転妻よしこ の 道楽日記
舞台パフォーマンス全般をこよなく愛する道楽者の記録です。
ブログ開始時は「転妻」でしたが現在は広島に定住しています。
 



このところ、ジャパン・アーツの中藤泰雄会長の著書
音楽を仕事にして――日本の聴衆に、この感動を伝えたい
(ぴあ株式会社、2008年)を読んでいる。

80年代には、ソ連の芸術家を招聘することが、
どれほど特殊で困難な仕事であったかが、今になるとよくわかり、
私は当時、無知ゆえに恩恵にだけ与っていたのだと今更だが痛感した。
ジャパン・アーツはチェコのスメタナ・カルテットの招聘に始まり、
当初、共産圏のアーティストを日本に数多く紹介していたのだが、
83年の大韓航空機撃墜事件以降、日本国内でソ連に対する反感が高まり、
折しも『ソヴィエト芸術祭』開催を予定していたジャパン・アーツに対し、
「人殺しの国ソ連の芸術祭など、手がけるべきではない!」
という強い反発が、各種の抗議団体から寄せられたそうだ。

政治団体の連日の抗議、会社前での街宣車によるデモ、
事務所での押し問答や電話攻勢、テロ予告まがいの脅し、
など、当時のソ連への反発は凄まじかったということだ。また、
「不祥事を起こしたソ連の音楽祭を開催することを新聞等で詫びろ」
と要求されたり、会社に上がり込み机を蹴散らして暴れる人達がいたり、
その他、中藤会長の自宅への嫌がらせも数多くあったとのことだ。
それでも実現したソヴィエト芸術祭の各会場では、
警察にアーティストの警護を依頼し、入場の際には手荷物チェックをし、
突入しようとする抗議隊をやむなく逮捕して貰ったりもしたそうだ。

ジャパン・アーツは一歩も譲らなかった。
芸術祭開催を詫びることも一切しなかった。
「大韓航空機の事故の犠牲となった人達を悼む気持ちは、皆同じだ、
しかしソ連の芸術家たちには何の罪もない。
国同志の争いや民族間の反目が存在しても、互いの文化は尊重したい。
政治によって文化交流が妨げられることは、あってはならない」
という当時の中藤氏の主張に、今の私は全面的に同感だ。
あの国は嫌いだ、あの国のものは全部認めない、
などという硬直した思想は、文化交流や向上の芽をつみ取るだけで、
なんの益もないものだと思う。

まさにその83年の初秋、私は、レニングラード・ボリショイ・ドラマ劇場の、
初来日公演を観て
、そこで自分にとって革命的な経験をした。
ジャパン・アーツではなく、中央放送エージェンシーの招聘だったが、
同時期の中藤氏のご苦労を知った今になってみると、
あの公演もまた、よくぞ実現したものだと思う。
大韓航空機の事件が9月1日、東京公演初日が9月16日だったのだ。
どれほど多くの方々のご尽力があったことだろうか。

櫻井郁子氏『わが愛のロシア演劇』によると、
あのときの国立劇場は空席が目立っていたそうだが、
もしあの当時、「憎むべきソ連の芝居なんか観るものか!」と考え、
抗議活動としてあの舞台を無視した人達がいたとしたら、
私は今、その人達を心からお気の毒だと思う。
一面的な価値判断から自由になれなかったために、
あれほど偉大な宝をみすみす逃したのだから。

19歳だった私は、中藤氏のような高い次元の見地など全く持たず、
ただただ浮世離れした女子大生だったために、
幸か不幸か、ソ連に対して、ほとんど政治面での知識が無かった。
だから、真っ新な状態で、ソビエト演劇に出会うことが出来た。
世間が、それまで以上にソ連への反感と警戒を強めていた時代に、
私はそれと知らず、ただ興味のおもむくままに、
ソビエト演劇に耽溺し、ロシア語を学び、ソ連研究の講義を覗き、
ソ連大使館広報部から『今日のソ連邦』を取り寄せて読んでいたのだ。
そのような私に、何かを横合いから教え込む人が全く居なかったのは
本当に幸福なことだった。独り暮らしで良かった。

私は昔から「教養とお金はあればあるほど良い」という考えだが、
あのときばかりは、自分の無教養の御陰で助かったと思っている。
何かを知ったために一方向に凝り固まるくらいなら、
知らずに柔軟な嗅覚だけで行動できた私は、よほど幸せだったのだ、
ということを、四半世紀を過ぎた今になって、思っている。

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