、TOEICを受けに行った。

前回10月31日に第158回公開テストを受けたとき
TOEICがどういう形式のテストだったかをかなり忘れていて、
戦略的に大きく失敗したという自覚が試験中からあり、
我ながら腹が立って、帰ってきてすぐさま次のテストを申し込んだのだった。

しかし。うぅむ。
結論から言うと、浅慮であった(爆)。

だいたい、ああいうときの悔しさから来る情熱なんて、
瞬間最大風速みたいなもので、忘れるのもあっという間なのだ。
燃えていたのは申し込んだその日だけだった、と言っても過言ではなかった。
あのあと、通訳案内士の二次試験が終わると、私は完全に脱力して、
英語なんかまともにやる気がせず、そのまま1月がだらだらと過ぎて行き、
きょうはもう、試験を受けること自体がイヤで面倒で憂鬱で、朝から困った。
一時の勢いで申し込んだりするから、こんなことになるのだ(--#)。

だが、ともあれ払っちゃった受験料は取り戻せないので、出かけた。
そして受験してみた感想としては、出来映えはともかく、今回は確かに、
TOEICが何をすれば良いテストなのかを覚えている間に受けに行ったので
手順としては、これまでの中ではかなり巧くいったような気がした。
次の問題がどういう形式か、わかった上で解いて行ったので精神的に楽だったし、
Part5と6を終わった時点で60分残っていれば、長文を読む時間として十分だ、
というような感覚も今回は持っていた御陰で、無意味に焦ることなくやれた。

あとはもっと公式問題集をちゃんとやって(←やって行かなかった・殴)、
TOEIC的な反射神経を鍛える必要があると思った。

*********************

それより、きょうはちょっとした事件があった。
3時になって、試験終了が告げられたとき、監督者が続けて、
「次の受験番号の方は、書類の確認がありますので、
試験終了後、この場に残っていて下さい」
という意味のことを言い、数人の番号を読み上げたのだが、
なんと、その中に、私の受験番号もあった。

何事かとビビって待っていたら、監督の女性が近づいてきて、
提出済みだった私の「受験票B」の写真の欄を示し、
「写真のまわりに、縁取りの線が残っているので、
認定証にもその線が写ってしまうと思われますが、構いませんか」
と訊ねた。

見ると確かに、私の証明写真の周囲には、写真をカットするときに
自分で引いたエンピツの線が残っていた。
TOEICの受験票Bの本人写真欄は、「線の外側に合わせて」等と、
写真サイズの条件が厳密なので、私は定規で測って印をつけて切ったのだ。
それがアダになったようだった。

転妻「はあ。すみません。認定証に写るのは別に構いませんが」
監督「でしたら、この下の欄に、『フチが写っても良い』とお書き下さい」

なんと、そのことを了承したという一筆を
受験票の下部にある協会宛の連絡欄に、自筆で書かねばならないのだった。
勿論日本語で、だ。
こんな手続きがあったなんて。
私はシコシコとその通りに書いた。

「ふ ち が う つ っ て も よ い  転妻よしこ」

成績とは一切関係ありませんので、と監督者の女性が慰めてくれた(汗)。
過去最低スコアの書かれた認定証、顔写真には♪黒い縁取りがありました♪、
なんてのは勘弁して欲しいもんだ。ったく。



<付:2月22日>結果: L490 R470 Total 960

やる気が出ず手応えもイマヒトツだった割には、案外良い結果だった(汗)。
2009年5月の、二十年ぶり復帰第一回目のスコアが870だったことを思えば、
この二年弱で、ようやく英語のテストをやるカンが取り戻せて来たようだ。
特にRに関して、速く読んでも落とさない読み方を少しは思い出せたようで嬉しい。
聴解力そのものは、そんなに伸びた実感はないのだが、
こちらはむしろ、TOEICのLの形式と作業内容とに慣れたことが大きかったと思う。

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広島に昔からある音楽事務所グリーン・コンサートのサイトを見ていたら、
この秋、ラン・ランが広島に来る予定であるらしいことが、わかった。

10/15(土) 開演時間未定
クリストフ・エッシェンバッハ指揮 ランラン(ピアノ)
ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団
(広島市文化交流会館/旧広島厚生年金会館)

エッシェンバッハは、今や完全に指揮者だと認識されているが、
私は未だに、ピアニスト時代の彼のことが忘れられない。
小さい頃、私はこの人のレコードを何枚も持っていて、
特に、モーツァルトのソナタが好きだった。
エッシェンバッハと、前に書いたヴァーシャーリ、フランス・クリダ、サンソン・フランソワ、
あるいはギーゼキング、といった面々が、私の幼い日の神様だった。

そうした中で、特にエッシェンバッハがほかの人たちと違っていたのは、
ツェルニー30番・40番など各種教則本の模範演奏を録音してくれていたことだった。
私が、ああいう練習曲系を積極的に弾きたがる変な(笑)子供になったのは
ひとつには、エッシェンバッハが見事な演奏を聴かせてくれたからだと思う。
ツェルニーの曲集は、子供のための執拗な「指の練習曲」ではなくて、
見事な弾き手に当たれば、小さなベートーヴェンに匹敵する音楽がそこに生まれる、
ということを、エッシェンバッハは私に最初に教えてくれた人だった
(当時はそのような語彙も理屈もなく、ただ「いいなあ」と思っていただけだったが)。

エッシェンバッハはピアニストとしての全盛時代から指揮を手がけていて、
私の記憶が正しければ70年代にはもう振っていたはずだ。
フー・ツォンは、『もっと早く指揮という方法を獲得していたら、
自分の表現できる音楽の世界が更に広がっていたであろうに』、
という意味のことを以前言っていたけれど、エッシェンバッハも、もしかしたら、
自分のピアノひとつでは表現しきれないものを求めてやむことがなく、
早くから、指揮を志すようになったのだろうか。

さて、更に嬉しいことに、そのエッシェンバッハと組んで今度広島にやって来るのが、
なんとあのラン・ランだ。
彼は広島に来るのは初めてだろうか?
当日の曲目がまだ発表になっていないから、何を弾くのかわからないが、
エッシェンバッハと組むのだし、もしかしてベートーヴェンをやってくれる?
と私は大いに期待している。
しかしラン・ランだと、聴き手としては彼の顔の見える席がいいかどうか、一考を要する。
ベトベンの4番あたりを、百面相演じつつ・鼻歌さえ歌いつつ弾かれたら、
まずその光景に耐えるのが大変で、音楽が吹っ飛んでしまいそうだから(笑)。

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Steinway je uzmicao pred furioznim Pogorelićem(Jutarnji list)

1月17日付けのクロアチア語の記事だ。
『スタインウェイは激怒uzmicaoポゴレリッチです』。
例によって、到底「訳した」などとは言えない機械翻訳の日本語なので
何が書いてあるのか、ほとんどわからない。

数日前、これとは違う別の記事に、
今月22日土曜日ポゴレリチがクロアチアの都市ヴァラジンにおいて、
300名ほどの小さいホールで特別に演奏会を行う、という話が出ていて、
その演奏会の予告は、こちらの記事の末尾でもなされているのがわかる。
しかしこの文章そのものは17日にUPされているし、
写真もオケのメンバーと一緒に写っているポゴレリチなので、
ここでの話の中心は、週末の演奏会の宣伝ではなく、
多分16日の、クロアチア国内のどこかでの、協奏曲のことなのだろうと思われる。

それは良いのだが、んなことより、この音楽会、どうやら尋常ではなかった。
『彼女の親指ポゴレリッチのブロークン釘も興奮されていないが、
彼は瞬間接着剤持って来ることを要求』
彼女、て、一体どこの彼女なのか、
そして彼女の親指に釘で一体何をしておったのか!
ブロークン釘?やだっ、どんなの!?(殴)
興奮していないが瞬間接着剤を持って来い、
って、物凄くアブナいじゃないか、をい!!
シンナー無いからセメダインでスーハ スーハ、って人たち、昔いたよね!?

どんびきで次を読んでみると、
『リリースコンサートされた日は何のタイトル:これらのテキストは、の!』
と、じーちゃんの広島弁みたいな本文だが、私の知りたい情報についてはスルー。

後半の見出しが、また凄くて『冷凍ナイアガラ』。
私は最初ウケてしまったのだが、しかしこの部分に関しては、
英語に直したものを読んだら、ナルホドと思うところも結構あった。
ポゴレリチの、あの、音楽が永遠に停止したかと思わせるほどの演奏を、
凍り付いた巨大な滝だと表現していたのだ。
『さらに、各項目ポゴレリッチは、音楽がダウンして
いくつかの永遠秒停止をあふれさせる遅く瞬間を黄金分割を見つけることができます。
あなたは凍結の滝を見ているように! すぐに強力な轟音の後に。』

その次が、お待ちかね?スプラッタだ。
『ポゴレリッチの右親指に壊れた爪下の血のドロップ来た。』

流血キター(゜∀゜)!!

『瞬間接着剤を - それはちょうど彼をもたらすように頼まも興奮でした。』

頼まも、ってどこをどうしたらそういう活用になるんだ。
この文だけでは、一体全体何をしたのか謎なのだが、前後の情報から想像すると、
いつかもあったように、どうもポゴレリチは演奏中に爪を傷めたようだ。
そこから出血したらしい。血染めの鍵盤、ってか。
ブロークンな状態になったのは、『彼女の』親指ではなくポゴレリチの右手親指だった。
それで彼が、慌てず騒がず要求したものが、………アロンアルファ??

そんな手当でいいのかねホントに((((;゜Д゜)))ガクブル。

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私は最近の宝塚に関しては、以前のたかこ(和央ようか)さんのように、
入り出やお稽古待ちをしてまで見るような、贔屓の男役さんはもう居ないのだが、
長年応援している専科のソル(磯野千尋)さんがご出演になるときには、
できる限り、宝塚大劇場や宝塚バウホールまで遠征することにしている。
ソルさんは、なーちゃん(大浦みずき)と同期の入団で、
なーちゃんトップの花組時代から現在に至るまで、ソルさんの舞台を、
私は本当にたくさん見せて貰い、今となっては、とても思い出深い生徒さんなのだ。

それで、きょう改めて宝塚公式サイトで、これからの公演予定を見てみたのだが、
ソルさんはなかなかにご活躍で、出演予定公演が続いており、
私にも結構、聖地巡礼(笑)の機会がこの先もありそうな感じだった。

まず宝塚バウホール宙組『記者と皇帝』(3月17日(木)~3月27日(日))、
同じくバウホール雪組『ニジンスキー』(4月28日(木)~5月8日(日))
の両方にソルさんは出られるそうなので、私も必然的に期間中のどこかで
宝塚まで出かけることになると思う。
バウホールというのは、大劇場の横にある500席程度の小ホールで、
若手や二番手までの男役にも主演のチャンスが与えられる劇場だ。
上記二作品も、前者は宙組三番手北翔海莉、後者は雪組二番手の早霧せいな、
がそれぞれ主演し、出演者も総勢30名ほどの規模の公演になっている。

そして、そろそろ季節も良くなることなので、バウまで出向いたついでに、
大劇場や梅田のドラマシティでやっているほかの公演も観ることができないものか、
と私はさらに欲を出して調べてみた。

梅田ドラマシティ宙組『ヴァレンチノ』(3月8日(火)~3月20日(日))
昔々、雪組のカリンチョ(杜けあき)が主演したのを私は覚えている。
あれをゆうひ(大空祐飛)くんで観られるなんて、実に面白そうだ。
宙組バウを初日かその直後に観れば、期間的にこのドラマシティと重なっている。
しかし、宝塚から梅田に移動するのにはそれなりの時間をみておかねばならない。
バウを平日午前中に観るとなると、梅田は平日午後は18時半しかないから、
全部終わってから新大阪に移動し、新幹線に乗るとすれば、深夜帰宅だ(汗)。
これは難しい。

一方、4月下旬からの雪組バウのときは、隣の大劇場の公演が私にとっては魅力的だ。
宝塚大劇場星組『ノバ・ボサ・ノバ』『めぐり会いは再び』(4月15日(金)~5月16日(月))
これは同じ建物の中で動くだけだから、移動時間のロスは考えなくて良い。
大劇場11時公演を観て、即座に移動してバウ14時半を観ることが可能だ。
演目はノバ・ボサ、しかも、れおん(柚希礼音)くんがソール、
更に二番手オーロがトリプルキャストだと!観ないでどうする!

そう考えていて、私はハっとなった。
そうだ、5月!大阪松竹座で團菊祭が、あるじゃないかっ!!
バウを17時に終わってからなら、松竹座の夜の部の、
最後の演目か、巧くいけば最後から二番目の演目に間に合うのではないか。
音羽屋の旦那さん、一体いつから拝見していないのだ私は!!
宝塚から道頓堀、行って行けないことは、ないだろうが!!

………あ、いや、駄目か。もちつけ。
そんなことをしたら、やはり深夜帰宅になってしまう。
私は、どこまで性懲りもないことを考えているのだろう。
それに、午前様になるより何より、こんなん、ほんまにやったら鼻血出る。
バウ、大劇場、松竹座、三本立てなんてシヌ(爆)。

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・昨日の聖地巡礼(宝塚遠征)で買ってきた「赤福」を渡すため、
午前中、数ヶ月ぶりに実家へ行った。これは両親の大好物なので。
家のあたりは朝から雪が積もっていて、
「こんな寒い日に本当に来るんかどうかと思いよった」
と母に言われた。
いや別に、市街地はそこまで降ってないから(^_^;)。

・午後3時頃に中区まで戻ってきて、いつもの耳鼻科に行った。
数日前から左の耳の中で何かぱきぱきと音がしていたので、診て貰ったが、
なんかわかりませんがフケみたいなもの
鼓膜の近くにありましたんで、取っときました」
と先生は耳掃除のあと、仰った。
以前、毛や、固まった耳垢など取って貰ったことがあったが、
きょうのは際だってショボい話だった。
でもスッキリしたから、まあ良かった。

・その帰りに紀伊国屋書店に行った。
白水社『ふらんす』2月号と、『婦人公論』2/7号を買った。
前者は今年は毎号買って読んでいるので、今月も欠かしたくなく、
後者は興味深い記事があったので、立ち読みにせず(殴)買うことにした。
その記事とは、『大浦みずきの思い出を語る 内藤啓子×朝海ひかる』と、
もうひとつ『夫・不破哲三との革命的熱愛人生 上田七加子』。

・それから袋町まで歩いて、頼山陽史跡資料館に行った
すっぽらぽんのぽん~頼山陽の母 梅颸(「し」は<風思>)の生涯』
の特設展が、今週いっぱいで終わってしまうので、どうしても観たかった。
梅颸の生涯については知っている逸話がたくさんあったが、
『梅颸日記』の実物を見ることが出来たのが、何より大きな収穫だった。
紙の大きさや質感、文字から垣間見える筆の運びなど、
梅丈セがこれらを手にして日常的に書き込んでいた実感が伝わってきた。

・そうこうしているうちに、暗くなって来たので、
資料館近くのスーパーで買い物をして帰宅することにした。
日が暮れて来ると、さすがに市街地でも小雪が舞い、寒いと思った。

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宝塚大劇場雪組公演『ロミオとジュリエット』本日11時公演を観てきた。

いきなりで恐縮だが、私は昔から『ロミオとジュリエット』が喜劇のように思える。
だいたい、16歳の娘が、夕べ初めて会ったどっかの男と数時間で結婚を決意し、
翌日教会に行って勝手に式を挙げて来たら、そりゃどこの親でも逆上するだろう(笑)。
壮大な恋愛のように描かれているが、あの、結婚するの死ぬの生きるのという騒動は、
全部でわずか二日半くらいの出来事だ。
死ぬところまで入れても五日間?
そして、その若い二人の命がけの恋に打たれたからとはいえ、
仮死状態になる毒薬をジュリエットに与えておいて、見守ることさえ怠った神父は、
どう考えても計画力・思考力・判断力すべてが欠如している(爆)。
うろうろせんと、ちゃんと最初から霊廟に貼り付いて見張っとらんかオノレは!!
事件発覚時、家族は細かい事情を知らないから、怒るどころか改心などしていたが、
本当は、ふたりが死んだのは、神の怒りに触れたとかなんとかではなくて、
単に、神父の間抜けな計画のせいだったのではないだろうか。

……いや、そんな興ざめなことを言っては、いけないのだ。
この物語のすべては、ファンタジーだ。大事なのはリアリティではない。
一瞬で何もかも燃やし尽くすほどの、激しい一途な恋、
そこにある若い二人の純粋さのみを、真実だと考えれば良いのだ。
恋の美しさが弛緩せず力を発揮し続けるためには、結末は悲劇しかないのだ。
理屈を言いツッコミを入れて悦に入っているほうが、よほど無粋なのだ。

**************************

この雪組公演は新トップのキム(音月桂)の大劇場お披露目という位置づけだが、
雪組では現在、トップ娘役が固定されておらず、
今回の公演期間中もジュリエットは、みみ(舞羽美海)ちゃんと、
研1の夢華あみちゃんのダブルキャストとなっていた。
私の見たきょうの公演は、みみちゃんジュリエットのほうだった。

さすがにイケコ(小池修一郎)先生の演出なので、舞台は見応えがあった。
題材も設定も古典的でありながら、現代風の芝居運びと音楽とで、
観客を最後まで引きつける内容だったと思う。
ただ、残念なのは、台詞のある役が大変限られたものだったということで、
大劇場で、この人数で、上演する必要のあるお芝居なのか?
という疑問を、ついつい感じてしまった。
この内容なら、まあバウホールではさすがに小さいだろうとは思うが、
大劇場の半分くらいの大きさの場所でやってちょうどではないだろうか。

キムは綺麗で洗練されていて、歌も巧いしお芝居も自由自在だし、
見る前から「きっと見事にできるのだろう」と思っていた通りの舞台姿だった。
歌もあれだけ歌えれば文句はないし、宝塚が初めての団体客に見て貰うにも、
キム主演なら全くなんの心配もないと感じた。
しかし、欲を言えば、そのあまりに見事にまとまっているところが、
かえってキムの弱点でもあるかな、という気もした。
「変なところ」が全然ないというのは、つまらなさとも紙一重で、
宝塚という「かなり変」なジャンルで真ん中に立っている人として、
キムの上手さ、綺麗さ、は果たしてあれで良いのだろうか、
と、どこかで物足りなく思ったのも本当だ。

みみちゃんもジュリエットに関する限りは良かったと思う。
声も綺麗だったし、16歳というジュリエットの若さも無理なく出ていた。
キムが際だって生々しさのない男役なので、ジュリエットとして添うのは
なかなか難しいことだったのではないかと想像するのだが、
みみちゃんは可憐で、ファンタジーとしての娘役をうまく演じていたと思った。

今回、ロミオとジュリエットのデュエットダンスが、
お芝居のラストのほうにしかなく、ショーで見られなかったのが、
もし役替わりという制約のためだとしたら、残念なことだと思った。
やはり宝塚を観る者として私は、ショーのクライマックスで
トップコンビのデュエットダンスが観たいし、
ふたり揃って銀橋で拍手を受ける演出のほうが、納得感があったと思う。
今回は特に、ロミオとジュリエットの魂が、ひたむきにお互いを見つめ合う、
というようなお芝居であるだけに、尚更、主役コンビのデュエットダンスは
いつにもまして、重要な意味合いがあった筈だと思う。

ちぎ(早霧せいな)ちゃんのマーキューシオは、ロミオとの対比が鮮やかで、
キャラが立っていたのは魅力的だった。
しかし御免なさい、私は私なりに原作からのマーキューシオのイメージがあり、
それは今回ちぎちゃんが演じたものとは、かなり違っていたので、
新鮮な驚きもあったし、正直なところ失望もあった。
私が思っているのより、ちぎちゃんのは若くて軽いマーキューシオだったため、
ティボルトの刃に倒れた場面で、ロミオの大事な友人が死んだ、とは感じたが、
物語の支え手である重要な人物がここでひとり失われた、
という手応えまでは、少なくとも私には伝わって来なかった。
ちぎちゃんは最初から、そのようには演じていなかったのかもしれない。
私が勝手に自分の前提で観たのは申し訳なかったと思っている。

まっつ(未涼亜希)のベンヴォーリオには、畏れ入りました。
私はきょうは主役以外誰が何をやるか全く知らずに行ったのだが、
最初の第一声から、まっつには「誰!?」と圧倒された。
二階席から観ていても胸のすくような舞台姿と、冴え渡る口跡が素晴らしかった。
ショーのダンスでも、まっつには宝塚らしい男役の型があり、実に見事だった。
ある意味、今の雪組の布陣は大変面白いことになっていると思った。
優等生的で白い王子様であるキム、明るいやんちゃな持ち味のちぎ、
そして男役度が高く柔軟な力量で彼らを支えるまっつとが、
とても良いトライアングルをつくっていると感じられたからだ。

**************************

フィナーレナンバーの最後のほうで、キムを真ん中にして、
ドレス姿のふたりが絡む場面があって、私は初め漠然と、
そのふたりはダブルキャストのジュリエット二人なのかと思っていたのだが、
あとでプログラムを見たら、沙央くらま×大湖せしる、なんと男役二人だった。
ジュリエットの乳母(沙央)と踊って楽しいか、ロミオ(爆)。

しかし大湖せしるは、さすがに男役なので体つきは大きかったが、
芝居の中で演じていた『愛』を象徴するダンサーの役は素晴らしかった。
もうひとり『死』を踊った彩風咲奈とともに、このダンスの配置は、
宝塚らしいエッセンスを物語全体に加味していたと思うし、
どちらも適役だったと思った。
彩風咲奈は大湖せしるとのバランスのためもあったかもしれないが、
パレードからあと銀橋でも非常に良い立ち位置にいて、
まだ研4くらいだと思うのだが、男役であの若さで、
少しも位負けしていなかったのが立派だった。

トップが交替し、上級生が卒業して行くのは寂しいものがあるが、
こうして急に大きな役に挑戦することになった生徒さんの姿や、
思いがけない若手の活躍を見ることが出来るのは、やはり良いものだな、
ときょうはしみじみ思ったりもした。
雪組は新たに、良い組カラーが出来つつあるのではないか、という気がした。
またこれから別の演目でも観てみたいと思っている。

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今年は明日が、広島の中学入試「解禁日」だ。
前も書いたが、広島市には「統一日」という設定は無く、
「解禁日」から一週間ほどの間に、ほぼ全部の私立中で、
互いにあまり重ならずに入試が行われるようになっている。
一度しか入試をしない学校がかなり多いが、
専願と一般に分けて二度したり、別途に二次募集をする学校もある。

娘の学校の中学部であるA中の入試は明後日だ。
それの準備のため、明日は午前中で授業が終わり、
中3と高2が午後まで残って校内清掃と会場準備をする。
中1と中2と高1は午前中で下校(高3は既に自由登校)だが、
高1のうち何人かには、入試当日の案内係の仕事がある。
尤も、怠惰な人間である娘は、勿論そういう係は志願していない。

私「つくづく働かんヤツやな、あーたは」
娘「だってアレなかなか大変なんよ。そんなに誰でもは務まらんよ。
 まず服装が、ちゃんとしとらんといけんじゃろ、それから」
私「キミの制服は、一応、校則違反じゃないだろう」
娘「まあ、あたしゃ違反するような意欲はないからね。それより何より、
 愛想がよくてテキパキしとらんと、案内係は出来んよ」

ああ、確かに。ごもっともで。
案内係は本校生徒の、良いイメージの代表だ。
つまり「入学したらこのようになります」というお手本だ。
「ああなりたい」と外部の方々から思って貰えることが一番の仕事だろう。
ただでさえ不安で心細い受験生親子を、
更に混乱に陥れるような人間に、案内係をして貰っては困る。

しかしねー。
あたしゃ愛想悪いしテキパキしとらんから、で世の中が通れば苦労はない。
それを許容してくれる仕事は、社会に出たら皆無に近いのではないか(--#)。
何より私の気に入らないのは、そんなこんなで、
娘が明日は半ドン、明後日と明明後日は二連休である、ということだ。
なんもしとらん者が、なんでそんな安楽に休んでて良いわけ?

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・街中で歩いていた主人は、向こうから歩いて来る男性を見て仰天した。
ものすごい豪華なモミアゲを生やしていたからだ。
「あんな、『もみじん』みたいな人間って、ほんまに存在したんか!」
(注:広島の『もみじ銀行』イメージキャラクター『もみじん』
やがて先方が近づいてきたとき、その顔がよく見えて、主人はいたく失望した。
目覚ましいモミアゲだと思ったものは、ただの耳当てだったからだ。

・同じく主人、帰宅してテレビを観ていたら、どこかの農園が映り、
そこのご夫婦が『イナゴ』の世話をなさっているという字幕が出た。
「イナゴ!なんちゅう、イナゲな(=変な)もんに熱中しとるんか!」
「食べるんか?佃煮か?イカナゴのクギ煮ならまだしも!!」
とさんざんツッコミを入れていたら、画面に大きなが映った。
「……あ……、そうか、イチゴ、やったんか……」
と主人は力なく言った。

・昼前に出かけた娘は、市内でヒドい目にあった。
乗った路面電車が乗車率200パーセントというくらいの混みようで、
あとで言っていたが『死ぬおもた』という有様だったそうだ。
この混雑は、『第16回全国都道府県対抗男子駅伝』のためだった。
市街地の広島平和記念公園が発着地点だったのだ。
我が家は、誰も駅伝に関係する人がいないので、あまりにも無頓着に過ごしており、
全く気づいていなかったのだが、きょうは、これのための交通規制もしかれていた。
かなり以前から決まっていたことだったのに、ウカツだった。
聞くところによると、駅伝では我が広島は大健闘だったそうだ。素晴らしい。
応援もせず、失礼を致しました<(_ _)>。

・平成23年お年玉付年賀はがきの当選番号が発表された。
私は20年くらい前に一度だけ「ふるさと小包」が当たったことがあったが、
あれ以来、我が家では切手シートが当たるかどうか、というレベルだ。
結果、主人は5枚、娘は2枚、当選していた。私はゼロだった(爆)。
「いいんだよ、こんなとこで運を使わなくても」
と娘が慰めてくれた(涙)。

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きょうは最近にしては暖かい日だと感じるのだが、
そのせいか逆に私は、どうもあまり元気が出ない。
なんだかお腹がごろごろ言っているし(私の不調は常にコレだ)、
気怠いし眠いしで、今すぐにでも居眠りできそうな気分だ。

さて、1月も下旬となり、ラジオ語学講座の2月号テキストが揃った。
後期6か月も既に半分以上終わってしまい、2月と3月を残すのみとなった。
やはり『ラジオ英会話』からは脱落した(恥)。
フランス語はお陰様で楽しくやれている。
初級編は文法事項が進んできて良い復習になっているし、
応用編は今の私にはかなり負荷がかかって、それもまたほどよく感じている。

中国語は、まだまだ音程を取るのが難しい、という感じだ。
自分は極端に音痴なんじゃないかと改めて心配になるくらい、
声調を正確に把握することが、毎回とても難しい。
そして、そうやって四声に気を取られ、
さらに有気音・無気音などの区別にも迷うことが多いものだから、
今のところ、完全にピンイン(ローマ字表記的なもの)に頼り切りだ。

もし簡体字だけで書かれていたら、今の私は相変わらず、
どんな中国語もほとんど読めないだろう。
漢字には全部ルビをふって貰わないと日本語が読めない、
という感じに近いのではないかと思う。
せめて、これまでに習った中国語だけでも、
ピンインなしで迷わず読めるようになりたいものだ。
それにはもっと復習をせねばならないのだ。わかっているのだ(苦笑)。

しかし、中国語を始めて、まがりなりにも四声の概念を知ったことで、
漢詩の平仄の決まりごとを、面白く感じ取れるようになった。
先日も、先生が、「平声」「上声」「去声」「入声」の、
それぞれの上がり下がりについて説明をして下さったとき、
「なるほど中古漢語の四声はそうなっていたのか」
と現代中国語との違いを考えながら聞けたのは、自分としては収穫だった。

漢詩の会では、今年は李白が主体なのだが、合間に白楽天の『長恨歌』を
ときどき、先生の気分次第で(笑)読むことになっている。
それで先日、『額田女王』を読んでちょうど井上靖に馴染んだところだったので、
『長恨歌』に関連して、数日前から井上靖『楊貴妃伝』を読み始めた。
『長恨歌』そのほか漢籍からの引用が随所にあり、
文体も漢語を強く意識したものになっていて、漢詩趣味の方向から読むと
大変に面白い小説だということがわかった。

楊貴妃の逸話を私は詳しく知っているわけではなかったし、
『安禄山の変』についても、李白や杜甫の生涯の中で触れられる出来事として
本当に漠然としか理解していなかったので、
この『楊貴妃伝』という小説は、今出会うことができて本当に良かったと思った。

ただ、この本はやや不親切で、人名や地名など、
最初に出てきたときにはルビが振ってあるのだが、
二度目以降には読み方が書かれていない。
何しろ、誰も彼もが中国人で、多くは当用漢字じゃない名前を持っているものだから、
お久しぶりな登場人物だと私は名前が読めず、えっと、ヨウなんとかさん?状態。
我流で読んで別人にしてしまうわけにはいかないし、仕方がないから、
その人の初登場場面に戻って確認しようとするのだが、
問題の初登場シーンがまた、どのへんだったか容易に思い出せなかったりする。
それで懲りて、今では、意味ありげな登場人物が出て来ると、
読み仮名のある最初の段階で覚えるよう、繰り返し名前を言って暗記に努めている。
老化防止のトレーニングをさせられている気分だ(汗)。

ちなみに、楊貴妃の「貴妃」というのは、皇帝の寵を受ける女性の地位のうちで、
「皇后」に次ぐ二番目の立場のものを言うのだそうだ。
そういえば、たかこ(和央ようか)さんの演じた茶々は、『天涯の貴妃』だった。
茶々は秀吉の正室ではなく、少なくとも二番目である側室の立場だったから。

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