転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



夏前から始めたハイドンのソナタ48番、譜読みだけは3楽章までやったのだが、
こういう軽やかな曲になると、うちの小さいアプライトの反応の悪さが
私の技術のなさに追い打ちをかけてくれるので、困る(--#)。
こんな腕前ではグランドピアノを弾く資格なんてないだろう、と思う一方、
弘法筆を選ばずの逆で、私はヘタだからこそ楽器が良くないと話にならない、
と痛感することも多い。

特に、私のテクニックでは1楽章の六連符の装飾音がタイトに入らないので、
意地になって集中的に練習していたら、とうとう先日、右腕に神経痛が起きた。
若い頃はこんなことはなかったのだが、まったく年は取りたくないものだ。
しかしこうやって、弾き方の悪いところを体が教えてくれるのだと思って感謝しよう。
どこかが痛くなるというのは(前述の楽器の鈍さの話はさておいて)
何はともあれ、脱力が出来ていなくて無理な力が入っている証拠だから、
この機会に反省し、痛くならない弾き方を見つけるべきなのだ。

Katsaris plays Haydn Sonata No. 48 in C major, Hob. 16/35(YouTube)

シプリアン・カツァリスの1970年チャイコフスキー・コンクールでの演奏だが、
自分でも同曲を弾くようになってみると、細かいところまでよくわかり、
やはりさすがに卓越したセンスを持つ弾き手にかかると、
こういう小さなソナタでも、ニュアンスの光る、粋な一曲になるのだなと思う。

私の持っている楽譜では2楽章は前半後半でそれぞれ繰り返しの指定があり、
つまり一回目と二回目では変化をつけて、全体を大きな変奏曲のように弾け、
という意味合いだと思うのだが、カツァリスはそれぞれ一度しか弾いていない。
コンクールという制約のためだったのか、これが彼の考え方なのかは不明だが、
少なくとも私の力量では冗長になるだけだし、
こういう緩やかな楽章は総じて、繰り返しの無いほうが心地よく聴けるように思う。

3楽章はこれまで、なんとなく愛らしい曲、という印象しか持っていなかったのだが、
楽譜を見てみると、凄くヘンな曲だというのが、初めてわかった(爆)。
冒頭が終わっただけでいきなり転調するし、三連符が右手左手と移り変わり、
不意に最初の音型に戻り、変奏を展開する気配を見せるのに、またすぐまとまり、
……ことごとく、読み手としてのこちらの心づもりを裏切るような構成になっていて、
何がしたいのか、私のような凡人には、どうもよくわからない(汗)。

しかし多分、その予想外の面白さが、ハイドンらしいところでもあるのだ。
フー・ツォンの2009年来日時のプログラムを読んでみると、
『ハイドンは凄い作曲家だ。
老年になっても、いたずらっ子のように明るく無邪気な童心を持ち続け、
知性とユーモアにあふれた音楽を書いている。
機知に富んだ和声の響き、緩徐楽章の美しさは、聴く人の心をとらえて離さない』
という彼の言葉が掲載されている。
そしてカツァリスの演奏を聴いてみると、なるほど、こういう正体不明の楽章を、
まとまった「愛らしい曲」として聴かせるのが本物なのだなぁ、とつくづく思う。

折しも、近々、カツァリスの松江公演がある。
2011年10月16日(日) 15:00開演
第26回記念松江プラバ音楽祭シプリアン・カツァリス ピアノ・リサイタル

私が今、家庭も家族も何も顧みなくて良い境遇なら、
懐かしい松江に、泊まりがけで出かけることにしていただろうと思う。
プラバホールは思い出多い会場だが、今年が開館25周年ということは、
私が松江に住んでいた頃はまだ、ここが出来て10年に満たない時期だったのだ。
一番忘れられないのは95年夏のクリスチャン・ツィメルマンのリサイタルだ。
出産や育児のために、生のピアノを聴くこと自体が久しぶりだったところに、
ツィメルマンをまともに食らってしまい(笑)、効き過ぎて昇天しそうだった。
あの規模の空間で聴くカツァリスは、素晴らしいだろうなと思う。
ああ、聴きたい。

しかし、広島からだと、松江は中途半端に近くて遠いのが問題なのだ。
島根は隣の県なのだが、山陰側に直接行く鉄道は広島側からは無く、
最も普通の交通手段は、片道3時間半かかる高速バスだ。
広島を出て三次までは中国自動車道を通るので快適なのだが、
後半が延々と中国山地沿いの山道をくねくねと行かねばならず、大変だ。
十数年前は、途中の赤名峠で半時間ほど休憩を取る日程になっていたものだが、
今でもそうなのだろうか。
途中の、牛乳で有名な木次とか、漬け物が美味しい頓原とか、……懐かしいな。

しかし、いくら昼の公演といえど、あのバスを一日二回乗って日帰りする、
という元気は私には無い。18年前でも、既に無かった。
ほかに岡山経由で伯備線2時間半、というコースもあるが、
あの列車も酔うほど揺れるので、やはり一日で二度は乗りたくない(汗)。
もうひとつの手段は、浜田までバスで2時間、残りの浜田-松江をJR山陰線で、
という方法か……。うぅむ。
カツァリスを堪能し、松江市内で泊まって、「みな美の鯛めし」を食べて翌日帰る、
というのが理想なのだが、……そんなこと誰が許してくれますか。

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・来月早々に、娘たちは高校の修学旅行があって、沖縄に行く予定だ。
娘の学校は中高ともに平和学習に力を入れているので、
中学の修学旅行は長崎で、同じ被爆地同士として原爆について勉強をし、
高校になると更に話を広げて、沖縄戦に関して学ぶことになっている。
さてその沖縄旅行に際して、往路だけは先に荷物を発送しておく段取りになっていて、
今朝、娘達は、三泊四日分の荷物をトランクやスーツケースに詰めて、登校した。
学校指定の場所にそれらを集め、一括して先に現地に送っておくのだそうだ
(復路は各自、自分ですべての荷物を持って帰って来る)。
更に盛り上がることに、旅行期間中は全日程、私服ということになっているので、
きっと、女子高生たちは工夫に工夫を重ねた品々を荷物にまとめたことだろう。
娘も荷物に靴の履き替えまで入れていた。
まあ、予報では天気がもうひとつのようだから、それも賢明かもしれないが。

・沖縄修学旅行、というので思い出したのだが、私の知っている某外国人男性は、
日本に来て沖縄に旅行で出かけたとき、やはり飛行機で修学旅行生と乗り合わせたそうだ。
それは女子ばかりの学校で、制服で来ていたので修学旅行団体だとわかったそうなのだが、
飛行機が離陸すると、「ひえーーー」「うわーーー」と彼女らは盛り上がり、
飛行中は、ずーーーーーっっとお喋りが花盛りで、
いざ着陸するという段になると、飛行機が高度を落とすたびに
「きゃーーー!!」「キャーー-!!」とまた悲鳴があがっていたそうだ。その外国人男性は、
「万が一、この飛行機が着陸に失敗したら、俺が人生最後に聞いた言葉は『キャー』」
と、内心考えていたということだ。

・体調を崩したのでまだ行けていないのだが、広島そごう『宮城県の物産と観光展』
これは私が非常に楽しみにしていたイベントだ。
主人は昨日、早速、牛タンを食べるために、仕事の合間の昼食時間に出かけた。
そうなのだ、この男は、牛も豚も食べませんと日頃から言っているくせに、
宮城の牛タンなら別格で、忙しい時間をやりくりしてでも食べに行くのだ。
更に主人の愛する『萩の月』、娘の愛する『笹かまぼこ』も来ている。
普段なら手に入らないような美味いものをあれこれ食べて、買って、
いくらかでもそれが現地の応援になるとしたら、なんと素晴らしいのだろう(T_T)。
そごう本館9階催事場にて、10月5日(水)まで。

・昨日からポゴレリチ関連でロシア語を見かける機会が多く、
まがりなりにもキリル文字が読めるようになっていて良かったなあ、と久しぶりに思った
(そういえば先日、西川貴教グッズでもロシア語のロゴがあり、
読んでみせたので娘に尊敬された。ふふんっっ)。
かつてあれほど熱中したロシア語だが、もはや今となっては、
私は辞書なしでスラスラと解読できる文章などほとんどない。
しかし、物の名前や曲の題名なら十分に読める程度の記憶は、まだ残っている。
第二外国語など、卒業すれば忘却の彼方だが、それでもゼロに戻るわけではないのだ。
こういう経験をすると、ヘブライ文字でもハングルでも簡体字中国語でも何でも、
知らないより知っているほうが、日々の些細な部分がとても楽しくなるだろうなと思う。
「コミュニケーションができるか」「実戦的な語学力であるか」という次元では、
文字だけ知っていても「別に特に役には立たない」と言うしかないけれど、
そういうことのためだけに、私は語学をやっているのではないんだよなぁ。
飽くまで道楽、ということで。

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今度はドイツの衛星が落下へ…10月下旬から
『【ワシントン=山田哲朗】運用を終えたドイツのエックス線観測衛星「ROSAT」が、10月下旬から11月にかけて地球に落下することが分かった。米メディアが28日報じた。』『燃え尽きずに地表へ到達する破片は30個と予想され、地球上の人間の誰かに当たる確率は2000分の1という。一人一人にとっては、当たる確率は14兆分の1と非常に低くなる。24日に南太平洋に落ちた米国の大気観測衛星(UARS)は、人間に当たる確率が3200分の1だった。』『宇宙ゴミの落下は珍しいことではない。しかし、UARSは、制御不能のまま落ちた米航空宇宙局(NASA)の衛星としては1979年のスカイラブ(68トン)以後で最大で、注目を集めた。ROSATも制御不能のため、UARSと同様に落下地点の予測は難しい。』(2011年9月29日14時01分 読売新聞)

「危ない!」「危険が迫っている!」という話のうち、私が価値を認めるのは、
それを知ることにより、前もって避難できる等の現実的な対策が立てられるものだけだ。
いつ・どこに・人工衛星のカケラが落ちるから、半径何キロ以遠まで離れておくように、
というような話なら、積極的に報道する値打ちがあると私だって思う。

しかし、こんな、制御不能のとてつもないものが、
いつともどこともハッキリ特定できないまま、しかし確かに頭上から降って来るらしい、
という話なんて、聞かせて貰っても、ただ気分が終末モードになっただけだ。
私たちにできるのは、
『いつ落ちるの?』
『もう落ちたの?』
『本当に私たちは大丈夫なの?』
と、決着がつくまでビクビクして過ごすことだけではないのか。
あとはせいぜい、実況サイトに、サーバーが落ちるまで皆でアクセスするくらいのことか。
この話を知る前と後を較べて、何か良くなった点があるか?

ったく、聞きたくなかったワ、こんな話(爆)。

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猿之助・段四郎がこんなに和やかな場で並んでいるところも、
私などは、もう久しく見ていなかったような気がする。
この会見の写真はどれも、幸せな、暖かい雰囲気のものばかりで良いなあと思った。

市川亀治郎さん、4代目猿之助襲名へ=いとこの香川照之さんは歌舞伎初挑戦(時事ドットコム)
香川照之 絶縁状態の父と和解(スポニチ)
香川照之 父・猿之助と45年ぶり和解(デイリースポーツ)

歌舞伎を観る者としての私には、まずお目出度いのは亀治郎の猿之助襲名で、
今後どのような舞台を見せてくれるかと考えるだけで嬉しくなって来るが、
一方、ニュースとしてはやはり、香川照之の歌舞伎界入りのほうが大きな話題だろう。
俳優として既に実績十分なこの人が、歌舞伎役者としてどうなるか、
私も、言うまでも無くとても楽しみにしてはいるのだが、
歌舞伎の舞台に関しては、この人には前提となるものを全く見せて貰っていないから、
観客として、文字通り「期待と不安」を感じているというのが正直なところだ。
しかしともあれ、猿之助のひとり息子が、自身の長男も連れて、
歌舞伎の世界に入って来てくれたことは、本当に喜ばしい。

個人的に私は、自分の人生の節目みたいなところで猿之助の芝居を見たことが多く、
今振り返っても、それらは不思議な巡り合わせだったと思う。
若い頃に仕事のことで一番迷っていた頃に『義経千本桜』を観たし、
母方の祖父が亡くなった晩に観ていたのが『黒塚』『一條大蔵譚』で、
そして独身時代最後に観たのが『俊寛』だった。
猿之助の体がきかなくなったことは大変残念で、痛々しく思うが、
折しも先日、松竹座で右近の見事な芝居を見せて貰ったところだし、
こうして弟と甥と息子と孫に囲まれた猿之助を見ていると、
猿之助のところから派生したものや、彼の下から巣立ったものが、
それぞれ芽吹いて、大きく実ったということだろうなと思ったりしている。

それにしても、スーパー歌舞伎は今後どうなるのだろう。
あれは猿之助のセンスがあってこそ、という気がしないでもないのだが、
亀治郎は、スーパー歌舞伎をも猿之助から受け継ぐのだろうか。
それとも今後は、外部の舞台を熟知している香川照之の、腕の見せ所になるのか、
はたまた右近や段治郎、門之助、笑也らの活躍の場として続いていくのか……。
私自身はスーパー歌舞伎に対しては、冷淡な観客だったと自分では思っているのだが、
だからと言って、なんとなく先細りのように終わってしまうのも勿体ないし、
優秀な研修生が世に出る場でもあり、やはり途絶えて欲しくないという気持ちは、ある。

それにつけても、アレだ、私が猿之助の仕事としてどうにも忘れられないのが、
平成元年俳優祭の『歌舞伎ワラエティ・べるさいゆ ばらのよばなし』だ。
YouTubeなど探してみたが、古すぎて動画が残っていないようで残念だ。
ニコ動にはあるかもしれない。
主役コンビの福助(当時は児太郎)・右近がノリノリで、
エンデブ侯爵夫人として出ていた猿之助も楽しそうだったし、
「エンデブのオバちゃんが出ろ出ろと言うから」
とやってきたオトワーヤ王子(菊五郎)が御所五郎蔵の台詞でキメてくれたのも忘れ難い。
ルイ十六世役の團十郎が、「(妻は)オーストラリアから嫁いできて」
と故意かウッカリか知らないが凄い台詞を言っていたのも、とても印象に残っている。
南半球から来た王妃だったんだ、マリー・雀右衛門のオジサマは。

*************

ということで、本日の私は、再び療養という名のグータラをしたいと思っている。
扁桃炎は、悪化はしていないと感じているのだが、
もともと、一日で全快するようなものではないから、
まだあと数日は、休養中心に過ごしたいものだ。

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亀治郎が四代目・猿之助を襲名、……は完全に納得で、おめでたい限りだが、
香川照之が新たに歌舞伎に入り、九代目・中車を襲名、というのには驚いた。
香川照之としては、演劇の世界でこれまで様々なことを実現させてきて、
あと、やっていないのは近くて遠かった歌舞伎だけ、ということなのだろうか。
猿之助との仲も決して良いという印象は無かったのだが、どう決着したのか。

……と思っていたら、どうやら、澤瀉屋がこれを機にひとつになった、
という話らしかった。
猿之助を中心として、関係者が公私ともに「和解」した、ということのようだ。
香川、父と同じ歌舞伎の道へ 戦後初の2つの名前(テレ朝News)
『「こんな素人が入っていいものかと思ったが、この船に乗らないわけにはいかないと、僕の人生として決めてきた」と(香川は)固い決心を語った。』『父、猿之助は03年に脳梗塞で倒れたが、「現在、45年無縁だった父と同居しております」と告白。「病気を横で見てきて、誰がサポートしていくかを考え、中車の名前を継いでもいいでしょうかと相談した」と明かした。』『(中車は)8代まで屋号は立花屋だったが、9代目からは特別に猿之助の屋号と同じ澤瀉(おもだか)屋を名乗る。また、母の浜(木綿子)は歌舞伎界入りを理解してくれたと言い、特例で“香川照之”の名を残す事も許可されたという。これからは俳優業では香川、歌舞伎界では中車と、2つの名前を使い分ける。』『この日は父の猿之助も登場。』『長年一人で香川を育てた前妻へ向け「浜さん、ありがとう。恩讐の彼方に、ありがとう」と述べると、香川は「母も喜んでいると思います」と涙ながらに語った。』

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熱も下がったし、お腹もすっきりしたし、
……と思っていたのだが、まだ完全には終わっていなかった。
今朝、熱感というほどではないが、なんとなく気怠いので、
思いついて、照明の下に立って鏡で咽喉を覗いてみたら、
海水飲んだ、……じゃない、扁桃炎になっていた。
さほど痛みが無かったので気づいていなかったのだが、
左側の口蓋扁桃が結構腫れていて、右側は小さく化膿していた。
いつからこうなっていたのかわからないが、
そういえば、咽喉モトが腫れぼったくうっとうしい感じは、あった(汗)。
それで、耳鼻咽喉科で貰ってある抗生剤を、とりあえず飲んだ。

扁桃炎と大腸炎って、本当に私の定番だな(汗)。

きょうの午後は、どうしても用事があって出かけなくてはならないので、
帰りに、夕食のために何か適当なお総菜を買って来よう。
それと、療養しながら読む本を、何冊か。
幸い今週は漢詩の会も無いし、週の後半は多分、休むことができるだろう。
土曜のゲルバー@大阪までに、なおりますように(殴)。

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下腹左側にまだときどき、軽い痛みを感じることがあるが、
熱が出る前には、ずいぶんと下腹全体がうっとうしかったのだということが、
今、それが改善されたことにより、実感できるようになった。
いつもここで文句を言っている通り、私の体調不良は、
鼻炎・扁桃炎・大腸炎、のどれか、または組み合わせとして出てくることが多いが、
特に、疲れが蓄積してくると鈍い腹部不快が常時あるようになり、
熱を出したり盛大にお腹を壊したりして寝込んだあと、それが一掃される、
ということをこれまで幾度か経験している。
これに関しては、筋腫手術の遙か以前から既に体感していたことなので、
私の体質の問題であって、癒着云々とは直接関係がないのではないかと思う。

***********

さて、体調の話はともかくとして、きょうからラジオ語学講座の後期が始まった。
『まいにちフランス語』初級編は、「ナミの恋する東京日記」の再放送。
このシリーズの一作目は2008年前期の「ナミのおいしいパリ日記」だったから、
それぞれの再放送も含めると、清岡先生・レナさんの番組には、
私は今回で丸二年、お世話になることになる。
聴き始めた当初は、そもそも天中殺だから何か学習をしよう、というのが動機で、
私は語学学習自体が随分と久しぶりだったし、フランス語にも欲などなく、
偶然にスペイン語講座のついでに聴いたら案外楽しかったので、
……という程度のユルい意欲しか持っていなかった。
まさか三年経ってもまだ面白がってやっているとは、想像していなかったな(^_^;。

今も別に、何か野心があって外国語学習をしているわけではないのだが、
検定を受けたり資格を取ったりということが、
就職でトクしたいとか、世間に認めて貰いたいということではなしに、
純粋に主観的な「やり甲斐」として、楽しくなったと思う。
学校に行っているわけではないし、語学で商売をしているわけでもないので
(ごく、たまに、英語でなら翻訳で報酬を貰うことがないわけではないが)、
語学講座での学習を積み重ねて、何か進歩したかなと思えるようになったとき、
語学試験で、それを一里塚みたいにカタチにして記録するというのは、
なかなか手応えがあって面白いことだと、今の私は感じるようになったのだ。
だから、……そうなのだ、仏語検定をそろそろ受けたらどうかという話だ(^_^;。

そのためにも、フランス語は「応用編」も含めて休まず続けたいと思っている。
今期の応用編は、つい先だってまで「初級編」担当でいらした、
國枝先生とパトリスさんの「La vie, au rythtme des événements
( 人生の新しい扉を開けるとき)」で、こちらもなかなか楽しそうだ。
語学号座は担当の先生のキャラクターによって、結構、雰囲気が違うものだが、
期せずして今期は、初級編も応用編も「笑い」にポイントのある番組が揃っている(笑)。

一方、『まいにち中国語』は今回も入門編だけになりそうだ。
一体、何度目の仕切り直しでしょうか(汗)。
性懲りもなくまた「你好 ニーハオ」から始める私であった。
今期は高木美鳥先生で、私にとっては中国語では初めての女性の先生だ。
Good Luck、自分(笑)。

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昨日は、発熱37度5分・下腹痛・軽い咽頭炎で、一日寝ていた。
イナズマで頑張りすぎたので、疲れが出た。コレに尽きる。

朝のうち、近所の内科に行ったら、
そこは奇しくも去年、イナズマに出かける直前にカクランしたとき
似たような症状を訴えて駆け込んだ医院だったので、
『またですか』とまでは言われなかったが、
先生のお顔には、それ的な表情が浮かんでいた。
「去年も、お腹が太鼓腹みたいだったと書いてありますねぇ」
と先生はカルテを繰りながら仰った。
んなこと書いてあるんですか、そこには(--#)。

対症療法でいい、というか、ほかにすべきことも見当たらないとのことで、
整腸剤と解熱剤を貰って、帰った。
先生のご見解では、可能性としては、4年前の筋腫手術のときの後遺症として、
たとえば大腸の一部に癒着ができて、それが時々の腸炎の原因になっている、
……ということも、考えられなくはない、ということだったが、
大半の癒着はそれ以上深刻になるということもないし、
よほどのことがない限り、この問題は積極的に追求しても仕方が無い、
とも仰っていた。
そういうものなのか。
まあ、もともと、左卵巣の内膜症で腸に癒着があったのだから、
手術しなくても癒着は最初から出来ていたわけだし、
現状なら、私もさほど困っているわけではないので、当面、構わないのだけれど。

そういうことで、昨日はとにかく、こんこんと寝た。
いくらでも寝られた。朝も昼も夕方も寝た。
午後遅くなってから、あまりにだるいので解熱剤を頓服的に飲んだら、
これがまた実に気持ちよく効いて、夜も早くから爆睡できた。
今朝もビョーキなんだから時間構わず寝ようと思い、朝10時半まで寝坊した。
思うのだが、私の場合、発熱というのはある意味で恩恵だ。
なぜなら、発熱して寝込んで睡眠をたっぷり取ったあとの爽快感というのは独特で、
普段元気なときに健康管理を心がけて休みを取ったとしても、
これほど自然に徹底的に眠ることは難しいからだ。

お蔭で、きょうは薬がなくとも熱が下がってすっきりした。
まだ下腹痛はいくらか残っているのだが、それも昨日よりは良くなった。
このまま順調に回復しますように。
何しろ、次の週末には、ゲルバーを聴きに行かねばならないからね(殴)。

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このところ、岡山で小学校英語指導者育成講座があったり、
大阪・京都・滋賀でイベント続きだったりで(殴)、
週末になるたびに泊まりがけで出かけていたものだから、
やはり、疲れが出た。
きょうは、軽く咽頭炎があって気怠い感じだった。
まあ、半分以上は道楽のせいなので、自業自得なんだけど。

それで、折良く、……というととても罰当たりなのだが、
今日明日は主人が所用で岐阜に出かけたので、私は家事全般をサボり、
休息することにした。
幸い、舅姑のお墓掃除・お墓参りも、昨日のうちにしてあったし、
お彼岸に向けての心残りも無かった(笑)。

朝は主人が始発の新幹線で出ることになっていたので、私も4時に起きたが、
6時過ぎに主人から『乗りました』のメールが来た後は、遠慮無く二度寝した。
娘も学校が休みで寝坊していたので、それも有り難かった。
昼前に娘が起きてきたので、ふたりで簡単な昼食を取り、
その後、私はまた布団に戻った。
昨日、お墓参りの帰りに寄った紀伊國屋書店で、
聖徳太子 悪行の聖者』(篠崎紘一・角川文庫)を買ってあったので、
漫画を読むような気分でそれを存分に楽しみ、それから昼寝した。

夕方から、娘が来月の沖縄修学旅行のための買い物に行きたいと言ったので
それにつきあい、100円ショップで懐中電灯、ユニクロでカーディガンを買い、
本通り商店街の薬局をハシゴして、洗顔フォームや虫除けなども携帯用のを購入し、
夕食はその帰りに、ふたりで近所のファミレスに行った。
娘も私も全く食にコダワリがないので、これだけでもう十分に幸せだった。

ああ、よく寝られたし、料理はしなくて済んで、最高の一日だった(殴)。

外はすっかり秋の気配で、夜には家に居てもなんとなく肌寒くなり、
娘も私も、長袖Tシャツを出して着た。
去年のこの時期は、まだ30度を超える気温で、連日ひどく暑かった筈だが、
今年はとても早く涼しくなり、文字通り「暑さ寒さも彼岸まで」で、
ずいぶんと正しい季節感であることが有り難いと思った。

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19日に、娘と一緒に昼の部を観に行った。
娘と歌舞伎を観るのは、ずいぶんと久しぶりだった。

『悪太郎』は右近の舞踊の素養が存分に発揮された役で、
楽しく観ることができた。
猿弥が智蓮坊の役で、ここでも活躍していた。
狂言から来ているわかりやすい演目ではあったが、
「だいぶん、言葉がわかるようになった。古文習った甲斐があったワ」
と見終わって娘が言った。そりゃ良かったな(^_^;。

そして次が、娘の目的であった『若き日の信長』。
勿論、私にとっても昼の部はこれが目当てだったのだが、
私が海老蔵を見たいがために来たのとは違い、娘の方は、
信長がどう描かれているかを見たくて来たのだった。

信長の海老蔵は、目千両で見事だった。
先代の團十郎を私は舞台では一度も見たことがない世代なので、
海老蔵時代の先代が演じた信長がどのようであったかは、写真から想像するのみだが、
役者の素がよく活かされた役として、当代海老蔵の信長も、
やはり「はまり役」と言える出来映えなのではないかと感じた。
声も野性的な響きがあって、なかなか良かった。
もう少し台詞がシャープなほうが、私は更に好みだけれど(汗)。

娘は、海老蔵にはオペラグラスを上げて見入っていたが、
中務(左團次)が切腹して、その遺骸に信長が懸命に呼びかける場になると
もう涙が止まらなくなってしまった様子で、大変そうだった。
私も勿論、心を動かされなかったわけではないのだが、
物語が進むほどに、弥生(壱太郎)の可憐なことに感心してしまって、
あちらもこちらも観なければならず、忙しかった。
中務の次男・監物(亀三郎)の声が素晴らしかったのにもシビれた。

最後に信長は、藤吉郎(翫雀)に一声、陣触れを出せと命じ、
自分は弥生に鼓を打たせて舞を舞う。
海老蔵の、迸るような荒々しさがうまく大きさとなって表現された、良い場面だった。
……と私が感じ入っていたら、終わったとたんに娘いわく、
「あれって、信長が舞ってたのって、『敦盛』だよね」。
出たな、歴女。

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