転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



明日、3月1日は、広島の多くの高校で卒業式が行われる。
娘の行っている学校も、高校のほうの卒業礼拝があるため、
中学まで休日になるという(--#)。

自分が高校3年だったときの、この時期のことを思い出してみると、
卒業式前日の今日にあたる日には、確か、久しぶりに登校したのだった。
2月は、高3は大学入試のために学校は自由登校、つまり休みで、
卒業式予行の2月末日に、1ヵ月ぶりで友人達と顔を合わせたのだ。

我が母校は広島でも標高の高い地域にあったので、
3月1日には、例年、よく雪が積もっていた。
だから、卒業式に来られた保護者の方々が、国立二次試験を目前に、
高校の正門前でスベったりコケたりなさる事件が、結構あった
(共通一次時代は、二次試験が3月4日~5日だったのだ)。
一方、卒業生である我々のほうは誰もそんな無様なことはしなかった。
雪や氷をやり過ごしながら登校して来たキャリアが、親とは違ったからだ。

3月1日は、私にとって、私大第一志望の合格発表の日だったが、
県外のその大学まで見に行く元気は全くなく、電報待ちだった。
当然のことながら、ネット発表など考えられもしない時代だった。
卒業式の間も私も頭を占めていたのは合格発表のことだけで、
これが学舎(まなびや)での最後の一日だという感慨など全くなかった。
この電文が「ホケツ」であった話は、前にも書いた通りだ。

・・・という思い出を、脈絡もなく、夕食のときに喋っていたら、
主人のほうは、高校の卒業式は、もっとあとだった、と言った。
主人も同じ広島の出だが、私立の男子校に行っていたので、
このあたりの日取りは、公立の我々とは違ったようだった。
「だって、ワシ、卒業式の日には、浪人決定しとったもん」

現役のとき主人は、「カネが勿体ない」という理由で、
国公立一本に絞っていた。これがアダになった。
「あれは、二次試験のために、東京に行く新幹線の中じゃった。
お袋が、食べんか言うて、チョコレートを一粒、くれた。
銀紙にくるんである、一口大の、ホワイトチョコレートじゃった。
・・・と、ワシは、思うた。じゃけ、油断しとった。
口に入れた瞬間、『%*&#$&!!!!!』」

なんと、主人がチョコレートだと思い込んで食べようとしたそれは、
ミニサイズの石鹸だった(爆)。
姑も勿論、ワザとではなかった(爆)。
お菓子と見紛うばかりの、綺麗な包み紙の、お洒落なそれは、
ゲスト用ソープみたいなものだったのだろうか?
それとも試供品か何かで貰ったものだったのだろうか??

「もうさ、辛いっていうか、痛いっていうか。口から爆発。
お袋が、『どしたんかね、腐っとるんかね!?』って言うたけど、
食べもんじゃないいうのは、一瞬でわかった(T.T)。死んだ」

これのせいで浪人した、と主人は今でも言っている。

Trackback ( 0 )




娘の熱は、今朝には36度5分になった。
昨日の夜8時頃に飲んだ解熱剤は、もう切れているだろうし、
熱の勢いはなくなってきた、と思って良いようだ。
まだ深いところからゼロゼロと咳が出る感じだし、
鼻炎も止まらず、咽喉もかなり痛いようなので、
きょうもう一日、学校やお休みすることにした。
が、昼までのところ頭痛はなく、
本人もとても気分が良くなったと言っている。
これでなおってくれますように~。

Trackback ( 0 )




今朝も娘は38度1分。
咽喉が痛い、咳が出る、ハナが出る、頭痛がする、
と症状としては普通の風邪ではあるのだが、熱が下がらない。
特にノドがノドが!と言うので、扁桃周囲炎にでもなってないか、
と調べてみたが、全体に赤いだけで、口蓋扁桃はごく普通だった。
やはりウィルス感染による咽喉頭炎なのだろうか。
アセトアミノフェンはよく効いて、飲むと熱は37度くらいになるが、
薬が切れると38度に戻ってしまって、ダルい様子だ。

入学以来、無遅刻無欠席だった学校を、ついに二日連続休んでしまった。
娘は布団をテレビの真ん前に持っていって敷き、
冷えたゼリーやリンゴを食べ、麦茶を飲み、
ケロロ軍曹のDVDを観まくり、疲れると漫画を読みながら寝て、
これで熱さえなければ天国、な過ごし方をしている。

Trackback ( 0 )




娘は今朝起きたら本格的に上気道炎になっていて、
咳は出るわ咽喉はゼロゼロいっているわで、発熱38度7分。
おまけに頭痛もするしハナも出るし、お腹もユルくて、
こんなハデな病気で寝込むのは娘には随分と久しぶりだった。

あいにくの雨だったが、頑張って近所の内科に行って診て貰い、
抗菌剤ジェニナックと解熱消炎鎮痛剤アセトアミノフェンを貰った。
まだインフルエンザの季節は完全には終わっていないのだが、
この界隈ではインフルエンザは今、ほとんど見かけないのと、
また、娘の年齢では仮にインフルエンザだとしても、
タミフルの使用には慎重になるべきなので、
「結局、のむ薬は一緒ですから」
と言われ、インフルエンザかどうかの検査はしなかった。

娘は寝放題、漫画読み放題、テレビDVD見放題、勉強しなくていい、
という、普通はあり得ない待遇について、
「病気も、案外、いいね。でも、やっぱちょっとキツいか(^^ゞ」
との感想だった。

Trackback ( 0 )




娘が学校から帰ってきて、
「咳が出る、咽喉が痛い、頭痛がする」。
随分久々な、正統派の感冒症状だ。
額はハッキリと熱かったが、
検温すると熱は37度5分ほど。

このあとどうなるかまだわからないが、
とりあえず明日は、A中入学以来、初欠席の予感。

Trackback ( 0 )




ラ・フォル・ジュルネ金沢のチケットを、取った。
エル=バシャのベートーヴェンを二回とも聴くことに、一応、した。
ほかのも聴きたいが、5月の連休ということで家族旅行になる予定なので、
期間中、私がこれ以外に単独行動できるかどうかは未定だ。
ともあれ、ついでに金沢市内にある母方の実家の墓参りを
三十年ぶりに(殴)して来ようかとも思っている。

・きょうの広島市内は、雪が降ったりやんだりだった。
昼前、雪の合間に出かけて、アルパークで買い物をしたのだが、
娘と私はJRで、主人は自転車で(爆)家を出て現地で合流したので、
帰りが大雪で、えらいことになってしまった。
私たちふたりは列車だから「凄い雪~」と窓を眺めていただけだが、
主人のほうは、モウモウと舞う雪やみぞれに顔を直撃され、
必死で自転車を漕ぎながら
「俺は、俺はっ・・・!遭難するっ!!」
と思ったそうだ。

・帰りに娘と私の乗った列車は結構、混んでいて、
ドア付近に立っていた私のすぐ後ろにも何人もの人がいた。
その、後方の人たちの喋っているのが、
『ギロロが』『ギロロがね』という内容のような気がして、
娘があまりケロロ軍曹に熱中するから私までこんなことに、と思ったら、
『クルルはね』と今度はハッキリ聞こえて、空耳でなかったことがわかった。
横目で伺い見ると、娘より大人びた感じの女の子たち二人組の会話だった。
やはり、ケロン軍による地球侵略と支配は、水面下で相当、進んでいる。
ケロンは、宇宙一、多分♪ (『ケロッ!とマーチ』 (YouTube))

Trackback ( 0 )




朝から物凄く眠くて、掃除や洗濯をしたあと、
また布団に入って、一時間半ほど、寝た。
それから起きて昼食の支度をしていたら、
娘が学校から帰ってきて、「ばり眠い」と言った。

ちなみに『ばり』とは広島弁で、「とても」の意味だ。
バリエーションに『ぶち』とか『ばち』とかもあって、
「ぶち眠い」「ばち眠い」とも言う。
『ばり』は英語のveryから来た借入語である、と某氏は言ったが、
私の考えでは、『ばり』は『ばち』の音便化と言うべきではないだろうか。
更に、これらの活用形のうち、「ばちクソ眠い」が最上級にあたるが、
これは事実上、女性は使用しないほうが良い語彙だ。

で、娘は昼食後、さきほどまで私が寝ていた和室で、
新たに布団を伸べて眠り姫(自称)となった。
私は、3月2日の清志郎京都公演のチケットを友人に渡す、
という用事があったので午後から2時間ほど出かけ、
帰ってきてみたら、娘はまだ、眠りこけていた。

娘がほかほかと寝ている布団を見たら、なんとなく入りたくなり、
私も再び自分の布団を出して横になり、気づいたら夕方5時だった。
きょうは、結局、午前も午後も、昼寝してしまったのだ。
外を見たら、暗くなっていて、雪が降っていた。
そうか、眠かったのは、寒かったからだ、と納得できた。
「起きろ~。五時だよ~~」
と娘をつついたら、
「早すぎるよ~・・・・・」
と彼女は寝ぼけていた。朝5時だと思ったようだった。

Trackback ( 0 )




<セルビア>「すべてを燃やせ」暴徒ら米大使館襲撃(毎日新聞)

MySpace関連の楽しい話で笑ったばかりだったが、ニュースを見たら、
ポゴレリチの生まれ故郷であるセルビアが大変なことになっていた。

私はバルカン情勢を論じられるような知識はないが、
チトー大統領の死後、ユーゴスラビアが加速度的に分裂した、
その過程を、ニュースとしてリアルタイムで知っていた世代だ。
多民族の多様性を内包した国家が陥った深刻な状況は、
日本しか知らない私の想像をはるかに越えたものだった。

1958年10月、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の首都ベオグラードにて、
クロアチア人の父とセルビア人の母との間に生まれたポゴレリチは、
80年のショパン・コンクールに、ユーゴスラビア人として参加したが、
その後十年で、彼の母国であった連邦は完全に崩壊した。
99年4月にイギリスBBCのインタビューで、
『あなたはセルビア人ですか』と尋ねられたとき、
ポゴレリチは、ただ『いいえ』と返答している。
91年にクロアチア紛争が勃発し、独立の共和国が成立したとき、
彼は、クロアチア国籍を取得することを選択したのだ。

昨年末、クロアチアの雑誌の取材に答えてポゴレリチは、
「2008年は、50歳の誕生日に、自分の生まれたベオグラードに帰り、
そこで演奏会を開きたいと思っている」
と語っていた。
その時点ではまだ、コソボ独立問題に関して、ポゴレリチも、
これほどの政情不安は予想していなかっただろう。

半島に平和をと単純にとなえても解決にならないことは承知しているが、
人が傷つけられ命が失われる暴動という手段は支持できないし、
やはり、一日も早い平和的な解決を祈らずにはいられない。
そして私は、ファンのひとりとして、かのピアニストの、
ささやかにして熱い望郷の思いが、遂げられることを、切に願う。

Trackback ( 0 )




前々から気づいているのだが、MySpaceに
「Ivo Pogorelich」さんが、居る。
http://www.myspace.com/ivopogorelich
要は、mixiに森田○義氏が何人もいたり、
梅○辰夫氏にマイミクリクエストを送っても返事がない、
みたいな話と一緒だな。

それにしても、せっかくだから空想してみると楽しいではないか。
iPodの存在そのものをご存知なかったほどのマエストロには、
これだけのページを構成するのはさぞかしホネであっただろう。
画像や音声ファイルが多くて、重くてかなわないが、
結構、マメに更新なさっているようで、意外な一面だ。
日本版最上部に『抜け毛で、もう悩まない!』という広告が入るのも素敵。

おや、リシッツァ女史とも既にお友達でいらしたのですね。

Trackback ( 0 )




娘が読んでいたので、私も今更ではあったが、初めて、
『小公女』(バーネット 伊藤整(訳))を通して読んでみた。
子供向けに編集された『小公女』は昔から知っていたが、
原作の完訳を読んだことは今まで一度もなかったのだ。

読んで、ちょっと意外に思った。
これまで、少女向けの童話としての『小公女』しか知らなかったので、
私は「逆境にあっても誇りを失わなかった、心の綺麗な女の子」
の話だという程度にしか思っていなかった。
セーラは、賢く純粋で、しかも強く、誇り高いヒロインであり、
一方、ミンチン先生や女学校の友人たちの多くは、
欲深だったり狭量だったり見栄っ張りだったりする、
愚かな悪役として、私は記憶していた。
それが、原作を読んでみたら、必ずしもそうではなかったのだ。

もちろん、原作のセーラを、私は心根の悪い子だとは毛頭思わない。
7歳のときの彼女の描写を見ても、彼女が優れた資質を生まれ持ち、
まっすぐに筋の通った少女であることは、間違いないと思う。
だが、彼女はそれ以上に、個性的な子供だった。
ユニーク過ぎて、ちょっとこれはついていけない、
と思う人がいても不思議はない、と私は感じた。

例えば、友人の中に、アーメンガードという、素直で気だては良いが、
かなり勉強の苦手な女の子がいて、彼女に向かってセーラは、
『あなたにできないことは、それはどうしたってできないことなのよ。
そして、わたしにそれができるというのだって――それは
わたしには偶然それができるという、もうきまったことなんだもの』
などと、物凄いことを平気で言うのだ。
「アーメンガードの成績が悪いのは彼女がさぼっているからではないので、
彼女が悪いのでは決してない」、という意味合いだから
友人をかばっているには違いないが、その実セーラは、
「生まれつき頭の悪い者には努力の有無は無関係、
その点ワタシは賢く生まれついているから勉強ができるのよ」、
とも言っているわけで、なんとも容赦のない台詞だ。

また、この本で描かれるミンチン先生は俗物の代表ではあるのだが、
彼女がセーラを不快に思う理由も、今回、私にはそれなりに理解できた。
例えば、仕事中にセーラが、ひとりで思い出し笑いをしていて、
それを叱ったところ、彼女は『考え事をしていた』と返答したうえで、
『もしわたしが公女さまだったら』
『もしわたしがなんでも思い通りにできるのだったら』、
公女さまに対して、先生はそんな口の利き方をなさらなかっただろう、
先生は、ご自分のなさっていることが、わかっていらっしゃいません、
等々と、先生に向かって言うのだ。

セーラの指摘は、正しくはあると思う。
ミンチン先生は、セーラのことを文無しの孤児だと思っているからこそ、
居丈高に振る舞い、自分のストレス解消のために体罰を与えるのであって、
もしセーラが大富豪の娘のままであったなら、
先生は何があっても愛想笑いを浮かべ、媚びへつらっていたに違いない。
先生は教育者でありながら、セーラ本人を見てはおらず、
彼女の持っている財産次第で、どうにでも態度を変える程度の人間なのだ。
だが、それでも、11歳の子供が、大人の叱責を全く意に介さず、唐突に、
『もしわたしが公女さまだったら』
などと語り出したら、やはり相当に気味が悪いのではあるまいか。
どんなに空腹でも、ひとり勝ち誇ったような表情をして空想をし、
時に堂々と反撃して来るセーラを、ミンチン先生が嫌悪した気持ちは、
私には充分に想像できる。

こうして見ると、原作の『小公女』は、
「鮮やかな自己主張をすることは、良いことだ」
とする、英語的な感覚を基盤にして書かれていると思う。
英語国民は、往々にして、黙っていることを美徳とは考えず、
自分が誰であり、何を考えているかについて、
明瞭な言葉で表現することを、ひとつの能力の証しととらえる
(と私の見聞の範囲では思われる)。

利発なセーラは、言葉を選びながらではあるが、
人間が生まれながらに能力差のあるものであることを、
友人のアーメンガードに向かってハッキリと告げているし、
また、俗物のミンチン先生を憎むことは決してしないが、
彼女がいかに愚かな女であるかを見逃さず、
それを面と向かって言葉にすることにも躊躇しないのだ。

しかし、このヒロイン像は、日本的な感覚では支持されないと思う。
日本では、「わたしが、わたしが」と前へ出て語るよりも、
無言で耐えることのほうが、健気であるとして好まれるし、
辛辣な口をきくことは、多くの場合、慎みのない態度として嫌われる。
日本国内で『小公女』の完訳版がさほど子供達に浸透していないのも、
ダイジェスト版で、日本的に和らげられた口数の少ないセーラ像のほうが、
日本人の共感を得やすかったからではないだろうか。

Trackback ( 0 )



« 前ページ